#6 僕が、目になろう

 

 

「鶴嶋君~っ」

 

 もはやインターホンも鳴らさなくなったか。俺は「はいはい、鶴嶋君ですよ」と、ギリギリ戸の外に聞こえるような声で、玄関に向かって歩く。

 

 ドアを開けると、もはや見慣れてしまい、ありがたみもクソもない薄着の宮さんがいた。

 

「宮さん、どうしたんですか」

「どうしたって、私が来るときなんて大体決まってるでしょ?」

 

 ほう。今回はどんな料理が来るのかな。

 

「……と、言いたいところだけど。今回は回覧板よ」

「ありがとうございます。では」

 

 一瞬、イタリア料理に『カイランバン』という料理があるのかと思ってしまった。あったとしたら響き的にシーフード系だろうな。貝とか入ってそう。

 

 宮さんは、少し大き目の回覧板をこちらに差し出す。俺は急いで戸を閉めようとする。後ろから視線を感じるからだ。

 

 しかし宮さんは、ドアの隙間にサンダルを挟む。最近はこれが流行っているのだろうか。この放送協会を装った詐欺師がやりそうな手法が。足だから足法か。

 

「ふふ、なあに? 急いでドア閉めようとして。私に見られたくないモノでもあるの?」

「別に人型風船とかないですよ」

「えっ!? まさか……シリコン?」

「ラブドールを買う金なんかないですって」

 

 本当に、何もないのだ。ただ少し、嫉妬の視線を後ろから感じるだけで。

 

「ふふ。ごゆっくりっ」

「……マルゲリータ、美味かったッス」

「ありがと♡ じゃあね~ん!」

 

 ドアが閉まった音がしたとたん、俺のベッドから布擦れの音がする。別に服を脱いでいるわけではない。ただ、真白が隠れているだけだ。

 

 俺を泣かせて以降、彼女は休日に必ず、俺の家に来るようになった。泊まり込みで。

 

『おはよ~っ!』

『……ん』

『低血圧だなあ』

『そこまで……普段と変わらねェだろ……』

 

 今朝もそんな調子で俺の部屋に来た真白。

 

 さすがに客人なので、俺は床で寝るといつも言っているのだが、真白がこのルーティンを始める初日にマットレスや布団などの寝具一式を持ち込んでくるものだから、ありがたいことに俺は普段と変わらず布団で寝ている。

 

 彼女には、休日の食事の半分を作ってもらっている。なので少しくらいは贅沢を言ってもいいと思うのだが、彼女としては『少しでも長くアトムといられれば幸せだもん』と言ってきかない。

 

 その意見に関しては、俺も完全に同意するが。

 

 真白が布団から顔を出す。

 

「バレなかった?」

「……多分」

 

 俺はふうっと一息をついて、座布団に座る。真白も俺にならって、ちゃぶ台のほうにやってくる。

 

「別に、バレてもよくねェか?」

「なんか秘密って感じがよくない?」

「まだ付き合ってもねェのに」

「で、返事は?」

「もっとお前のこと、知ってから」

 

 結局、俺は真白の返事を保留したままだ。いつまで返さないのかは、俺にも分からない。真白のことを、ある程度まで理解してから決める。

 

 でも、多分、どれだけ理解しようとも、よっぽどのことが無い限り彼女のことは嫌いにならないし、返事は変わらない。彼女と付き合いたいことには変わらない。

 

 真白は可愛らしいふくれっ面で、俺の頭を撫でる。

 

 撫でると言うには、その手つきはあまりにも愛玩的ではなく、俺の頭皮までをもわちゃくちゃに揉み解すかのようだった。

 

「これは許してくれるクセに」

「……」

「うりうり」

「んっ」

「え、何いまの声。初めて聞いた! かわいい~~っ!」

「やめ……くすぐってェっつの……」

 

 いたずらっぽい笑顔で、真白が力を強める。

 

 くすぐったいと言ったが、俺は真白に強めに頭を撫でてもらうのが好きな方だ。日に3回はやってもらいたいほどに。

 

 しかし、何故こんな気持ち悪いことをしてもらいたくなるのか、何故こんなにもみっともないことが好きなのかは分からない。

 

