#5 そうか、そうか

 みじん切りをした玉ネギを、バターで飴色一歩手前まで炒めてやれば、あとはチョロいもんだ。

 

 挽肉、牛乳、パン粉、先ほどの玉ネギを同じボウルに入れて、こねくり回す。こねるもこねくり回すも同じだろ。とりあえず、粘り気が出てくるまでこねるんだったかな。

 

 え、これ割と最初から粘り気あるんじゃあないか。何なんだよ、クックパッド。いや、書いた人自体は悪くないか。ウィキペディアそのものにキレてるようなものだな。

 

 じゃあ、大学のレポートにクックパッドは使わない方がいいな。捉えようによっては自己流レシピとは時に論文でもあるから、時には使えるかもしれないが。

 

 肉の空気を抜き、油を軽く敷いて、四等分くらいにした肉を円盤状にして焼く。ああ、チキンラーメンが恋しい。あの工程でラーメンとかいうめんどくさい料理が作れるとか、そりゃあ数十年前の人からしたら革命だろうな。

 

 数分焼いたら、裏返して蒸す。ひたるくらいまで料理酒とお湯を入れるらしい。料理酒なんかうちにあったかな。まあワンカップ大関でいいだろ。

 

 フライパンにワンカップを少し。あとお湯。俺にもワンカップを入れる。たくさん。あとチェイサーの麦茶。うん、飲めるギリギリの味。口直しの麦茶ありきの味だな。

 

「ッ……残るなァ、後味」

 

 酒は百薬の長と言うが、ワンカップを薬として見るのならば、いわゆる良薬は口に苦しということわざにも当てはまるな。

 

 逆説的にワンカップは良薬と言えるのではないだろうか。養命酒と言っても過言だ。

 

 水分が飛んだら、ハンバーグを取り出す。残った油に、ケチャップと中濃ソース、砂糖を入れて混ぜる。少ししたら醤油も入れ、味をそれっぽく整える。

 

 そいつを先ほど焼いた肉にかけてやれば、あれまビックリ。ソースもふわふわな肉もあっという間に作れちゃうデミグラスハンバーグの出来上がり。

 

 さて、そろそろ起きる頃だろう。少なくとも、俺の『不完全燃焼の怪物』を最初に見た俺の友人は、このくらいで起きたはず。

 

「……ぅ?」

 

 なんでそんなに可愛い声で起きるんだ。クソが。

 

「……鶴嶋くん? 私、何して……」

「ハンバーグ」

「へ?」

「そろそろ焼けるから、待ってろ」

 

 真白はそれを聞き、鼻をきかすなり、大型犬のようにどたどた足音を立ててこちらに寄ってくる。

 

「覚えててくれたの!? 私の好きなもの!」

「チョコチップクッキー、丸源の肉そば、サラダチキン、カルボナーラ……」

 

 その言葉の羅列を聞いた瞬間、目を丸くしてこちらを覗き込む。

 

「お前、舌が小学生みたいだから覚えてるよ」

 

 可愛すぎて、目なんかいちいち合わせてたら瞳が焼ける。2億4千万ボルト並みだ。

 

 ワンカップを飲んだからか、なんだか思考が短絡的でやたらと素直に彼女に対しての『可愛い』という感情が出るようになったぞ。

 

 酒は百薬の長とはよく言うが、あれ自白剤も入ってんのか。

 

「引くだろ。罵倒なり何なりしろよ」

「ううん。ありがとう、私のこと忘れないでいてくれて」

「……ドン引きじゃないのか」

「せっかく作ってくれたんだもん。食べるよ、ハンバーグ」

 

 白い歯を見せて笑う真白。彼女は、俺が怖くないのだろうか。逃げずに、今も俺の後ろから手を回して抱きついているが。

 

 怖くないどころか、こいつ性善説を信じすぎて普通の男子にもこういうことをしているんじゃあないだろうな。だから彼氏が途切れてないのだろうか。

 

 背中に密着した口から暖かい息が、注入されるかのように俺の後ろ側をじんわり温めていく。

 

「んふふぅ」

「はァ」

 

 昨今ではこういう言葉も失礼やセクハラやその他諸々に当たるのだろうが、彼女からは香水の匂いひとつしない。シンプルな、シャンプーか柔軟剤かの匂いしかしないのだ。

 

 それが逆にいいかと言われれば、まあ、そうだ。ホッとする。

 

「吐いたから、腹減ったろ」

 

