夢にまで見た

綿来乙伽|小説と脚本

夢にまで見た

「ありがとうございましたー」


 小学校の夏休み。家族で旅行に出かけたことがあった。行先はアメリカ。日本の情景と真逆の世界に驚き、飛び出そうになった目玉を抑えながら街を歩いたのを覚えている。その中でも一番印象に残っていたのは、コンビニの店員だ。沢山の商品に囲まれながらレジで待ち構える黒人が私と父を睨みつける。身長百四十センチにも満たない私は、簡単に飲み込まれそうだった。彼は何も発さず、日本で言う「いらっしゃいませ」「袋お付けしますか」「ポイントカードはお持ちですか」「○○円でございます」「ありがとうございました」が一言も聞こえなかった。言葉のやりとりは、会計をしていた父が言った「Thanks」の一言だけだった。当時の私は、このような接客がこの国で許されていることに驚いた。お客様は神様なんて考えは毛頭ない感覚が怖かった。だが、今の私は違う。アメリカで見たあの接客が心底羨ましい。


「いらっしゃいませー」


 当たり障りのない、マニュアル通りの言葉を何度も繰り返す。この言葉を必要だと思って発している日本人が何人いるんだろうと疑問に思う。会員証はあるか、いつまで借りるか、値段はいくらか、おつりはこれだと返せたらそれだけで良いはずなのに「丁寧」に託けて、曖昧な言葉が「省略」の邪魔をする。でもこれが無ければ無いで別の問題が発生する。いちいち接客態度がどうの、笑顔がどうのと訴えかける害悪と戦わなければならないのだ。その言葉遣いは品性に欠けると、わざわざマスクを外してビニールを突き破る勢いで話す客、売り上げに影響すると月に一度怒号を設置しに来るエリアの店長。世の中には、必要なものと、不必要なものと、不必要だけど必要だと思う人が多数いるので必要なものと、必要だけど必要だと思う人が多数いるので必要なもの、の四つに分かれている。三つ目と四つ目は、多数派の人間が意見を変えるか死なない限りは変わらない。世の中は「多数派」によって成り立っているものが多過ぎる。


「日奈森さん」


 学生バイトの矢田君が、店長に怒られている副店長の後ろを通って私に近寄る。


「またお願いしても良いですか」

「あー、はい。レジお願い」


 はい、と、神妙な面持ちで頷いた彼は、面倒な客を私にいつも押し付ける時、申し訳なさそうな顔をする。だが、私がレジから出ていくとその小さな抵抗も無くなり、いつものどこを見ているか分からないぼーっとした表情に戻ることを私は知っている。それなら面倒な客変わって下さいと正直に言われた方がまだマシだ。私は回りくどいことが嫌いなのかもしれない。

 レジを出て右、一番奥に進むといつものお客様がそこにいる。矢田君には申し訳ないが、この時間この場所に現れる彼女は、別に面倒な客ではない。むしろ、私のご褒美だ。


「お待たせしました」


 彼女が振り向く。彼女の笑顔は、斜め後ろからしか見れなかった高校の時と変わらない。


「これの続編って、もう出てますか?」

「続編ですね……」


 彼女と私はしゃがんで下の段を見るふりをする。


「あの子一生態度悪いね」

「矢田君?」

「そう、だと思う。あの眼鏡掛けた」


 二人でレジの方を見る。私の代わりにレジに立つ矢田君と、その後ろで俯く副店長、ボールペンを回しながらたまにパソコンにペンを叩きつけるエリア店長が見える。


「そのせいでお客さんからクレーム入って、副店長が店長に怒られてる」

「うわ、可哀想。社会の縮図って感じ」


 彼女は下の段から、全く興味の無いDVDを取り出し、パッケージを眺めるフリをした。


「あれ、自己紹介だよね」

「え?」


 彼女が矢田君のネームプレートに向かって控えめに指をさす。


「ヤダって、やだやだって。お客さんと話す時、すごく嫌そうな顔で駄々こねてるみたいなの」


 彼女が笑う。彼女の声は、レジどころか、近くの客にも聞こえていない。私は彼のネームプレートを見ながら、やだやだと駄々をこねる彼を想像する。


「ははっ」


 数人の客がこちらを向いた。彼女は驚いて、先程より少し大きな声で笑った。



「それ、上映中止になった作品だよね」


 彼女と話したのは、この日が初めてだった。小さい頃から映画が好きな私は、気になる映画を借りて、感想をノートに記していた。暇さえあればそれを眺めて、いつしか自分もこんな映画を撮れたらと妄想に浸った。授業と授業の合間の休み時間、いつも通りノートを眺めていると、斜め前に座っていた彼女が私の世界に潜り込んできた。