 本能が気持ちよくなっているだけであって、俺の中の触覚や痛覚はむしろ嫌がっているはずなのに。快楽を超えた何かに精神が負けそうになっているのかもしれない。

 

「うへへ、お尻も触っちゃおうカナ~?」

「お前、たまにオッサンみてェだぞ」

「中身はカワイイからいいんですっ」

 

 確かにカワイイけども。

 

 真白が俺から手を離す。少しでも残念そうな顔をしたらこいつは調子に乗るだろうし、俺もなんだか負けた気分になるので、絶対に表情は変えない。

 

 好きだという自覚を持っていても、彼女に対して素直になるのは難しい。

 

 俺はタバコに火をつけ、換気扇のところまで歩く。

 

「その中身の話をしてンだよ」

「見た目は?」

「山梨のオードリー・ヘップバーン」

「やぁだ~! もう~っ!」

「叩くな。微塵も痛くないけど叩くな。灰が落ちる」

 

 いつの間に後ろに立っていたのか分からないが、真白は俺の背中を強めに叩いてくる。ほら、少しでも素直になったらこれだよ。

 

 個人的な経験に基づく情報ではあるが、ハイライトは灰が飛び散りやすいという特徴がある。風の強い場所で吸うと分かりやすいが、本当に他のタバコと比べて灰が脆いように感じるのだ。コンロに落ちる灰燼は、季節外れの雪のように散る。

 

「だんだん素直になってきたね」

「隠し事が無駄なのと……まあ、もう……心にもない嘘は、こりごりだからな」

「んふふ」

 

 照れ隠しが分かりやすい彼女は、俺に後ろから抱きついて背中に頬ずりをする。

 

 胸の当たる感触が腰あたりにあるが、今は寝起き一発目の一服の時間。彼女のカップ数よりも、外の電線にとまっている小鳥たちの数について意識が集中する。

 

 やはり起きたらまずタバコだ。寝ている数時間のあいだはタバコを吸えないから、俺は寝るたびに数時間禁煙をしていることになる。

 

 考えてもみろ、一日でひと箱、多い時はそれ以上のタバコを消費する俺が、数時間吸っていなかった後に、家の中で行う行動とはなんだ。まず換気扇の下に行き、ハイライトを口にくわえ、ジッポを開けることだろう。

 

 金属に彫られた忍野忍が笑っている。やはり『痛ZIPPO』は良いものだ。ほとんどのキャラがスロットか何かで出た作品のキャラなのは、客層的に仕方のないことなのかもしれないが。

 

「ねえ、今日は出かけない?」

「……どこに行くかによる」

「中華街っ! 横浜に来たからには行ってみたいんだよねっ」

「行き飽きた」

「え"~!!」

 

 横浜市民ほど中華街と赤レンガ倉庫には行かない。常識だぞ。山梨県民ほど忍野八海には行かないのと同じように。

 

「た、確かにハイジの村とか行かないけどぉ……」

「あれはほぼ長野だろ」

「あ~~~~!! 細かいとこ指摘されてお腹減ってきた!!」

 

 お前、そんな体質だと面接練習したり卒論添削してもらったりするたびに腹ペコになっちまうだろ。

 

「やだやだやだ行きたい行きたいっ!! ダージーパイ食べたい~!!」

「デカい肉好きな~、お前」

「えへへ、好きぃ~」

 

 屈託のない笑顔。こんな顔して男子小学生みたいな食の好みなの、俺としてはこいつのずるい所だと思ってしまう。

 

 まあ、たまには普段行かないところに行ってみるのもいいだろう。キャンパスが近いわりにあまり行っていないし。俺がタンスの前で部屋着を脱ぎかけたところで、真白が背中を叩く。

 

「ンだよ」

「ちょっと外に出てて。着替えるから」

「俺も着替えるんだが」

「……好きとはいえ、恥ずかしいんですけど」

「そういうもんなのか?」

「というか、私の着替えを見たいならまず付き合ってください~」

「見たいわけじゃあない、別に背中向けて部屋にいる分にはいいだろって言ってんだ」

「分かってないなあ!」

「分からずやはどっちだよ」

 