 背中に真白をくっつけながら、なんとかヨタヨタちゃぶ台までたどり着く。ハンバーグをそこに置くと、真白は大人しく座布団に座る。

 

 それ、俺の座布団なんだけどな。

 

「手で食べろってぇ!?」

「ほい、割り箸」

「うむ、準備がよろしい」

「カトラリーならなんでもいいんだな」

 

 虫眼鏡みたいなキレ方しやがって。全然大人しくなんかなかった。

 

「食ったら出てけよ」

「ん~~、やだ!」

「元気でよろしい」

 

 俺は彼女のために用意した座布団に座り、声を低くしてみて言う。

 

「絶縁とまでは言わないから、俺とはもう会わない方がいい」

「なんで?」

「……情緒が、おかしくなってるんだよ」

「そうかなぁ?」

「そうだろ。突然、仮にも昔好きだったって女を吐かせて。その次にゃ呑気に料理してる……ッ……俺だって、今自分が一番何をしたいかが分からねェ」

 

 頭を抱え、ちゃぶ台にひじをつく。その俺の頭を、真白は優しく撫でた。「犬みたいな髪の毛」と笑う彼女は、身を乗り出してつぶやく。

 

「私のため、でしょ?」

「……」

「私を、そんな状態の自分から遠ざけたい。でも自分について知ってほしい。誤解のまま終わりたくない。その間で揺れてるから、こうなったわけじゃん?」

 

 まあ、確かにそうだ。簡潔に言語化すればそうだ。そうなんだが、その行動の裏には、本栖湖よりも深い思慮があってだな。

 

 そんな俺の言葉を、言う前に遮ってしまおうとばかりに、彼女は俺の頭を二度、ぽんぽんと叩く。

 

「だから、『ありがとう』で合ってるよっ。さっきのは」

 

 ようやく離してくれるかと思いきや、真白は俺の頭を、ディオの生首を持ったまま息絶えるジョナサンのように抱える。

 

「離れないよ。せっかく私に、本当の鶴嶋くんを見せてくれたのに」

 

 彼女の声が、より耳元で聞こえるようになった。いい声だ。演者映えする声だ。

 

「ごめんね。私も、たくさん酷いことしたね」

「昔のことだ。もう、忘れた」

「声、震えてる。まだ怖がってるの?」

「怖くなんかねェ。お前のことなんて……」

「キミは怖がってる。また、私を傷つけるんじゃあないかって」

「……安心は、してる。お前が俺のこと、嫌いじゃないって分かったから」

 

 これは本心だ。

 

「ねえ、アトム」

 

 俺の頭をつかみ、上に向ける真白。彼女の顔が、至近距離に迫る。少し傾いた太陽が眩しい。しかし、彼女の至って真剣な顔だけは見えた。

 

「キス、しよっか」

 

 にいっと笑う。俺の呆けた顔をあざ笑うかのように。

 

 俺は咄嗟に、しわひとつ寄っていない彼女の額にデコピンをする。「あだっ」と間抜けた声を上げて仰け反る真白に、少しじわじわ来る。

 

 こんな状況だというのに、どこか当事者意識がないというか、なんだか遠くから自分を見ているような気がして、緊張感というものが湧かない。

 

「そういうのは、付き合ってるヤツとするもんだぜ」

「……お堅いんだぁ」

「誰にでも、こういうことしてんのか」

「するわけないじゃん。キミにだけだよ」

 

 本当かよ。お前の性格上、参っている人間を見たらその身を投げうって助けそうなものだが、逆にその優しさの信頼は失礼にあたったか。

 

「俺への償いとしてその行為をするのは、互いに損をする」

「なんで? 私、本当にキミと繋がりたいの」

「1%は本当だろうな」

「……全部、ほんとだもん……」

「なら目をそらすな」

 

 唇を尖らせる彼女の顔を、今度は俺がつかむ。

 

 おい。一瞬ドキッとしたような顔をするな。揺らぐだろ。

 

「俺を見ろ」

「……」

「俺がそんなことを望んでいるように見えるか? ……俺が、元カレよりも魅力的か?」

「魅力的だよ、圧倒的に」

「前者は、見えないんだな」

「なんなの! 早くキスしてよっ! 私、ほんとにアトムのことが……」

 

 俺はわざとらしく、は、ならないように溜息をついてみる。

 

 さて、俺は今から、心にもないことを言う。

 

「性に奔放になったな。真白」

「!!!」

 

 もともと俺は、平時から仮面をかぶり、本音なんて微塵も出さなかった男だ。

 

 嘘なら言い慣れているはず。

 

 なのに、どうして俺の心臓はこんなにも締め付けられている? 

