嵐吹く三室の山の木の花は竜田の川の錦なりけり
駅から大和川を渡り、春さんが言っていた教会を左手に見て竜田川の合流地点へと向かう。既に視界の半分は三室山だ。
春さんの実家は、この小さな三室山の反対側。竜田川沿いに反時計回りで三室山の麓を回った。
今日は風が強い。
木嶋に背中を叩かれた日から、暦は丁度一段下に降りている。
あの佐保川で見た二人は、三日月の宵に行厨を広げ花を愛でたであろうか。だとすれば、丁度見頃であっただろう。
三室山の桜はこの風で、僕が一呼吸するごとに花の数を減らしている。
一分散り、三分散りと散りゆく様を呼ばないのは、そう呼ぶ時間もなく花は散ってしまうからなのだろう。僕の想いのように。
「春さん」
もっと大きな声で呼びたかった。
「やあ、君が郁人くんだね」
愛する人の名前を叫びたかった。
「話は聞いているよ」
もっと近づきたい。もっと近くで。
「『彼が来るかも知れない』とは言っていたが、まさか本当に来ようとはね」
春さんに触れたい。あの柔らかくて、暖かくて、甘い香りのする春さんを抱きしめたい。
「春さん!」
違う。もっと大きな声で呼びたいのだ。
「春さん!」
願いとは裏腹に、意思には歯向かって、胸に広がった苦い薬が嗚咽となって喉を締め付ける。
「本当に母が世話になりました」
散った桜の花弁が竜田川を染めている。春さんが話してくれたように。
五分散り、八分散りと散りゆく様を呼ばないのは、そう呼ぶ時間もなく花は散ってしまうからなのだろう。人の命のように。
「よくこの家が分かりましたね」
気が付けば、春さんの息子が私の前に立っていた。
「天から光が、差していましたので」
嗚咽を堪えながら言った僕の言葉を、春さんの息子は深く頷いて聞いてくれた。その彼に向かって僕は心から謝罪した。そして、天に向かっても、この大罪に与えられるべき罪を覚悟して詫びた。
「触れても、よろしいでしょうか?」
彼は頷き、棺桶の前からその身を退いた。
「ああ、会いたかったよ、春さん」
果たして僕は後悔するのだろうか。人生の最後に冷たい春さんに触れたことを。痩せこけて骨ばった春さんに触れたことで、人生を最期にすることを。
木嶋は僕が狂っていると言った。古都の鬼にでも操られているのではないかと。春さんが僕の祖母と幾つも違わぬ年齢だから。
だが、それだけで狂っていると言われるのは心外だった。彼女の魅力は僕にしか分からないのだろう。戦争で夫を亡くしてから、これまで強く生きてきた彼女の輝きは、僕の心を明るく照らしてくれた。
「春さん、君の魂は見つけたから、すぐに僕も行くよ」
三室山の桜の木の下、能因法師の短歌が刻まれている。
「嵐吹く三室の山のもみぢ葉は竜田の川の錦なりけり」
木の花、桜の花びらだけでは色とりどりの紅葉のように錦とは呼べまい。僕は僕の命を竜田川に流し、錦をなす一本の糸となり春さんの愛した風景の一部となった。
毒を食らわば皿まで。人を愛せば死ぬまで。花を愛でれば散り切るまで。
春の毒 了
春の毒 西野ゆう @ukizm
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