「……知ってるの、この映画」

「うん。おじいちゃんが映画好きで」

「へえ……」


 これだけだった。人気者の彼女と、一人きりの私。漫画のように対極にいた二人。だがひょんなことから、十年経った今、小さなちゃぶ台を挟んで座っている。



「これ新しい味?」

「コーンポタージュ味だって」

「コーンポタージュって需要あり過ぎじゃない?お菓子の味にもなるし、カップ麺にもなるって」


 彼女はコーンポタージュ味の麺を啜った。彼女は新しいものが好きだから、新しい味、新しい映画、新しいバイトの愚痴を見つける度に彼女に報告していた。小さな出来事でも、彼女がすかさず掬って食べてくれるからだ。


「そうだ」


 彼女は夢いっぱいの大きな鞄から、ボロボロの冊子を取り出した。


「この前の脚本。もうすぐ本番だから」

「新歓公演、だっけ」

「そうそう」


 彼女はちゃぶ台に冊子を置いた。表紙に「心理テスト」と書かれた脚本は、彼女が新歓公演のために書き上げたものだ。舞台は女子高。主人公のマヒルが、仲良しグループで心理テストを行なうところから話が始まる。女子高生が心理テストに翻弄され、いつも通りの高校生活が少しずつ変わっていくという物語。私が聞いたのはここまでで、公演を見るまでのお楽しみだと伝えられていた。私は表紙を開き、登場人物を見る。


「監督、榊みのり。助監督、和泉高広」


 彼女の先輩の名前だ。


「脚本、豊田いちか」


 まただ、と思った。


「まただった」


 彼女が言った。


「また、取られちゃった。今回は大丈夫だと思ったんだけど」


 彼女の作り笑顔は、私にとっては泣き顔だ。私の心をぐっと掴み、辛い悲しい悔しいを震えながら伝えてくれようとする。


 彼女には才能があった。だが彼女の脚本が評価されることは無かった。なぜなら、彼女の先輩である「豊田いちか」という人間が、彼女の脚本を自分のものだと偽るからだ。


「いちかさん、新歓公演には出ないって言ってたの。もう四年生だし、就活も進めなきゃって。私が脚本任されて、必死で書き上げて、ようやくお披露目って時に、あの人帰ってきた。脚本書いたから皆でやろうって、私の鞄に入ってた下書きを盗んで」


 彼女の先輩、豊田いちかはいつもそうだった。彼女が脚本を完成させたことに気付くと、自分の作品かのように全員に見せびらかし、脚本担当の場所に名を連ねる。彼女によると、豊田いちかは大学の理事長と接点があるらしく、豊田いちかがサークルにいる間は、やりたい放題。好きなメンバーしか舞台に出させなかったり、少しでも反発すると練習にも参加させてもらえなかったりするらしい。こんな在り来たりないじめが成人にもなって行なわれていることに憤りを感じる。それに、彼女が大学の演劇サークルに入ってから、彼女の脚本が何作品も奪われている。下書きを見つけられ清書した物を先に披露されたり、自分が書いたものを彼女が奪ったと罪を着せられたこともある。周りの人間は気付いていても見て見ぬふりをすることしか出来ないらしい。でもその度に彼女は「私はたくさん思いつけるから大丈夫。それに演劇は、誰が脚本を書いたかより、誰が演じるかだから」と話していた。私は彼女の中にある、小さく燃える闘志を見つめることしか出来なかった。


「だから、これ」


 彼女が冊子の演者のページを開く。主人公のマヒルの欄には、彼女の名前があった。


「また、出る側」

「うん。また主演、やるんだ。席用意しておくから、絶対来てね」


 彼女は高校の時から人気があった。その理由はたくさんあるけれど、きっと容姿も理由の一つだろう。彼女の可愛いさは今も変わらないし、豊田いちかが嫉妬する原因もそこにもあるのだと思う。だが彼女がやりたいのは脚本で、主演ではない。


