被り物

今日くらり|小説と脚本

被り物

 人生で初めて、一人でコンビニに来た。小さな箱の羅列は、綺麗に整えられたばかりだった。正しく並んだ彼らを一つずつ見つめて、彼らの個性も知らないまま吟味するフリをする。見知らぬ左手が、一番右、真っ赤に染められ大きく数字が入ったその箱を二つ取った。私と同じ年くらいだろうか。彼は私の顔も見ずレジに向かった。

 私の周りには、常に上と下がいた。小学生の時、短距離走は三位か四位だった。中学の時、得意科目である生物のテストの順位は、上から十番目だった。何事においても、頂点を目指すには、相当な努力を要することは知っている。毎日走る練習をしたら一位になれたかもしれないし、得意だからと高を括っていないでもっと勉強をしたら良かったのだ。でも私にはそういう所がある。努力を惜しまない精神力が無く、かといって下にも行きたくない。上にのし上がる根性も、下にいられる我慢強さも持っていない。そんな自分が、嫌いだ。


 私は小さな慈悲を持ち、売れ残っている小さな箱を手に取った。


『今日暇?うちで映画観ようよ』


 彼からメッセージが来たのは授業中だった。気付いたのは連絡が来てから二時間後。


『学校終わったらすぐ行く』


 彼のメッセージの一文字一文字が嬉しい。私を私と認めてくれた人は、彼が初めてだ。彼と出会って数か月。好きになってもらいたくて、初めて努力しようと思えた。身なりを良くしたり、楽しそうに話を聞いたり、彼が気に入った服装にしたりした。もし彼がショートカットが好きならずっと伸ばしていた髪も切るし、好きな人が赤い紅をさした人が好きなら赤いリップを探せる。これが「好き」なのだと初めて知った。私にとってこの小さな箱も、彼に近付くための一歩であって、大切なことなのだ。私はあなたのことが好き、あなたに好きになって欲しい。そんな思いを込めて、箱を潰れないように握りしめた。店の奥、誰も見ていないそこだけ空気が淀んだ雑誌コーナーに行き、監視カメラの位置と誰も見ていないことを確認して、スクールバッグの奥底に入れた。


 レジに立つ若い男性店員は暇そうだ。こちらの様子どころか、誰の事も見ていない。自分の指のさかむけに夢中だ。相当な捲れ方なのだろう。あまり剥き過ぎると血が出ることを彼は知っているのだろうか。解決することのない疑問を持ちながら、わざとレジの前を通り過ぎる。入口に着いて、自動ドアが開く。ふと左を向くと、雑誌が並ぶ場所に男性が立っていた。さっきは自分の鞄と、握りしめた物の行方にしか興味がなく、隣に誰がいたか、どんな表情をしていたかなんて見ていなかった。雑誌の前にいた彼は、グラビアの袋とじをどうにかして見ようと悪戦苦闘している。袋とじは手で開けられる物なのだろうかと私も雑誌を見つめる。だが男性は諦めたのか、雑誌を閉じて、コンビニの入口を見た。


 私と目が合った。


 男性は私の目を見て、服を見てバッグを見た。まさか。バレたか。いやそんなことはない。誰にもバレないように入れたはずだ。監視カメラにも、他の客にも、レジの若い男性店員にも見られてない。でも男性はこちらをじっと見ている。どこかで見たような、男性の鋭い目。吸い込まれそうだった。だがバッグの中にある小さな箱は、彼に好かれるための道具なのだから、離すわけにはいかない。私はぎこちなく目を逸らして、コンビニを後にする。私は彼に会いに行くのだ。


 彼のアパートの前まで来た。コンビニから徒歩五分。少さなアパートの今にも壊れそうな螺旋階段を昇って二階。あと数十秒で、大好きな彼に会える。階段に向けて足を踏み出した時、雑誌を必死に見ていた男性の目が脳裏に刻まれていることに気付く。


「万引きGメン……」


 昨日テレビでやっていた「警察二十四時」を思い出した。コンビニ強盗を防ぐため、万引きGメンと警察が協力して犯人を逮捕する。万引きGメンは、客のフリをして店の中で怪しい人を観察し、物を入れた瞬間をその目で確かめる。コンビニにいた彼は、テレビの万引きGメンと同じ目をしていた気がする。彼は後々私を捕まえにやってくるのだろうか。私は警察に逮捕されるのだろうか。親に報告されるのだろうか。……大丈夫。きっと大丈夫なんだけど。


