#4 二階から、春

 

 

 

 チキンラーメンに乗せる卵の白身を、透明ではなく、きれいな白色にするためには、お湯をゆっくりと回しかけるのがコツらしい。

 

「ホント?」

「このまま1分待てば分かるさ」

 

 丼の蓋を閉じ、俺は隣の真白を一瞥する。

 

「で」

「ん?」

「なんでここに居るんだよ」

 

 狭い部屋、初夏の休日。俺は、家に押しかけてきた真白の手土産であるチキンラーメンを温めていた。どういう手土産だよ。この前来た時に持ってきたのも、味付け海苔やシーチキンや調味料各種だったし。

 

 独り暮らし大学生の内情を分かりすぎている。親からの仕送りもここまで気が利いたものはなかったぞ。彼氏の生活を間近で見ていたからか。

 

 ここに来た理由を聞かれた真白は、俺の近くに座ったままにじり寄ってくる。上目遣いが、いやに俺の心に刺さる。

 

「答え、聞きに来たの」

「……ああ、アレか」

「今思い出した!?」

 

 全く返答を考えていなかった。ここで適当に承諾なり拒否なりの答えを口にする、その行為自体は簡単だ。しかし、そういった適当な態度を真白は望んでいないことは、俺も分かっている。

 

「延期で」

 

 しかし、そう言ったら言ったで面倒くさくなるようなことを口にするのが、沙羅田真白という女だ。

 

「タダでとは言わないよねぇ?」

「え、対価いるの? 延滞料?」

「ツタヤでさえ延滞料取るのに、私が取らないわけなくない?」

「その理論は分からないけども」

 

 金なら無いぞ。それともなんだ、まずは友達からってか。いや、それは振る側の言うセリフ。ひいては俺の言うべきセリフだ。

 

 真白はにんまり顔で、俺の後ろ髪をいじる。

 

「延滞料は、アトムの一発ギャグ~」

「お前とんでもねェな」

 

 本気で青筋が立つところだった。ろくでもない無茶をさせるな。

 

 関西出身のヤツでもあるまいし。俺はオチのある話すらいくつも持っていない人間だぞ。面白みのない人間だ。こんなのに面白い一発ギャグを期待するのがまず間違いなのだ。

 

 しかし、ここで本当に面白くないギャグを俺が披露したならば、今ここで彼女と付き合うかどうかを迫られることになってしまう。どうするべきか。

 

「いいじゃん、エチュードの練習のとき、先輩たちに死ぬほど無茶振りされたじゃん」

「されたけど。実際死んだけど」

「私たちがカップル役になったとき、鶴嶋くん耳真っ赤だったよね~」

「何それ。覚えてねェし、あの時の俺がそんな風に素を出すなんて考えられないっつーか」

「ふふ、ホントだってばぁ」

 

 とりあえず、一回様子見をしてみよう。俺はゆっくりと立ち上がる。

 

「えー。一発ギャグ」

「ぱちぱちぱち~」

 

 前髪を右側に集中させ、左手は額あたりに添え、右手は左腰部に。背筋と足をモデルのようにピンと伸ばす。これだけでいい。

 

「え、何それ」

「ヒプマイの四十物十四の初期立ち絵」

「……ふふっ……く、んふふふ……」

「分かるのかよ」

 

 ヒプノシスマイクを履修済みだったとは。計算外ではあったが、ウケたのでよしとするか。

 

「合格っ! もうちょっと待ってあげましょう、アゲハ蝶」

「急なジョイマン……」

 

 そういえばこいつはお笑いが好きだったな。確か、高校の演劇部の先輩に見せられた、ラーメンズとかいうコントユニットにハマってから、お笑いに凝り始めたんだったな。

 

「そんなに急かすくらいなら、あの場で聞けばよかったじゃんか」

「……ああ言えばこう言う」

「ええっ」

「正論しか言わない人は嫌われちゃうよ」

 

 刺さるなあ。その正論。

 

 確かに、俺は正論が嫌いなくせに面倒になると正論を言いたくなるクセみたいなものがあると自覚している。それは治すべきだろうな。お前と付き合っていく結果になったとしても、そうでないとしても。

 