 結局、俺がまず着替えてからいったん外に出るという、なんとも不公平なやり方で着替えは終わった。これから週末、出かけるたびにこうするのか。面倒ったらありゃあせん。真白とデートができるのであれば、このくらいなら見過ごせるが。

 

 ワンルームでの着替え方論争で数十分を浪費した俺たちは、保土ヶ谷駅前のバス停まで空っぽの腹を抱えて向かった。

 

 腹の中に、昨日の夜から互いの唾液しか入れていない俺たちの足は、心なしか速かった。反対に、106系統の横浜市営バスは、普段よりも遅く感じた。

 

 40分と少しして、俺たちは関帝廟前に到着した。隣で大きな声ではしゃぐ真白を横目に、俺はダージーパイの食べられる店をマップアプリで検索していた。

 

 中国の風をまとったチャイナタウンに、着物と下駄姿の白髪と、スニーカーとパーカーのストリート系がふたり。あからさまに空気中の異国情緒飽和量を超えている。異国情緒で水滴でもできるんじゃあないのか。

 

 考えに考えた結果、何はともあれ、とりあえず歩いてみよう。という結論になった俺たちは、中華街を縦断するかたちで大きな通りを歩くこととなった。

 

 屋台も多い。イチゴ飴や甘栗なんてのもある。建物と建物の間には赤く丸い提灯のようなものがぶらさげられており、あちこちから鼻腔をくすぐるいい匂いがする。

 

「お」

 

 通りすがった野外喫煙所のほうから、声が聞こえた。男の声だ。真白の知り合いだろうか。東京住みとはいえ、このあたりの観光地ならば顔見知りのひとりやふたり居ても不思議ではない。

 

 ここまで前振りをしておいて、俺の数少ない顔見知りだったら笑えるな。笑えねェよ。

 

 喫煙所のほうを見ると、見慣れたアズールブルーのアイコスイルマを持ったグラサンが立っていた。

 

「あっ」

「空飛夢。久しぶり」

 

 低めだが、柔らかめの声。俺の目星と聞き耳に狂いはなかったようだ、残念ながら。

 

「誰、この人」

「部活の仲間」

「仲間って言ってくれるのは嬉しいけど、素直に友達って言いなよ」

「……学友」

「ははっ、同じ学部でもないでしょうに」

 

 こんな扱いを受けても不満の色ひとつ見せない彼は、『劇団紫炎組』の同期。『中川 定助なかがわ じょうすけ』だ。同期と言っても、一浪している俺のほうが年上だ。

 

「真白、こちら定助。定助、こちら真白」

「洋画みたいな紹介……」

「あ、定助さん? 私、沙羅田真白! ……同じ『演劇人』だよ」

 

 真白の顔つきがガラリと変わるのを、久しぶりに見た。

 

「オーラが見えるのか。演劇、そこそこやってるのかい?」

「五年と、ちょっとになるかな」

「ふぅん、高校演劇経験者……僕と同じだ」

「えへへっ」

 

 彼も、にやりと笑って見せる。演劇人の血が騒いでいるヤツらを見るのは好きだ。俺は舞台を降りたとはいえ、休日はよく演劇鑑賞に行くほどには演劇そのものからは離れていない。

 

「空飛夢。真白さんとは、どういう関係なの?」

「高校の同級生」

「アトムの彼氏で~す!」

「あ、やっぱり?」

 

 やっぱりって何だ。一浪老け顔ヤニカス白髪に、こいつが相応しいわけがないだろう。

 

 俺は真白の頭に肘を置く。嫌そうな顔ひとつしていないのが腹が立つ。

 

「まだ返事は返してねェぞ」

「まだ? それって、どういう?」

「聞いてよ定助さ~ん! この人、私の告白をずっと保留してるんですよ~!? どう思います!?」

「まだ2週間だ」

「十分保留してるじゃないか……」

 

 呆れた顔の定助。まあ、部活からも好きな女からも逃げているように見えちゃあ、呆れもするか。

 

「まあ、それは君たちの問題だから、僕は下手に口出ししないけど……空飛夢」

「ンだよ」

 

 彼は相変わらずの白い歯を見せ、俺に向かってアイコスイルマの本体をちらつかせる。

 

「久々に、一服しないか」

「……断る理由はない」

 

