木一堂とあたしの或る日⑯
「それじゃあ、あたしもそろそろ帰りますね」
阿佐見さんに視線を向けるが、彼は何も言わずに数度頷いただけだった。あたしは地面に置きっぱなしになったバッグを拾い上げると、軽くお辞儀をして、そのまま店を出ようと背を向ける。
「十万円です」
すると、不意打ちの一言があたしの背中に刃物となって飛んでくる。
「え?」
驚きのあまり、そんな間抜けな声を発することしか出来ず、ぎこちなく後ろを振り向く。すると、そこには意地の悪い笑みを浮かべた店主がいて、自分の頬が不自然に吊り上がるのが分かった。あたしは観念して溜息を一つ吐き出して、雑誌をそっと置いた。
「また来ますね。今度はじっくり読むために」
「えぇ、お待ちしております」
その言葉に安心して、今度こそ店を後にする。
一歩店の外に出ると、先程までの本屋の涼しさは消え、今度はむっとするような熱気があたしを襲った。
夏の日差しはまぶしく、空を見上げるだけで一苦労だ。手を屋根のようにかざして空を見上げると、まるで作り物のように真っ白な雲が浮かんでいた。その光景を見て家に帰ったら二葉亭四迷の『浮雲』を久々に読んでみようかな、なんて考えたが、すぐに違う本が頭の中に浮かんだ。
「ギロチン、ギロチン、シュルシュルシュ」
『斜陽』に出てきた、その言葉を何となく呟いた。その言葉の意味することは現代を生きるあたし達には、本当の意味では理解出来ることはないだろう。きっと、かず子の言った〈人間は、恋と革命のために生まれてきたのだ。〉という言葉も、同じように、きっと百パーセント伝わることはないのだろう。
もしかしたら、木一堂に通い続けると、少しは分かることもあるのかもしれない。そう思いながら後ろを振り向くと、そこには褪せた画用紙も、アイスボックスもなかった。代わりにあるのは無機質なシャッターと、その上にもの悲しく貼り付けられた【売り家】の文字が書かれた看板があるだけで、人の気配がする物は何もなかった。
お待ちしておりますよ、って言ったものね。
あたしはもう振り返らずに、自転車のサイドスタンドのロックを外し、家に帰るために歩き出し始めた。
蝉の声が耳元でうるさく鳴り続けるが、気分が良いからだろうか。少しも嫌な物には感じられなかった。
夏の午後の日差しは相変わらず強く、お世辞にも気持ちの良い物であるとは言えないが、それでも、以前よりかは遙かに心地の良い物であるように思えた。
次はいつ行けるだろうか。
あたしの心は、夏の空気みたいに、どこか浮き立っていた。
〈了〉
木一堂とあたしの或る日 海 @Tiat726
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