 先ほどは答えを出さないという選択をしたが、俺としては今すぐにでも真白と付き合いたいというのが本音だ。

 

 俺の中に、真白に対しての未練が残っているのは確かだ。この機に真白と付き合って、俺の過去にけじめをつけるのもいいだろう。

 

 だが、今この女と俺が付き合ったとして、俺はその状況を心から喜べるのだろうか。

 

 思えば一目惚れだったからか、俺は真白について知っていることがあまりないように思える。そして、今の俺の精神状態で付き合うとなれば、俺からしても彼女からしても、100%楽しめるかどうか。

 

 なんだか、今この場で付き合うのは違う。そんな気がするのだ。俺に彼女と付き合う資格があるのかも分からないし。

 

 理論をこねくり回していると、頭が痛くなってきた。俺は丼の蓋を開ける。

 

 チキンラーメン味、と称される、チキンの名を冠していながらもチキンやビーフやポークやの、どの肉ともとれない独特な香り。半熟の卵の黄身が、時間経過で割れて、オレンジにも近い黄色のドロっとした液体が縮れた麺の上にあふれている。

 

 白身はもちろん、キレイな光沢を帯びた真っ白な、真っ白な出来上がりになっている。「わぁっ、ホントに白くなってる!」と、半信半疑だった真白が横で驚いている。

 

 淡麗なるスープの上に浮かぶ少しの油が、蛍光灯に灼かれている。

 

 ラーメンをすする前に、俺は一握りの不安を、真白にぶつけてみることにした。

 

「サラダは、今でも俺の事が嫌いなのか?」

「今の鶴嶋くんは好き。前も言ったでしょ?」

「それでも、すべてを好きだとは限らない」

 

 それだけ言って、俺はオレンジ色が薄まったような色の麺をすする。

 

「私は、鶴嶋空飛夢という人間のすべてを受け入れる覚悟でいるよ」

 

 噎せた。数本の麺を残して、俺は口に含んでいたものを吐き出してしまう。

 

「演技をしている鶴嶋くんの一生懸命な姿に、私は惚れたの。台本を読み込んでいる時の横顔、気を抜かない舞台上での動き、燃える『自分100%型』の眼差し。全部が好きだった」

 

 なんか言ってらァ。そんな風に流すこともできないほどに、真白の語り口は真剣で、冷静で、それでいて言葉の端々に熱を帯びていた。

 

 彼女の言う『自分100%型』とは、『演技の型』のひとつ。かつて『高校演劇第二世代』に、お台場にある願島学園──今は確か違う名前の高校だった気がする──の、ハイパー千両役者である『穂村 燃ほむら もゆる』という方が提唱し、作り上げた概念である。

 

 提唱された当初こそ、高校演劇でしか使われていなかったワードだったが、今ではほとんどの学生演劇人、また商業演劇人の間で通じる用語となっている。

 

 総称して『演技の型』と呼ばれるそれは、主に三種類に分けられる。演者が役の代弁者となる『自分100%型』。演者の身体を役にゆだねる『自分0%型』。

 

 そして例外ではあるが、戦後間もない『高校演劇第一世代』の演者である、『目白 螺望努めじろ らもうぬ』が無自覚にも使っていたとされる第三の型がある。

 

 そうして時代の波にのまれて消えたかに見えた、古めかしい時代遅れの型を、これまた無自覚にも掘り起こし、そして極めた者がいた。穂村燃の息子だ。

 

 彼の使っていた『自分50%型』が、後に対峙した螺望努の孫が『祖母の型と同じだ』と気づかれたことから、螺望努という古の隠れた天才と、彼女よりも長く型を使いこなした燃の息子という天才が同時に見つかった。

 

 彼によって『高校演劇第三世代』に遅れて登場した、これまで都市伝説的に語られていた時代遅れの型とは一転、新世代を代表する演技の型である『自分50%型』が、今では三つ目の型として存在している。

 

 その型は、まさに役と演者の二人三脚。俺も燃のせがれと舞台で戦ったことがあるが、舞台に『ふたり立っているように見える』のは、きわめて不思議な光景であった。

 

 穂村燃の提唱した概念は他にもあって、例えば同じ演劇人どうしにしか見えない、その演劇人のまとっている雰囲気の色や形をタイプ分けした『演劇人のオーラ理論』がある。

 