「練習に追われて、あんまり静ちゃんの所に来られなかった。だから今日はお泊りね」


 大きな鞄からは、大量のお菓子が出てきた。夜はまだまだこれからだと、彼女の口から聞く前に、お菓子達が音を立てて伝えてくる。私は彼女を見た。いつも大丈夫だと話す彼女。だが今日は違った。ようやく自分の名前で脚本を披露出来ると思ったのに、違った。期待値は、上がれば上がるだけ下がった時の温度差は凄まじい。いつもみたいに、どうせ無理だと思いながら書いていた脚本とは訳が違うのだ。


「ほのちゃん」


 私は彼女を抱き締めた。彼女は明るく元気で皆の人気者だが、本当は大人しく、優しく、繊細な人だ。彼女は大丈夫と言いながら、心で涙を流せる人だ。でも私の前だけでは、私に涙を見せて欲しい。そう願って、いつもより強く彼女を抱き締める。


「静ちゃん、痛いよ」


 この痛みは、彼女の心の痛みを忘れさせるための痛みだ。抱き締める私の腕が痛いと感じている間は、彼女の心は痛くない。



「好きだよ、ほのちゃん」


 彼女の寝顔を見ている時、本当の彼女を知っているのは私だけだと思うと気分が高揚した。泣きながら眠った彼女の瞼に染みている大粒の涙が、月の明かりに反射して輝き、やがて頬を伝って流れた。これほど綺麗なものをみたことがない。この涙も、彼女が脚本を書く姿も、自分が我慢をすることで、自分の価値を自分自身で信じようとするところも、全部全部、私しか知らない。



「お客様、こちらは今貸し出し中でして」

「は?」


 客と目が合った。サングラスを外して私の目を睨みつけた。


「そちらにも書いてある通り、パッケージの中が無い商品は貸し出し中なんです。あと借りる際はパッケージから抜いて持ってきて頂けると」

「さっきからごちゃごちゃうるせえな。抜いて持ってこいなんて知らねえよ」


 小綺麗な格好で、容姿は整っているのに、そこから発された言葉がそれなら、どれだけ容姿を磨こうと意味が無いのに。


「会員証お預かりします」


 全てのDVDを借りられなかった仕返しなのか、会員証を投げられ、私の靴の横に落ちた。しゃがんで会員証を拾うと、カードの裏面には、小さく「ICHIKA TOYOTA」と書かれていた。


「豊田、いちか」


 そこからの記憶はあまりない。しゃがみっぱなしだった私に怒った豊田いちかが、副店長を呼んで会計を済ませたこと、何も喋らなくなった私に、少し休みなと私を抱き上げて休憩室に連れてきた副店長の顔、そして、好きな人の涙。


「殺したい」


 震える体を抱き締めながら心の中で叫んだ。



 私の好きな人は、岸部ほのかという。彼女は大学三年生。就職活動に専念するため、今年の新歓公演を最後に、サークルを辞めることにしていた。私は最後の晴れ舞台を観に行くため大学を訪れた。久しぶりに浴びた同世代の明るさに目を潜めながら、講堂へと向かった。


『着いたよ。楽しんで』


 彼女にメッセージを送って、パンフレットを広げる。彼女のボロボロの脚本に書いてあった通り、脚本は「豊田いちか」だった。「岸部ほのか」ではなかった。その代わり、主演の欄に彼女の名前があった。岸部ほのかは、どこに書かれていても、どんな場所にいても、彼女であることに変わりはない。彼女の作品が世に出ることに、変わりはない。


「会場の皆様に、お願いがございます」


 アナウンスが入った。若々しい、下っ端の子だろう。彼女の後輩だと思うと、覚束ない口調も愛おしく、自分の子どもの発表会のように微笑ましく聞いてしまう。大学の講堂はすぐに満員になった。中には立ってでも見たいと客席の端に並ぶ者までいた。彼女の脚本は、作品は、何事もなく終わり、幕を閉じた。



「男子バレー部の焼き鳥は、毎年金賞取ってるから美味しいよ」


 彼女に勧められて、あれよあれよと口にする。


「美味しい」

「良かった」


 彼女の目にはまだ、舞台仕様のメイクが残っていた。


「良かったよ、舞台。ほのちゃんの演技も、脚本も良かった」


 映画が好きで感想をノートにまとめていたはずなのに、人に届けるように言語化することが苦手だ。どんな言葉にも、棘と甘さがある。様々な語彙を使って甘さだけを抽出することが出来ないのだ。だから私は、明確である「良かった」という言葉だけしか口に出せない。