「逮捕はされない、学校に、連絡……」


 検索をかけたスマホを閉じた。大丈夫。きっと大丈夫なんだけど。気が付けば彼の家から遠ざかって、コンビニに走っていた。


 男性はコンビニから出てバイクにエンジンをかけたところだった。今年十七歳になる女子高生とバイク、速いのはもちろん後者で、バイクは大きな音を立てていなくなった。まっすぐ、まっすぐ走った。私は追い掛けた。間に合わなくても追い掛けた。会えないかもしれないけど追い掛けた。今ならまだ許してもらえるのかもしれない。そう思って、追い掛けた。


 コンビニからまっすぐ進んで路地裏に入った先にある無人の公園。さっき見た大きなバイクがそこにあった。ベンチに座る男性は、さっきコンビニで私を見ていた人だ。


「あの」


 男性は振り向いて驚いた顔をした。


「これ」


 私はバッグから小さな箱を取り出す。


「え?」

「すいませんでした。もうしないので家族には」

「え、いや、待って。何の話?」

「え……万引きGメンじゃないんですか?お客さんのフリして、万引き捕まえる」


 男性は首を傾げた。


「店員さんにも何も言われないし、他のお客さんも気付いてないのに、あなただけ、目が合った、から」

「……それで?」

「あなたに言えば、許してくれるのかな、って」

「……なるほど」

「すいませんでした!」


 私は深く深く頭を下げる。土下座も考えたが、女子高生がしている姿を見たことが無く、父と兄の間くらいの歳の人の後頭部しか見たことがなかった。


「いやいやいや、そんな頭下げないで。申し訳ないんだけど、僕は万引きGメンじゃないし、ただの客。あと、万引きGメンに物返しても、あんまり意味無いんじゃないかな」

「そうなんですか?」

「だって万引きGメンはボランティア……あれ、違うかな」


 彼は私から箱を奪う訳でもなく、私を叱る訳でもなく、私に手を差し出した。


「はい」

「え?」

「スマホ。今時の学生なら持ってるでしょ?万引きGメン調べるから」


 スマホ、持ってないんですか、とは聞けなかった。話し方は優しくても、弱みを握られている状況で、何をされるか分からない。パスワードを解除して、スマホを渡した。彼は画面に顔を近付けながら検索をかけている。


「あの」

「ちょっと待って、あ、門限とかある?もう遅いもんね」

「いえ、今日は大丈夫です」

「そう?一回座ったら?走って来たんでしょ」

「え……?」


 男性は自分の隣を指さした。私は疑いながらも、男性と少し距離を開けてベンチに座った。


「万引きGメンって会社から雇われるんだ。契約社員、パートもある。え?バイトみたいな感覚ってこと?うわ時給高」

「あの、私は」

「ん?」

「許されるん、ですか」

「……んー、まあ店員にバレてないんだしいいんじゃないの?俺もただの客だし」

「はあ」

「そんな万引きごときで緊張しなくていいって。むしろ万引き成功を喜んだら?」

「……本当に大人ですか」

「君、面白いね。俺が未成年に見えるの?」

「そうじゃなくて。怒らないんですか?何してるんだとか、親が悲しむぞ、とか」


 男性は少し黙ってから、私の顔と、服と、私の左手を見た。


「そんなん自分のエゴでしょ。盗んだものだって、女子高生なら持ってても困らないものだし、必需品なんじゃないの?レディに買わせるのはどうかと思うけどね」


 男性は、私が左手に握りしめて、原型を留めていない小さな箱を指で叩いた。私は咄嗟に後ろに隠した。


「彼氏に頼まれた?」

「え?」

「一人では使わないじゃん。……あー、いいや。そこまで踏み込むもんじゃないよね」

「彼氏じゃ、ないです。まだ」


 彼氏じゃない。自分で言った言葉に落胆した。彼はまだ彼氏じゃない。まだと言っても、いつ彼氏になるのか、そもそも彼氏になってくれるほど彼に好かれているのか、私は彼の何番目なのか、何もかも分からないままだということを自分自身が発した言葉で知らされる。左手で持っていた小さな箱も、気付けば両手で握りしめていた。