 高校時代、俺は赤黒い渦巻くオーラを、真白は透き通る透明色のオーラを持っていた。今では真白のほうがよっぽど赤っぽい紅色で、俺の演劇人のオーラは見えなくなってしまっている。

 

「俺の使っていた『型』まで、覚えているのか」

「当ったり前じゃん! 『オーラ』は確か、血みたいな色! ふふ、そう言う鶴嶋くんも、私のを覚えてるんでしょ?」

「……」

 

『自分0%型』だ。忘れもしない。舞台を降りたというのに、高校時代に覚えた演劇用語までもすらすらとそらで出てくるような俺には、舞台に魂をとらわれたままの俺には、造作もない質問だった。

 

 昼下がりの青い空をバックに、彼女は語ることをやめない。

 

「そう……私は、その垣間見える暗さを持った鶴嶋くんが好きだった。作品に血を流す化け物、なんて呼ばれてた、あの鶴嶋くんが……だから、あの時……あんなことを……」

「……」

「みんなが喜ぶように動く、機械みたいな普段の鶴嶋くんは……なんか、苦手で」

 

 俺は思わず、ちゃぶ台パンをしてしまう。

 

 違う。俺は、好きでその性格を『演じていた』わけじゃあない。その性格だって、俺は少しは愛着を持っていた。その性格のおかげで、高校まではうまくやれていたのだ。

 

 あのペルソナは、俺が俺らしくあることを捨て、俺という人間性よりも、俺という人間をうまくこのクソみたいな世の中で永らえさせるために生まれたんだ。

 

 そんな言葉が口をついて出そうになった。拳をぐっと、指が手のひらに食い込みそうになるほど耐える。

 

 しかし必死にこらえるも、こらえるも、より自分の中での感情は膨れ上がるばかりだ。

 

 憤りにも似たような気持ちは、俺の腹の中をぐるぐると渦まき、今にも俺の唇をやぶって出てこようとしている。

 

 そのうち、震えた虚言が、真白をめがけて発された。

 

「知ったような口をきくな」

「私、鶴嶋くんのことならなんでも分かるよ」

「……テメェ……」

 

 歯が音を立てて震える。お前に、俺の何が分かるというんだ。

 

「俺が舞台を降りたとき、どんな気持ちだったか分かるか」

 

 俺は、真白のことをあまり知らない。それは真白も同じだろう。こいつは、『素の俺』のことをあまり詳しく知らないはずだ。

 

 そんな最もらしい言い訳を考えつつ、俺は右目を隠している前髪に手をかける。

 

 正確に言えば、前髪が右目を隠してしまっているのではない。俺が自分の意志で、前髪を使って右目を隠しているのだ。

 

 ああ。部活を抜けて半年くらい経った頃だろうか。

 

「この右目を見ろ!!!」

「っ!?」

 

 俺の右目のようすが、おかしくなったのは。

 

 ある日突然、鏡の中の自分に違和感を感じた。どこかがおかしい。どことは局所的に読み取れず、ただただ、俺のまとっていた『演劇人のオーラ』がなくなったのかと思った。

 

 釈然としなかった当時の俺は、隣の部屋までわざわざ行って、宮さんに変わったところがないかを確認してもらった。が、何も無さ過ぎて、寂しがっているか構ってほしがっているかと思われたのか、一時間ほどただひたすらに撫でられ続けたのは今でも覚えている。

 

「ぇっ……うぇ……」

 

 真白が、小さくえずく。

 

 この目がおかしくなってから、一週間後くらいのこと。部の同期が、俺に会いに来た。

 

 そいつはド級に優しいやつだったものだから、俺を無理やり部活に連れ戻すなんてことはないだろうと信じ、家に上げて徹夜ゲーム大会を行った。

 

 眠くなってきたものだから、当時から伸ばしていた前髪をどけてピンでとめた。

 

 その状態の俺と目を合わせた同期は、その場で泡を吹いて倒れてしまった。そこにはまた複数、部活の同期がいたのだが、そいつらも症状の大小はあれど、具合を悪くしてしまったのだ。

 

 そいつらが言うには、『右目の奥に『演劇人のオーラ』が丸ごと濃縮され、内包されている』とのことだった。

 