「静ちゃんが良かったって言う時は、本当に良かった時だね」


 彼女も私と同じように語彙力がない。映画好きと語彙力は決して比例しない。それでも彼女は、私の拙い言葉を笑顔で受け取ってくれる。


「次の公演、参加しないけど観に来るつもり」


 会場アナウンスを担当してくれた後輩が、彼女のアドバイスを受けながら脚本を書くらしい。


「七月末だよね。私も休み取って観に来ようかな」


 彼女の表情が固まった。


「先輩、いなくなってるよね」


 彼女の言う先輩は、豊田いちかのことだ。彼女の脚本は、豊田いちかがいなければ、彼女のものとして評価されていた。自分の後輩に同じ思いをさせたくないと思えるのは、彼女が誰よりも優しいからだ。


「もう四年生でしょ?いないよ大丈夫。後輩の名前、脚本の所に載るといいね」


 私は彼女を見た。彼女は目の前にあるチョコバナナ屋を越えて、大学を越えて、遠くの空を眺めていた。


「本当に、いなくなっちゃえばいいのに」


 彼女の言葉は、誰にも届かないように、私だけに聞こえていた。彼女の本音はいつも、誰にも聞こえない。



 豊田いちかが亡くなったのは、新歓公演から一週間が経った頃だろうか。


「次のニュースです」


 夕方のニュース、アナウンサーがいつも通りの声でニュースを読み上げる。政治家の不正、芸能人の一日警察署長、動物園にゾウの赤ちゃんが誕生。そして、△△大学三年生、豊田いちか二十二歳が、大学の踊り場で遺体となって発見された事件。

 捜査関係者によると、豊田いちかは、立ち入り禁止になっていた改修前の階段で亡くなっていたという。彼女の友人は、いつも人に囲まれていた、人望があり人気者だった、と語る。亡くなった原因は現在捜査中だという。


 ケトルの湯気が立ち上る。今日は彼女がうちに来る。お互いに裕福ではないから、特別なものも、高価なものも食べられない。夜中だからと値引きされた肉の塊や、月に一度のセールで安くなる少し高めのアイスクリームを買って、彼女と頬張る。これが私達の日常であり、幸せである。夕方、午後五時五十分。日常の中に一つのニュースが異物として入り込んで、見えている世界を歪ませた。この世で最も愛する人の、この世で最も憎む人が死んだ。人は、望んでいたことでもいざ叶ってみれば、固まり、思考が停止され、自分が息をしていないことすら気付けない。「きょうのべびー」というタイトルで始まった、視聴者の子どもや孫を可愛いと崇めるコーナー。子どもが初めてヨーグルトを食べて酸っぱい顔をしたところで、自分が呼吸をしていないことに気付き、倒れながら息をした。最後の子どもがスタジオのアナウンサーに手を振った時、彼女からメッセージが来た。


『今終わった。もうすぐ着くよー』


「やっぱりこの味買ってたね。被らないように買ってきたんだ」


 彼女は冷凍庫のアイスを見て、ビニール袋からアイスを取り出し入れた。彼女はいつもと変わらない。そんな彼女を受け止める言葉が見つからない。


「静ちゃん」


 彼女は、キッチンに立つ私を抱き締めた。私の日常に、この行為も、彼女に対する疑念も含まれていない。


「……ご飯もうすぐ出来るよ。おなかすいた?」

「静ちゃん」

「ほのちゃんが名前付けたいって言ってたゾウの赤ちゃん生まれたって。さっき言ってたよ」

「静ちゃん」


 彼女は私を強く抱き締めた。痛い。とても痛かった。でもおかげで、胸のざわめきが彼女の腕の縛りで溶けていく気がした。彼女は私と同じように抱えいている胸のざわめきを、私を縛り付けることで解決しようとしているのだろうか。