 俺も着物の懐からジッポを見せる。口には出さずとも、久しぶりの同僚との喫煙タイムに対しては、至って俺の気持ちは乗り気のそれである意を表する。

 

「ごめんね、真白さん。空飛夢、ちょっと借りてくよ」

「え~? 私もついていっちゃダメ?」

「喫煙者なら、まあ」

「俺の受動喫煙しかしてねェぞ」

 

 実際、俺がタバコを吸っていようがなんだろうが、こいつは『なんだか落ち着く』と言って離れない。隣で喫煙することに対しての嫌悪感といったものは、根底にないのだろう。

 

「じゃあ、10分ほど」

「ふ~ん、分かった。あそこのゲーセンにいるね?」

 

 しかしどうだ、彼女はアッサリと喫煙所とは真逆の方向にある、大きなゲームセンターの方に行ってしまった。

 

 おかしい、と思った旨を定助に話すと、「きっと、空飛夢と二人だからいいんだろ。邪魔だったかな、僕」などとぬかしやがる。こいつはこいつで頭がお花畑なのだろう。

 

 中華街にある、銀色の筒状の灰皿がぽつんと置かれただけの、むき出しの喫煙所には、俺ら二人しかいなかった。ふだんよりも人々の往来が増す休日にしては珍しい。

 

 普通なら見過ごしてしまいそうなみすぼらしい喫煙所だが、壁に『ポイ捨て禁止』『路上喫煙禁止地区』などの張り紙が所せましと貼られており、通りすがる人々は灰皿に対して冷たい視線を浴びせていた。

 

「2025年ともなると、すっかりと喫煙者は肩身が狭くなるね」

「お前、まだ吸い始めて二年も経ってないだろ」

「いいや、分かるね。母さんが吸っててね……平成の喫煙者は、もっと気軽なもんだったよ」

「駅のホームでも吸えたって話なら、耳にタコができるほど聞いたぜ」

「うん、喫煙所が少なくなったって話もそうなんだけど……まあ、端的に言えば『喫煙者の扱い』だよ」

 

 こいつの言いたいことはよく分かる。俺だって同じ意見だ。喫煙者をみだりに差別するのは、いかれてるとしか言いようがない。このデジタル社会で、足が速いやつがモテる世の中なのに、変なところだけ価値観が変わっていきやがる。

 

「未来に生きたいなら、まずは文化部の部費を増やせってんだ」

「運動部は、スポーツ用具を山ほど消費する部活だからね。そこの部費がかさむのは分かるさ、しかし……」

 

 しかし、演劇部だって大学のホールを常に貸し切って練習できるわけじゃあない。学園祭の本番でさえ貸してくれやしない。あいつらは大学演劇をまだアングラな学生運動だとでも思っているのだろうか。だって広い空き教室に自分たちで暗幕を張って、照明を取り付けて、音響用のアンプをつないで──自分たちだけで一日かけて舞台を作っている。

 

 ホールも貸さず、部費もろくにくれやしない学生生活課の、キャンパス内の喫煙所に張り出した『タバコは身体を悪くします!』という下手糞な絵のポスターを見たときには、課の建物を不審火で燃やしてやろうかと思ったね。

 

 令和にもなって、タバコを始めるほうが悪いのだろうか。この前、同僚がラーメンズにハマってしまい、『今ハマっても供給が全くない』と嘆いていたのを思い出した。

 

「まだハイメンなのか」

「お前こそ、一生電子吸ってんな」

「銘柄はまだ決まってないけどね」

 

 リッチレギュラーの青い箱を開け、定助は笑う。

 

「この前、古屋先輩と話した」

「へえ、なんて?」

「戻ってこいってさ」

 

 定助の顔がにやつく。笑顔の種類は違えど、こいつは大概つねに笑っている。

 

 同じ学部のなかには、それを不気味がるやつらもいる。常に仏頂面の俺なんかよりは、ずっといいと思うがね。いるだけでその場が和むという人間も、集団の中には必要だ。俺の高校の部活にも、おんなじように笑顔を絶やさないやつがいたな。

 