 

 分かっている。その問いの答えなら、決まっている。『自分のためにならない嘘』だからだろう。真白を、俺と離れさせ、彼女を幸せにしてやる。そのための、俺の『真白と一緒にいたい』という素直な感情を全く無視した嘘だから、こんなにも心臓が締め付けられている。

 

 利己的な人間だ、俺というやつは。

 

 真白は、突然悪口を言われ、一瞬だけ至極まっとうな驚きを見せる。俺は、これでいい、これで真白は俺と離れて幸せになれると自分に言い聞かせ、ベッドに腰掛ける。

 

 その刹那、猛突進してくるポニーテール。俺はふたたび、真白に押し倒された。今度は倒された先が柔らかくてよかった。

 

 何者かに押し倒された経験がない人へアドバイス。フローリングとはいえ、押し倒されたらそれなりに背中は痛くなるので、今後押し倒される予定のある方は何か柔らかいものを敷いておくといい。

 

 真白が鼻先の触れる距離まで近づいているので、全力で気をそらしているが、そろそろ限界が近い。彼女の背中に手を回したくなってしまう。

 

「バカ」

「あ?」

「『今のアトム』まで、嫌いにさせないでよ」

 

 真白は俺の胸に顔をうずめる。部屋着の甚平の前側がはだけ、彼女の顔が直接肌につく。荒い鼻息が、心臓まで届きそうなくらいに、

 

 ここまで素肌で人と触れ合うのは、何年ぶりだろうか。いや、ここまで本音で、素で話を続けたのは、何年振りだろうか。

 

「……私をだますため?」

「何が」

「私を遠ざけるために、わざと傷つけようと、そんなこと言ったんでしょ」

「知らねェよ。勝手に傷ついただけじゃねェか」

「バカ!! 一生離れてやらないんだからっ!!」

「離れろ」

「嫌だっ!!」

「うるせェなァ!!」

 

 本当にうるさい。生きて直接脳まで届く声だ。彼女が好きだからだろうか。

 

 俺の思惑を一瞬で見抜いてくるのもうざったい。さすが、俺の本性に気付いたヤツ。こいつの前では、どんな嘘も無意味なのだろうか。

 

「今の俺は、もうお前が好きだった俺じゃねェ……何度言ったら分かる」

「私は、素のキミが好きなの! ……あの頃のアトムは、今より嫌いだったんだよ……?」

「はァ……?」

 

 ますます分からない。俺は既に演劇を諦めた人間だ。肺も真っ黒で、大きな声を出すと思わず咳が出る。そんな俺が、演劇なんてできるわけがない。

 

「好きなものに夢中で向き合うアトムはカッコよかった……でも……」

「分かってる。普段の俺が気に食わなかったんだろ?」

 

 真白は、少し間を開けて、小さくうなづく。

 

「みんなの顔色伺って、取り繕って……その場における、最善の行動みたいなのを、おどけたフリして全部計算してて。怖かったの……息が、詰まりそうだったんだよ」

 

 苦しそうな顔を無理やり捻じ曲げて、真白は口角を上げる。こいつの嘘は、誰でも見抜けるようだ。正直者め。

 

 しかし、その顔もすぐに心からの笑顔に変わる。

 

「今のアトムは好きだよ。あの頃の、一生懸命なアトムと同じくらいに……」

「いいのかよ。お前を、傷つけた男だ」

「それはお互い様でしょ。いいの、アトムが演劇をやってるかどうかなんて。それよりも、こんなに私と本音で話してくれたことが、一番うれしい……」

 

 真白は、俺の胸に頬ずりをする。

 

「アトムの心臓、なんか変」

「変?」

「苦しそう」

 

 変なことを言うヤツだ。俺は「なんでだよ」と力なく返す。

 

「アトム、私に嘘つくの……私を傷つけるの、辛かった?」

「!!」

 

 そうか。今、俺の心臓が締め付けられるような痛みに襲われているのは、どうやら真白を傷つけることに耐えかねていた俺の脳からの無意識的な信号なのか。

 

 真白と離れたくない。そんな思いを無視した嘘をつくことも、もちろん辛かった。

 

 しかし、最も辛かったのは、ほかでもない、真白を好きな俺。

 

 俺自身のシンプルな『真白を傷つける』という行為への抵抗感が、俺を落ち着かなくさせていたのだった。

 

「いいんだよ」

「……」

「私でよければ、いくらでも傷をつけて。キミのものだって、わかるように」

 