「もしかして、面白い話?」


 男性は嘲笑っていた。人の不幸は蜜の味というが、彼は蜜どころではない、不幸を主食としている人の顔だった。


「馬鹿にしてるんですか」

「してないよ。まだ馬鹿に出来る話か分かんないし」


 男性は再びスマホに目を向ける。操作があまり分かっていないようで、慎重に指を滑らせていた。


「うちで映画観ようって言われたんです」

「うん」

「異性を、映画を観たいって家に誘うって、もうその、助長だって、サイトに載ってて」

「サイト」

「これ持って誘ったら、彼女になれるかな、って思って」

「でも買うのは恥ずかしくて、盗んだ」

「はい」

「そいついくつ?」

「え?」


 男性は私にスマホを返して言った。


「その、好きな男?いくつよ」

「二十一」

「大学三年ってとこか。君は?いくつ?」

「十七、です」

「四つねえ。一番格好良く見えるでしょ。合コンで出会ったとか?」

「友達の、バイトの先輩」

「あーありきたりだね」


 男性は煙草を取り出して火をつけた。ここは喫煙が許されているのだろうか。そんなことを考えて、見知らぬ男性に自分のことを徐々に知られているという現実から逃れようとしている。煙を纏った二酸化炭素が宙を舞った。


「同じ香り」

「は?」

「彼と、同じ香りだと思って」


 男性は私に近付いた。口元にはまだ煙が残っていて、私の顔面を覆うように、彼は大きな口を開けた。


「そいつ、この煙草持ってんの?」

「同じ香りだと思います。あ、煙草って皆同じ香りですか」

「違う、全然違う、特にこれは違う。もう随分前に製造終了してて」


 男性の勢いに、後退りしようにもベンチの背は曲がらない。男性は我に返って、ごめん、と言いながら私から離れた。私の周りは彼の香りでいっぱいだった。


「まあ、こんなんで緊張してるようじゃ、それ使えないって。あとね、高校生に手出す大学生は止めておきなさい。それはただ同級生に相手にされなくて、歳下に手出してるだけだから」

「あなたに、何が分かるんですか」

「分かるよ。俺は大人だよ?君には未成年に見えてるのかもしれないけどさ」


 男性が煙草を吸って、息を吐いた。その白い息、私のような子供は、冬の真っ只中、早朝にしか出せない。それも、気温の低さに頼ってようやく半透明の白さがやっとだ。子供の私は、何をしても中途半端だ。


「この煙草、最後の一本だったんだよね」


 彼は空を見た。まるでさっき自分が吐いた煙を惜しむように。


「ねえ、そいつの煙草、奪ってきて」


 彼は私の犯罪歴を増やそうとした。だが、彼の顔は真剣そのもので、相当な愛煙家であることが分かった。


「大丈夫。君は立派な万引き経験者だよ。あと、盗んだの知られたら、大変なんじゃない?」


 男性のその言葉に、自分が罪を犯したことを再認識させられる。男性の言うことを聞かないと、私は逮捕される。両親や兄になんて言われるか分からない。怖かった。私は悪いことをしたんだと胸を抉られた。だがそれと同時に、どこかほっとした自分がいた。


「上にも下にもなれないなら、圏外でいい」

「ん?」

 彼がこちらを向いたことには触れず、彼の家へと歩き出した。



 玄関のドアを開けた彼は、中々不機嫌な顔をしてたけれど、私と目が合ってすぐに作り物の笑顔に変わった。


「いらっしゃい」


 どれだけ作り物だと分かっていても、人工の優しさでも、自分しか見ていないこの瞬間だけを信用したいと思ってしまう。彼が私にくれる表の部分だけ見ていたいと願ってしまう。彼の部屋には、男性の煙草と同じ香りがしていた。やはり同じものだ。テーブルには灰皿と煙草が置いてあり、パッケージが同じことを確認した。