「あの先輩、お前にガチ恋だもんな」

「そうでもないだろ」

「えぇ~、さすがにその当事者意識のなさはヤバいって。怒るよ? 女性陣が」

「『南美みなみ』は特に怒りそうだな」

「それを言うなら『はなちゃん』もだよ」

「『花』か……なんだか懐かしいな。『すず』は?」

「変わらず部長のケツ追っかけてる」

「好きだねえ。『若菜わかな』は?」

「何言ってるかわかんない」

「あいつ、人間なのか?」

「僕たちも分からないんだよねえ……」

 

 懐かしい同僚の近況を聞き、俺は郷愁のようなものを感じる。やはり、俺の魂があるべきところは、演劇部なのだろう。

 

「……『ミヨ姉』は?」

「うーん、だいぶお疲れ気味かな。『上の人たち』とも、まだ小競り合いしてる」

「ツイッターを鍵垢にしてたのも、それが原因か」

「たぶん、ね」

「しかしまあ、まだ争う気力があンのか。元気なこって……俺なんか、大学行くだけで精一杯だってのに」

 

 俺は彼にならって乾いた笑い声をあげてみせる。しかし、それも愛想笑いの亜種だと見抜いたのか、定助は顔に影を落とす。

 

「空飛夢は、まだ戻れそうにないかい?」

「それはお前らが一番よく分かっているはずだろ」

「まあ……ね」

「お前らが許しても、『獅子王ししおう』たちが許さないだろうよ」

 

 そう言うと、彼のアイコスを持つ手が震え出した。今にもその近未来的で脆そうなボディがへし折れそうだ。

 

「僕らが、必ず何とかしてみせる」

「できたところで、今更俺が戻っても何も……」

「分かってないなぁ」

 

 彼らの気持ちと、俺の気持ちは似ているようで通わない。『上の連中』に恨みは持っているが、彼らの望む『鶴嶋空飛夢が部活に戻ってくる』という結果には、俺は賛同できない。

 

 憎き奴らの圧力に負け、舞台を降りた俺は、皆に合わせる顔がない。

 

「空飛夢が戻ってきてくれるだけで、いいんだよ」

「またまた」

「まあ、欲を言えば同じ舞台でもう一度……」

「行くぞ~」

「ああっ! 肺活量は健在だから吸うのが早い!」

 

 喫煙所の向かいにある、三階建てほどのゲームセンター。その二階にいるとの旨の、彼女から来たスマホのメッセージが先ほど届いていた。

 

 二階に向かう階段を登り切った先にあったのは、大量のハンガーラックだった。そこにかかっているほとんどの服は、チャイナ服である。奥には関係のないナースやメイドの服も置いてあるが。

 

 立てかけてある看板を見たところ、これを着て当店内のプリクラで思い出作りの一枚を撮ってみたり、中華街を歩いて中国気分を味わおう! といったような目的を帯びた、コスプレ貸し出しサービスだった。

 

 後ろからドタドタと足音が聞こえる。見ると、追いついてきた定助だった。

 

「いない……?」

 

 遅れてやってきた定助が、フロアを一望してこぼす。

 

「いや……」

 

 俺は試着室の四角いボックス、そのカーテンの前にある底の厚いスニーカーを見る。

 

 下駄の音で分かりやすいのだろう、そこに近づくと、案の定カーテンが勢いよく開けられた。

 

「じゃ~ん!」

「ッ……」

 

 そこにいたのは、黒を基調とした青のラインの際立つ、スカートタイプのチャイナ服を着た真白だった。ご丁寧なことに、お団子までつけている。

 

 胸の部分にある竜の刺繍が、Fカップによって押し上げられ、今にも飛んでいきそうな迫力がある。画竜点睛とは、このことだったのか。あれ、確か中国の話だったし、本当はチャイナ服がおっぱいで押し上げられて竜が完成するという話でも違和感はない。

 

 桃太郎の物語も、ジジイとババアが若返って子供を作ったという原案から大幅に子供向けに変更されたという話もあるし、故事成語にその程度の改変が入っていても何らおかしい話ではない。

 

 スカートの丈も膝上10センチ。生地は思ったよりもしっかりとしているようだ。なんだ、このゲーセンは。こんなの貸し出してラブホテルにでも向かうカップルがいたらどうするんだ。

 