 彼女は、俺の部屋着をさらにはだけさせる。何をしようとしているのか見当はおおよそつくが、理由が分からない。

 

 真白こそ、俺のことを全然知らないくせに。

 

「好きにして。私、アトムのモノになる準備……もう、できてるから」

 

 俺は、電気をつけていなくても明るい天井を見る。まだ日は暮れていない。

 

「昔話をしよう」

「……?」

「お前に、『よそ行きの俺』を嫌われて、何故俺があんなに傷ついたと思う?」

「が、頑張ってたから……? みんなのために、キミがいつも計算ずくで頑張ってて……それを私は否定して……」

「半分合ってる。しかし、俺がみんなの前でああやっていたのは……他でもねェ、自分のためだった」

 

 昔から俺は、家族やその周りの偉い大人に触れる機会が多かった。

 

 父は県議会議員、母は社長秘書だった。両親ともに忙しかったためか、家族旅行よりも親の付き添いで大人と食事に行くことや、家に来た大人と話すことのほうがよっぽど多かった。

 

 そこで俺は、汚い大人の一面を学んだ。賄賂、職場いじめ、軽犯罪の応酬。母が父の上司と不倫していたこともあった。

 

 年を経るごとに、それが大人の全てではないことに気付きつつも、それを知って純粋に大人と関わって成長していくなんで器用なことは、俺にはできなかった。

 

 数年前好きだった、しばらく会っていない女に未練たらたらな俺だ。器用な生き方なんかできるかよ。

 

 そこで俺は、家族以外の人と話すときに使う『もう一つの性格』を作ることにした。

 

 明るく、優しく、少し抜けた面もある。そんな性格が、世渡りをするうえでいかなる局面も切り抜けやすい。実際、俺は高校までその性格のおかげで大きなトラブルもない、平穏な暮らしが過ごせた。

 

 俺は大人の汚い面を先回りして知っていたうえで、このロールプレイを小学校の頃からしていたのだ。

 

 そうして、俺は世渡りを続けてきた。俺の頼れる武器。俺を守ってくれる盾。それが、皆の見てきた鶴嶋空飛夢という仮面だ。

 

 ところが、今となってはどうだ。この性格が災いして、今後一生出会えないかもしれないような運命を感じた女に気持ち悪いと言われ、好きだった演劇も自ら辞め。髪だってストレスでこんなに真っ白になってしまった。

 

「ごめん」

「いいんだ。今となっては、俺も空気読みクソくらえって感じだし」

 

 俺はそうやって、ずっと本来の自分ではない性格を使って生活してきた。そのためか、俺は当事者意識というものが無いに等しい。

 

 そうだ。だから、真白に振られたときに決めたはずなのだ。

 

 本音で話そう、と。

 

「俺こそ、ごめん」

「えっ」

「俺がお前に振られたのは、まぎれもない俺自身のせいだ。そのあと、部活が『俺のせいでああなってしまった』のも、俺が今こんなに鬱屈としているのも……」

「アトム……」

「俺が、悪いんだ……なのに、俺はいつの間にか『真白に振られたから人生が変わってしまった』と思うようになってしまっていた……」

 

 責任のすり替え。あまりに辛い現実から目を背けるために、俺は彼女に責任の一端を自分の中で押し付けてしまった。

 

 まるで、汚い大人や学友たちを欺くため、わざわざ偽の『性格』を作ってまで自分を守ろうとした時と変わらない。

 

 そこまでしなくても、俺がもう少し器用にできていたら。もう少し、俺自身を変えられていたら。

 

 ああ、いつまで経っても、俺は変われていない。俺は、どこにも行けないままなのだ。

 

「だから……」

「それでも!……アトムはアトムなりに正しいと思った行動をしたんでしょ?」

「……当時の俺は、正しいと信じてた」

「だったらさ、それでいいじゃん! 私、アトムのアドリブには相当信頼を置いてるんだからっ」

「どういう、ことだ……」

「だ~か~ら~~っ!」

 

 突然、俺の頬をつかみ、ほぐすように揺らす真白。

 

 顔を上げた真白は、これまで見たことがない顔をしていた。それは、根拠も何もないがお前は大丈夫だと言い聞かせてくれるような、そんな目をしていて。無理のない、自然体の笑い方。

 

 例えるなら、そう。母親の目だ。俺を守ってくれる女性の目をしている。

 

「これからのアトムは、もっと成長して、もっと正しいと思える行動に軌道修正できるでしょ? だから、大丈夫っ。……アトムは、ゼッタイ大丈夫っつこん」

 