「……いちかさんが、亡くなった」

「うん」

「明後日、お葬式だって」

「うん」

「明日は休講になるんだって。改修される階段も、今日は見ることも出来ないくらいテープが貼ってあった」

「うん」


 私は胸のざわめきの理由を、どうしても彼女に伝えたかった。


「ほのちゃんは、いちかさんが亡くなった理由、知ってるの?」


 彼女の腕が少し緩んだ。その間に私は大きく息を吸う。


「……知らない」


 彼女の声は小さかった。本当のことを言っているんだと分かった。


「警察の人が自殺だって言ってた。でもいちかさんが自殺する理由なんてない。人の作品をたくさん盗んでも、何も思わない人だから」


 彼女の唇が、私の首筋に来る感覚があった。くすぐったくも優しい彼女の口づけは、彼女の不安を表していた。


「一緒なの」

「え?」

「夢にまで見た。覚えてる?」


 目の前が真っ白になった。小さい時に大怪我を負って血が溢れた時にホワイトアウトした時と同じ白さ。どこか怪我したかと錯覚した。でも怪我はしていない、血も出ていない、彼女が私の血を吸っている訳でもない。「夢にまで見た」。この名前が、私の視界を白くした。


「……初めて話したきっかけになった映画」

「そう。私達が生まれる頃には上映禁止になってて、でも私も静ちゃんもなぜだか観ていて」

「主人公を演じた女優の演技が上手すぎて、残虐な殺人を真似する人が増えるから……って」


 思い出した。


 公開後、すぐに上映禁止になった映画「夢にまで見た」。主人公の女性、ミナミは、プロの脚本家を目指して、日々応募を続けていたが、どれも実らなかった。ある日、受賞された作品がどれも自分が製作したものだと気付く。コンクールの主催者である安西智子に自分の手柄を奪われていたのだった。ミナミは怒り狂い、安西と安西の会社の社員を皆殺しにしてしまう。だが最後は、安西の愛娘に殺されて生涯を終える。彼女の人生に幸せだった場面は一つもなく、心の支えであった脚本執筆も他人に潰されてしまうという報われない結末を迎える。ところが上映後、主人公の可哀想な姿を憐れむ人より、残虐な殺し方に怒りが収まらない観客の方が多かった。主人公の悲しみより、人の命の尊さについて語る人間の方が多かったのだ。


「ミナミと私、一緒だ」


 彼女の手は震えていた。私の腹にあった腕は知らない間に私の二の腕に移動していた。私は彼女の震えを止める方法が分からず、振り向いて彼女を抱き締めた。


「一緒じゃないよ。ミナミと違って、ほのちゃんは人を殺してない。いなくなることは望んでいたかもしれないけど」

「ミナミも、安西のこと、殺してない」

「え?」

「ミナミのことを誰よりも応援していた、同級生の坂本が殺したの。彼がどうして安西を殺したか、どうやって安西を殺したかをミナミに伝えて、ミナミが精神的に追い込まれて社内全員を殺したの。坂本の考えがおかしいって話題になって上映禁止になったんだよ」


 ミナミの同級生だった坂本は、ミナミのことを誰よりも応援していた。それがだんだんと狂気的な愛情に変わったことに、坂本も、ミナミも気付かなかった。ミナミが安西に手柄を取られていることを知った坂本が、安西を会社の階段から突き落とし、包丁でめった刺しにする。坂本はミナミに、その時の情景もその感情も、まるで自分が罪を犯した気持ちになるくらい鮮明に話した。自分のせいで人が一人死んだことを知ったミナミは、「もうどうにでもなれ」と言い残し、安西の会社に向かう。はっきりと思い出した時、彼女は私の腕から離れた。


「静ちゃん、私は平気だよ。大丈夫だよ」


 彼女の必死に訴えかける目は、私の全ての勢いを止めようとしている気がした。


「……私、豊田いちかのこと、殺してないよ?」

「……そうなの?」


 彼女は、私が坂本のように、彼女の嫌いな人を殺したと思ったという。


「そんなことしないよ。豊田いちかは確かに好きじゃないけど、ほのちゃんを守るのに、人を殺すことは出来ないよ」


 人は、自分のために行動していても、どこかで誰かのことを意識している時がある。自分が満足しているだけだと思っていても、誰かのためになっていたり、人の為に行動していても、結局は自分のエゴで、自分しか幸福を得られていない時がある。彼女はそれを恐れていたのだ。


「そっか、そうだよね。静ちゃんは、たとえ好きな人の為でも、人は殺さないよね。坂本とは、愛の形が違うもんね」


 彼女のほっとした、どこか悲しげな表情は、一生忘れない顔をしていた。彼女はもう一度私を抱き締めた。私を潰すくらいに抱き締めた。こんなにも彼女を不安にさせるほど、彼女への愛が溢れていたのかと思うと少し恥ずかしくなった。