 まあ、この中華街の近くのラブホなら、ホテル側でチャイナ服の貸し出しくらいはしていそうだが。

 

「どうっ、似合ってる~?」

「…………」

「あれっ、あんまり驚いてない?」

「いや、これは驚きすぎて固まっているときの空飛夢だね。はいっ! ということで!」

 

 定助は、俺の耳元で余計な事を叫ぶ。

 

「空飛夢の気の利いた一言まで、あと3秒~!」

「アイコス割るぞコラ」

「グローもありますぅ~」

「そういう問題かよ」

 

 俺は定助の胸ぐらをつかみながらも、その傍らで笑う真白を見る。

 

 彼女にかける、気の利いた一言。別に勝手に課されたタスクなので、言わなくてもいいとは思うんだが、ここで何かを言わないと真白は根に持つ。

 

「まあまあいい料金したろ。レンタルの金、俺がおごるよ」

「……きゅんっ♡」

「ええっ!? 今のでいいの!?」

「アトムぅ~~!! ありがと~っ!! えへへ、この優しさも貴重なエネルギー源だからねっ」

「逆モンスターズ・インクだ。悲鳴じゃなくて優しさで生きてる」

 

 誰がマイク・一浪スキだよ。嫌いだよ一浪は。

 

「ま、こいつも日々そこそこ節約して生きてる大学生だからな」

「バイト掛け持ちしてま~す!」

「ああ、毎週俺の家に来るからそうなるんだよ」

「毎週!?」

 

 学業とバイトふたつと通い妻スタイルの掛け持ちは、確かに驚くよな。

 

「それと……なんだ、その……」

「ん~? なになに?」

 

 真白の耳元に近づくと、彼女はくすぐったそうに笑いながら、俺の頬を撫でる。飼い犬に舐められた愛犬家と同じ反応してんじゃあないよ。

 

 どんな服でも似合う山梨のオードリー・ヘップバーンに、俺はささやく。

 

「あまり、俺以外の前で着るな。見せるのが癪だ」

「っ!!」

 

 それだけ言って俺は、かがんでいた姿勢をなおす。

 

「かわいいね~、アトムはかわいいねぃ~」

「……」

「あ、あれ? えいっ、えい」

「届かないならそう言え」

 

 撫でられるのが分かっているからだ。

 

「撫でるのはいいの?」

「……嫌だなんて、一言も言っていない」

「僕の目が気になってるんでしょ?」

「…………」

「いいよ。思う存分イチャイチャしな」

 

 でもお前、公然の場でイチャついてるバカップル見るとダイナマイトみたいな音量で舌打ちするじゃん。

 

 俺と真白を見ている彼の足もとを見てみると、顔こそ笑みを浮かべているが、案の定。残像が見えるほど早い貧乏ゆすりをしている。どれだけバカップルが嫌いなんだよ。

 

 真白はそんな非リアの重篤な症状を無視して、俺の腕を下に引っ張り、強制的にかがませる。「やっと届いたっ」と嬉しそうに言い、俺のアホ毛を片方の手でつかむ。

 

 逃げられないようにするためだろうか。お前、それ絶対チョウチンアンコウ釣ったときに同じことするなよ。真白は俺のアホ毛を、アーケードゲームのコントローラーについているレバーのように、ぐりぐりと回す。

 

「えへへ、硬いね。洗ってない犬みたいな髪」

「褒められてねェことだけは分かる」

「好きだよ? アトムの髪っ」

 

 俺は思わず、その場で吹き出してしまう。顔を隠す余裕もなかった。

 

「ははっ」

「んっ……!?」

「変なの」

 

 そんな俺の顔を見て、真白と定助は夏にサンタでも見るような顔をしていた。

 

「ねえ定助さん!? 今の見た!?」

「ああ、見たことがないわけではないが、なんだか久しぶりに見た気がするよ」

 

 なんだ、そんな理由かよ。笑顔ひとつで大げさだ。別に俺も笑えないわけではない。バキバキ童貞の動画なんかを見れば人並みには笑うさ。

 

 定助も、便乗して俺の頭に手を伸ばしてくるものだから、その手を俺は軽くはたいてどける。彼は「やっぱりかあ」と言いながら笑う。

 