「吸いたいの?」


 彼の家に入ってすぐ、煙草を凝視していたらしい。煙草に興味を持った女子高生がそこにいた。


「いや、大丈夫」

「そう」


 映画を観始めても、私の緊張は収まらなかった。大好きな彼が横にいること、少し触れている肩の感覚、知らない間に繋がれている右手。こんなに幸せなことはこれ以上ないはずなのに、目の前の煙草の盗み方しか頭にない自分は、果たして彼のことが本当に好きなのだろうかと考えさせられる。私がテレビから煙草の灰皿に目を向けている間に、彼がこちらを向いて、私の顔を振り向かせた。そして、口内が彼の煙で溢れた。初めての感覚に、気持ちが高揚している自分と、恐怖を感じている自分がいた。彼が私を受け入れてくれて嬉しい。たとえこの数時間だけだとしても、私にはそれしか価値が無かっただけで、数十秒でも私に向いているのならそれでいいと思った。彼が私を倒した。何人の女性がこの薄っぺらい座椅子に押し倒されたのだろう。どんな女性が両手をここに縫い付けるように掴まれたのだろう。どうしようもない疑問が頭を過る。でもそんなことどうだって良くて、この日をずっと待ちわびていたはずだった。


 助けて。


 そう望んだ時、頭に浮かんだのは、あの髭面の男性だった。


 ピンポーン


 彼の手が止まった。気付けば作り笑顔はどこかに置いてきたみたいだった。どこを探しても、彼の作り物は見当たらない。


「UberEATSでーす」

「……頼んだの?」


 私は聞き覚えのある声を理解し頷いた。彼は大きくため息をついて、私から離れていく。


「そんなに腹減ってんなら先言えよ」


 彼が立ち上がって私から離れる。彼が真っすぐ玄関に向かったのを確認して、煙草をポケットに入れた。彼はドアノブを掴んだ。


 ドアが開かれると、見覚えのある顔が、聞き覚えのある声で話す。


「ごめん嘘」


 男性は彼の上半身を蹴り上げて。彼はその場に倒れた。私はすかさず玄関に走った。勢いよくドアを閉めて、男性が私の腕を掴む。


「あっ靴履いてねえじゃん」

「あ……」

「もー!迎えに行くって行ったんだからすぐ靴履きなさいよ」


 男性は大きなため息をつき、背を向けてしゃがんだ。


「乗れ」

「え?」

「お嬢の足を傷付けるわけにはいかないから。早く!」


 私はよく分からないまま、男性の背中に乗った。男性はうおっと低い声を鳴らす。


「勢いすご、おんぶされたことないの?」


 彼は笑って立ち上がり、軽快な足取りで螺旋階段を下った。私をバイクに乗せ、ヘルメットを、ん、と渡される。


「付けれる?」

「付けたことないです、バイクも初めて」

「おんぶもバイクもヘルメットも初めて?俺あの餓鬼より初めて貰ってんじゃん」


 彼は私の頭にヘルメットを被せた。


「しっかり捕まってないと落ちるから!」


 彼に抱き着く腕が強くなったと同時に、バイクのエンジン音が、夜の静寂の中に鳴り響いた。


「おい!待て!」


 彼が玄関を開けてこちらに何か叫んでいる。彼のTシャツには、男性に蹴られた跡が綺麗に残っていた。その姿は私が彼に描いていた幻想を少しずつ剥がしていった。

「えー、ドア開けるの早過ぎでしょー。まあもう間に合わないけどね」


 バイクが走り出した。私達は、男性の笑い声を置いて、その場から去った。



「どっちがいい?」

「えっと、こっちで」

「ラッキー、俺が好きな方はこっち」


 男性はニヤリと笑って私にペットボトルを渡す。


「あの」

「んー?」

「万引きごときで緊張しなくていいって、言ってましたよね」

「あー、言ったっけ」

「万引きごときって、白戸さんはもっとすごいことしたって事ですか」


 男性は私の目を見て、すぐに逸らした。コンビニで最初に目が合った時よりも早く、彼の目線はどこかに飛んだ。そして、何かを諦めたような目をして空を見上げた。


「その苗字、嫌いなんだよね」


 ブラックコーヒーの缶を開けて、彼は口を覗いていた。


「どこまで調べたの」


 彼が飲み物を買っている間、私はスマホで彼のことを調べた。彼のことを、どこかで見たことがあったからだ。



 彼の名前は白戸春樹。十年前、当時五十三歳だった父、白戸穣を殺害した罪で指名手配されていた。当時二十七歳だった春樹は、母親である白戸裕子五十歳と、妹の白戸結衣二十歳を自宅から追い出し、父親を殺害後逃走。行方不明になった。十年経った今でも、彼の居場所を知る者はいない。