 翌日の朝、隣で寝ていたはずの彼女がいなくなっていた。代わりに、殺人容疑でネットニュースに載っていた。


 アルバイト先に着くと、たくさんの野次馬とマスコミで賑わっていた。ただのレンタルビデオショップが、黄色と黒のドラマでしか見たことが無いテープで囲まれていて、私が働き始めて一番人が集まっていた。こっそりと従業員入口に行くと、学生バイトの矢田君が走ってきた。


「日奈森さん」

「おはよう」

「おはようじゃないですよ。今朝のニュース見てないんですか」

「見たよ。でもシフト変わってなかったし」

「変わるわけないじゃないですか。シフト調整してるの副店長なんだから」

「このお店畳むのかな。バイト探すの面倒だなー」


 私はタイムカードを切った。



 おはようございます。今朝のニュースをお伝えします。昨夜未明、〇〇区のレンタルビデオショップ〇〇店で、男性が血を流して倒れているところを通行人が発見しました。男性は病院に運ばれましたが、まもなく死亡が確認されました。亡くなったのは、レンタルビデオショップ○○店で働く、加藤雄介さん三十二歳。加藤さんは閉店後、従業員出口から自家用車に向かう間の道で発見されました。逮捕されたのは、○○区に住む岸部ほのかさん二十一歳。岸部容疑者は△△大学の三年生で、演劇サークルに所属していました。岸部容疑者は「大切な物を守るためだった。もうどうにでもなれと思った」と供述しており、容疑を認めています。


 警察署に来たのは初めてだった。岸部ほのかが財布を無くした時、一緒について行ったことがあるが、それも随分前の話だ。私は同乗していた警察官に連れられて、自動ドアを潜った。部屋に着くなり、悲しそうな顔をしたスーツの男性二人がいた。彼らは私と目が合うとすぐに逸らして、一人はパソコンを開き、一人は写真を並べ始めた。パソコンには、私が映る店内全ての監視カメラの映像、たくさんの写真には私の私物が並んでいた。


「亡くなった加藤さんが所持していた物です。貴方の物で間違いないですか」


 私が頷くと、写真はすぐに仕舞われた。


 亡くなったのは、レンタルビデオショップの副店長だった。彼は定期的に監視カメラの映像を持ち帰っては、私が映る映像だけを編集し自宅で保管していたのだという。よくエリア店長に怒られていたのは、矢田君の態度の悪さではなく、監視カメラの定期的な取り外しが原因だった。警察官は続けて、岸部ほのかの話を始めた。


 岸部容疑者は昨夜、監視カメラの確認のため、従業員入口の鍵を開けようとしていた副店長を、後ろから数か所刺したという。女性とは思えない力強さが、刺し傷から垣間見え、相当な恨みがあったと見られるそう。


「彼女とのご関係は?」


 岸部ほのかと私は、曖昧な関係だった。恋人になりたいと言ってもないし、言われてもいない。寂しい時や辛い時に一緒にいて、都合の良い時に愛し愛される仲だった。私達の存在自体、世の中には接客マニュアルくらい不必要な存在で、この関係が美化されるのは、人間が織りなす作品の中だけだと知っていた。だから私達は演劇や映画が大好きだった。現実で多数派にバレてしまったら、私達のような人間なんて不必要になることくらい分かっていたから。黙る私を警察官が見つめた。


「被疑者が供述している、大切な人、というのに心当たりはありませんか」


 人生にハッピーエンドなどない。この前岸部ほのかと観た映画で、一番の悪役が満月を背に叫んでいたのを思い出す。その通りだと思った。プロポーズが成功した時の喜びの雄叫びが、やっと眠りについた赤ちゃんの耳に届いてしまったら、子守歌を再開しなくてはならない。誰かのハッピーエンドが誰かのバッドエンドを生むことだってある。岸部ほのかが私のためにバッドエンドを選んでくれたのだとしたら、私はハッピーエンドを選ぼう。彼女と、彼女への愛と、彼女からの愛は、私の心の中で、生き続けるから。


「……分かりません」


 一番の悪役はその後、主人公に殺され、正義のヒーローが称えられるというハッピーエンドを迎えた。

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夢にまで見た 綿来乙伽|小説と脚本 @curari21

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