 俺は、真白のなでなでのみを許している。外で不特定の誰かに撫でられるのを許可した覚えはない。

 

「先輩や僕たちにも、そのくらい素直になれよ」

「俺は、もう戻らねェぞ」

「……待ってるよ。『ハイライト』」

 

 久しぶりに聞く、彼の寂しそうな声色だった。笑顔こそ崩れていないが。寂しかろうと、俺が戻っても何もできないことには変わりない。俺も、思わず申し訳の立たないといった声色が出てしまった。

 

 彼は、俺を待っているという旨の言葉を残して、階段を下りていった。それが、俺たちを二人きりにするためなのか、俺に話が通じないと判断したためなのかは分からない。

 

「なんか、『大介だいすけ』に似てるね」

「それは……俺も、最初はちょっと思った。というか、今も思ってる」

「だよね~!」

 

 真白は場を和ませるためか、内輪にしか伝わらないたとえを出してくる。

 

 懐かしい響きだ。『大介』、真白と同じく東京で頑張っているらしいが、元気にしているだろうか。卒業から一度も、顔を合わせることはおろか、部に入った時に交換したはずのメッセージアプリで連絡をとったことすらもないが。

 

「ねえ」

「ん?」

 

 彼女もつられてしまったのか、不安そうな声で俺に問いかける。

 

「戻らないの? 舞台」

「……この喉じゃあ、な」

「あの人もタバコ吸ってるんでしょ?」

 

 こいつもこいつで、痛いところをつく。確かに、現在活動している部員のほとんどは、吸う本数は俺よりも少ない奴がほとんどだが、全員が喫煙者だ。幸い、俺の喉はまだギリギリ演劇を続けられる状態にある。

 

「アトムの演劇部で、何があったの?」

「……」

「戻りたいんでしょ、演劇部。なのにアトムは、苦しそうにしてて……話だけでも、聞かせてほしいんだけど……」

「お前には、関係ねェ」

「あるよ。私、アトムに何かしてあげたいの」

「これ以上、か」

 

 俺が呆れ気味にこぼすと、真白はクエスチョンマークを浮かべながら、首をかしげる。この前、俺のねじ曲がった青春コンプレックスを正してくれようとしたのは、果たして誰だったかな。

 

 もう十分、お前には助けられてるよ。

 

 しかし、話さなければならないというのか。ブランクがあるという理由でも、喉をタバコで悪くしたという理由でもない。本当の、俺が部活に戻れない理由を。

 

 戻りたくても、あの頃のようには決して戻れない理由を。

 

 両目の間が激しく痛み、こめかみにも締め付けられるような感覚が走る。俺の頭の中には、在りし日の演劇部の部室と、そこで笑う『元部長』が過っていた。

 

「俺は、もう部活の奴らに合わせる顔がない」

「な、なんでっ? ……あっ、無理して話さなくてもいいからねっ」

「いや……」

 

 手が震えている俺を見て、真白は俺の背中をさする。「座ろう、とりあえず」

 

「椅子、椅子はどこだ」

「アトム、震えてる」

「は、話せるぜ。今となっては、大して嫌でもない。もう、全ては手遅れだから」

 

 いいんだ。俺が付き合うにあたって真白のことを知りたいように、真白だって、離れていた間に俺の身に起こったことを、少しでも知ろうとしてくれている。

 

 俺は、レースゲームの大きな筐体の後ろにある椅子にドカンと座る。着物の裾が、握りしめられ、しわを深くする。俺は震えた唇から、言葉を紡ぐ。

 

「内乱が起こったんだよ。OBのせいでな」

「えっ……?」

 

 

 

tips.大鶏排ダージーパイ

 台湾の夜市でよく売られている、唐揚げの一種とされる料理。食欲をそそる中華のスパイスの香り、キャッサバなどの芋の粉末を用いたザクザクとした衣、ジューシーな鶏肉、そしてなんと言っても手のひらよりも大きなサイズが特徴。

 全国各地の中華街での販売をはじめ、最近は夏祭りの屋台でも売られるなど、じわじわと日本での人気を獲得している。

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演劇やめたので殺してください。 苗根 杏 @Rhythm_Johannes

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