「俺、都市伝説みたいだな」


 彼は笑って、ようやく一口飲みこんだ。


「逃げたかったら逃げてもいいよ。ああ、ここどこか分かんねえか」


 彼が見えなくなる所までバイクを走らせて、見たこともない山奥、無人駅の前にバイクを止めていた。私の足ではどこにも帰れない。


「怖い?俺」


 彼の問いに、私は首を横に振った。


「俺人殺しだよ?怖くないの?」


 確かに風貌は怖い。髭面と、無造作な髪と、黒のライダース、フルヘルメット。そして、何かを隠している鋭い眼差し。私がコンビニで彼から目を離すことが出来なかったのは、彼の殺人事件後、ニュースが流れる度に彼の顔がテレビいっぱいに晒されていたからだ。まだ小学生だった私は、彼のニュースが流れては、目に焼き付けるようにテレビに張り付いていた。自分の家族を殺すなんて信じられなかったけど、並外れた行動に、少し羨ましく思っていたのかもしれない。


「怖くない、私が出会ってきた大人達の方がずっと怖い」

「人殺しより怖いやつっている?」

「子供が、自分の思い通りにいくと思ってる大人、とか」


 私は小さい頃から家族の人形だった。母からは女の子らしい服や礼儀を押し付けられた。少しでも反抗すれば、彼女の罵声や号泣が家を埋め尽くすことを知っていたから、我慢を重ねていた。父と兄は、私を見世物のように扱った。父と兄の表彰式や、大事な接待には学校を休んでまで参加させられた。お母様に似ていて綺麗な子ね、大人しくてかわいくて、本当に羨ましい、ぜひうちの息子と結婚して欲しい。そんな言葉を、耳が腐りちぎれそうになるまで聞いた。私を私として扱わない家族は憎くて仕方が無かったが、自分は自分の力では何も出来ないから家族に従わなければいけない。そう思って今まで生きてきた。目の前にいる彼のことは何も知らないけれど、どこか、彼と自分を重ね合わせることが出来た。


「子供は、自分の分身だと思ってる大人、とか。自分より弱いから、何をしてもいいと思ってる大人、とか」


 言葉が止まらなかった。心の奥底に隠しておいた、家族に対する蟠りが溢れ出て気持ちが悪い。食あたりを起こした時の、何とも言えない腹痛、吐き気、もやもやの塊が体中を駆け巡る感覚と同じ。自分にしか分からないのに、思うように上手く体外に出てくれない。悔しく悲しく、息苦しい。


「分かった。分かったから」


 彼は私の呼吸を整えられるように背中をさすった。それは、今まで私にたくさん触れてきた大人達とは違う、嫌ではない温かさだった。やっぱり、彼は怖くない。


「俺と、お嬢が怖いっていってるそいつらの違い、教えてあげようか」

「違い?」

「期待だよ」

「期待?」

「お嬢に期待してる、期待してるから頑張れ、君は出来る子だよって。言われたことない?」

「……あります」

「だから演じ切る。仮面を被って、自分の人生は人が決めて当然だと思ってしまう。過度な期待は、自分では外せない仮面を被せるのに」


 彼はいつの間にか無くなっていたブラックコーヒーを、最後まで飲み尽くした。


「俺はお嬢に期待なんかしてない。何にも出来ない子だと思ってる。おんぶもされたことないし、バイク乗るのも、ヘルメットも初めてだったし。そんなお嬢を認めてくれたのが、あいつだけだったんだよなきっと」


 彼の言葉で、煙草を盗んできたことを思い出した。スマホ以外の全てを彼の家に置いてきた私が所持していたものは、スマホと煙草の箱だけだった。クラスメイトとお揃いで買ったストラップや皆が推しているアイドルグループのバッジがついた大きなスクールバッグは、色々な思い出が詰まっていて重かった。でも中身はいつも空っぽだった。


「自分を自分と認めてくれる人に、俺も会ってみたかったな」


 彼は乾いた声で笑った。


 彼と一緒に空を見上げる。彼に最初に会った時は午後四時を回った所だった。今は何時だろう。スマホを確認しようとしたが、手を止めた。彼といるこの時間は有限な気がしたからだ。最後があると分かっていながら、最後を確かめるようなことはしなくていい。