 懐かしい響きの語尾。方言だ。俺たちの生まれ育った町の、方言。

 

 その方言を聞いた瞬間、俺は真白と二人で行った、駅前にある城のふもと、芝生広場を思い出した。

 

『サラダ、ご機嫌斜めだな』

『だって、練習に付き合ってくれるの鶴嶋くんしかいないんだもん……』

『なんだい、「僕」と二人は嫌かい? なんなら、エクランのサイゼ奢るよ』

『ぷっ、あはははっ! 鶴嶋くん、またエクランって言ってる~!』

『ええ!? あ、そ、そうか……エクランはセレオ、コラニーはYCC……』

『いちいち言い聞かせないとダメなの~!? っはは、鶴嶋くんったら~!』

 

 あの日が、高校時代、最初で最後の二人きりだった。

 

「真白の……くせにィ……」

「ふふっ、なーに?」

 

 頬を生ぬるい液体が伝う。自分の意思では、どうやっても堪えられないタイプの涙が出てきたのだ。

 

 人の前で泣くのなんて、前にしたのは数えきれないほど昔のことだ。

 

 そんな俺を珍しいと思ったのか、はたまた可愛いとでも思ったのかは知らないが、真白は俺をベッドから無理やりに起こす。そして、思い切りハグをしてくれた。

 

 ハグはずるいって。せめて今は、今だけは、引いてくれてもいいのに。

 

「ごめんなさい……っ……ごめんなさい……!!」

「いいよ。謝らんでも……私から離れんでてくれて、ありがとう」

「……っ……ぐ……」

「私のこん、ずっと覚えていてくれて……っ、ありがとう……!」

 

 涙がなぜ塩辛いのか、と考えたことがある。多分、その涙した出来事を忘れないように、神様がデザインしたんだろう。

 

 でも今、俺の口に入ってきた涙は、なんだか普段よりも水っぽくて、甘いような気さえもしてくる。

 

 気付けば、俺の手は真白の背中に回されていた。彼女のパーカーは、なんだかやけにふわふわしていて、抱き心地で言えば最高だった。柔軟剤、いいの使ってるんだろうな。

 

 しかし、この服だからというわけではなく、彼女だからこそ、俺はこんなにも彼女のことをいっそう力強く抱き寄せたいと思ったのだろう。

 

「……ずっと一緒だよ、アトム……」

 

 間に挟む言葉を、こいつは忘れてきたらしい。俺はいきなり鼻声のメインディッシュを食わされ、涙の歯止めがきかなくなった。

 

 そりゃあ、ずっと一緒なら、それが一番いいよ。

 

 うれし涙というものは、悲しかったり悔しかったりするときの涙とは、また違った性質なのだろうか。もしくは、今回たまたま俺の中の塩分やらビタミンやらが足りなかったのか。

 

 やけに今の俺の涙は甘く感じるが、この理由を考えるのは、また今度にしたい。

 

 彼女の体温を感じられる、彼女と同じ時を過ごせる、人生の中でも何秒間とれるか分からない贅沢な時間だ。余計な考えなど挟まないに越したことはない。

 

 俺に言わせてみれば、『付き合う』という口だけの契約には、『あなたの隣に1秒でも長くいたい』という意味が含まれているのだろう。

 

 こんなにも、好きな人と抱き合うことが幸せなら、そういった意味があっても不思議ではない。

 

 彼女が小さく、「幸せ」とつぶやいた。俺は同感の意をこめて、声に出して笑ってみた。

 

 その笑い声を聞いて、彼女は嬉しそうに声にもなっていない声を喉からひねり出し、よりいっそう腕の力を強めた。少しの痛さが、これ以上ないほどに心地よかった。




tips.甲州弁

 空飛夢や真白の住んでいた山梨県で使われている方言。県内でも東西で方言の中身は変わっているらしいが、若者はどちらも混同して使っていることも。

 主な特徴は、命令形や疑問形の語尾に『〜ずら』『〜け』『〜し』がつくこと。近年では、日本の方言の中でも一番かわいくない、不細工な方言だという声もある。

 使用例・・・

 ほんなよたい服、いっさら着んずら?→そんなボロボロな服、全然着ないでしょ?

 おまんこっちんこうし→そこの貴方、こっちにおいでよ

 はんでめためたごっちょでごいす→手間をかけさせやがって(もとは特に意味の無い『じゃんだらりん』のような単なる方言の切れ端の組み合わせ)


 

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