「これ、煙草」


 私はポケットから煙草を二箱取り出す。テーブルに乗っていた残り数本の箱と、下に落ちていた新品の箱。


「え、二つも?ナイスー」


 彼の笑顔は作り物では無かった。彼は作り物が苦手なのかもしれない。もしくは、作り物に飽きて、技術をどこかに捨ててきたのかもしれない。


「俺、行くわ」


 彼はヘルメットを手に取った。


「え?でも私」

「大丈夫。ここ電波通るからスマホで連絡出来るでしょ?怪しい男に連れ去られて、気付いたらここにいましたって言えば良い。お嬢の言葉ならきっと、信じてくれるから」


 彼は、私が政治家の娘であることを知っていた。でも彼がお嬢と呼んでいたのは、私があまりにも世間知らずだったからで、誰かの娘、誰かの妹なんて考えはない。彼は最後まで私を「私」として見てくれた。


「白戸さんは、どこに行くんですか」

「名前で呼んでくれる?最後だし」

「……春樹、さん」

「はーい」


 彼はヘルメットに触れた。彼は振り向かなかった。少し声が震えていた気がしたが、風を遮る家屋も建物もないせいで荒れ狂う強風に揺られただけかもしれない、と思うことにした。


「今日は、人生で一番楽しかった」

「それは良かった」

「春樹さんがいたから」

「人殺しは感謝されるべきじゃないよ」

「春樹さん」


 強い風が、彼の長い髪を靡かせた。彼の片目が見えた時、彼の瞼は輝いていた。


「私は、春樹さんのこと、春樹さんだと思ってるから。誰の子供でも、誰の家族でもない。白戸春樹って人間だと思ってるから」


 彼に届いただろうか。彼が私にしてくれたことを、私もしてあげたかった。風が邪魔をして、これだけ近くにいても声がかき消されてしまう。もう一度伝えようと口を開ける。


「池上沙羅って言うんでしょ、名前」


 名前を呼んだ彼は、私の方を見ていた。


「沙羅。君はまだ、仮面を外せるよ」


 彼の笑顔は、十年前に観た彼の鋭い目つきを裏切るほど優しかった。最後に見えた彼はバイクと共に遠くに消えていった。私は追うこともせず、ただバイクがいなくなるまで眺めていた。



 二週間後、白戸裕子六十歳と、娘の白戸結衣三十歳が逮捕された。罪状は、白戸穣当時五十三歳と、白戸春樹三十二歳の殺人。裕子容疑者と結衣容疑者は十年前、白戸穣が睡眠中に包丁を用いて殺害。その十年後、容疑者二人に罪を着せられ、指名手配犯にされていた白戸春樹を山奥に呼び寄せ、焼身自殺に見せかけて殺害した。今回二人の殺人が明らかになったのは、白戸春樹が前日に会っていた女子高生に渡した、事件の真相を書いた手紙が警察に提出されたからだった。捜査関係者によると……。



 授業のチャイムが鳴った。授業と授業の合間の数分間でも、前日のドラマとか、SNSで話題のインフルエンサーとか、二組の森下さんと渡辺君が付き合ったとか、高校生が見つけられる程度の世間話を繰り広げる。以前までは私もその中の一人だった。池上家の娘として扱われることが多かった私は、高校生の「普通」は、自分自身で掴まないと手に入れられないものだったから、とにかく必死だった。だが今はどうだっていいと思える。

 彼と出会ったあの日から、時間がある時は手紙を見返すようになった。メモと言っても少し厚めな手のひらに乗るほど小さな紙だ。事件が明るみになってからは、世間は「白戸家の秘密」として、テレビやラジオ、ビルの広告やSNSまで彼と彼の家族の顔を晒していた。彼は十年もの間、やってもいない罪を被って人気のない道をひっそり歩んでいたのである。可哀想という言葉では何とも表せない彼の最期の日。私と共に過ごしてくれた彼が、天国で幸せになることを願う。


 彼が私にくれたメモは、まだ仄かに彼の煙草の香りが残っている。


「池上沙羅。君は君のままで生きて」


 この手紙を見る度に、被っていた仮面が、綺麗に剥ぎ取られていく気がした。



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被り物 今日くらり|小説と脚本 @curari21

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