 俺は全身に身にまとう『演劇人のオーラ』がなくなり、それが人目につかない右目に、全てしまい込まれてしまった、というわけだ。

 

 即席で名づけられた症状名は、ウルトラマンAの怪獣と、燃えるような俺の『演劇人のオーラ』からとったものだった。その名も、『不完全燃焼の怪物ファイヤー・モンス』。

 

 かつて燃の息子が『究極千両役者ウルトラ・マン』と呼ばれ、そこから円谷特撮作品に基づいた用語が乱立したことから、俺の右目の症名も同様の由来を持つこととなった。

 

 ここで、『演劇人のオーラ』について、もう一度触れておこう。

 

『演劇人のオーラ』は、舞台に立ちたい、舞台を作りたい、観客を魅了したい、自分だけが目立ちたいなどの邪でいて純粋な演劇人のサガ、そして欲望が表に出たものとされている。それは実力を増すほど大きくなっていく、というのも通説だ。

 

 元来、偉大な演劇人に近づくと体調を崩す、吐き気を催し腹を下す、最悪の場合は昏倒にまで至るとされていた。それは、偉大な演劇人にはそれだけ大きく濃い『オーラ』が備わっており、稀にいる『オーラ』に敏感な演劇人はそれに近づくと体調が狂うのだ。

 

「っぷ……こぷ……」

 

 そして真白は、他人の発する『演劇人のオーラ』に人一倍敏感であった。元から割と繊細なやつだ。その体質にも納得がいく。

 

 そんなやつが、俺の右目を見たときの反応なぞ、俺も分かりきっている。

 

 胃液の逆流。つまり、吐瀉である。

 

 やがて、真白の両手から、クリーム色と言うにはあまりにも濁った液体があふれる。指の隙間から、粘度のないシャバシャバとしたものがにじみ出て、それが俺のちゃぶ台に滴り落ちる。

 

「うぇっ、おるろろろっ……!!」

 

 俺にとっては、それが聖なる泉の水にも見えた。しかしその中には、確実に胃液による濁りと、朝食だったであろうパスタが混在している。

 

 スペルマや潮のごとき、あるいは神秘的で、醜く、誰もがその身の体に持ちうるもの。それが俺には、やけに眩しく見えた。

 

「お前に、世界に演劇人であることを認められず!! すべてを否定され、舞台を降りた男の!! 未練がましく、演じたいという『サガ』にしがみついている愚かな右目だ!!!」

「っ……うぇっ……ごぷ……ぅ……」

「吐けッ!!! これが本当の、意地汚く惨めったらしい俺だ!!! これがッ……お前が好きだと言った『鶴嶋空飛夢』なんだぞッッ!!!」

 

 結局、お前の惚れた『舞台でなりふり構わずはしゃいで楽しんでいた俺』なんてのは、今や二度と見られないものになってしまった。

 

 俺自身が、舞台にもう一度立つのが不可能になってしまったからだ。

 

「アトム……っ、うるるるろろっ……っうぇ……」

 

 必死に俺の名前を呼び、ゲロまみれの手で俺の手をつかもうとする真白。しかしそれも空振り、やがて真白はサラサラの胃液だけを垂れ流し、気絶した。

 

「お前は、俺の分まで舞台にいろ。この『俺のオーラ』が、俺の右目に渦巻いているうちは」

「…………」

「いい演者だよ、お前は……『無彩のサラダ』」

 

 聞こえていないことは分かりつつも、彼女の懐かしい名前を呼ぶ。

 

 少しやりすぎた。躁のときにした衝動的な買い物でカードの限度額が圧迫された時を思い出す。

 

 いや、これでいいんだ。今の醜い俺を知ってもらい、彼女と決別するためには、こうするほかなかった。

 

 本当は付き合いたいくせに、咄嗟に彼女を遠ざけてしまう。だから、これでいい。もう、俺が苦しむことはない。

 

 俺は、部屋が汚れたことと、彼女を傷つけたことのふたつに対して後悔しながら、棚から布巾を取り出した。

 

 




tips.『演劇人のオーラ』・『演技の型』

 わざわざカギカッコ付きで説明されてはいるが、『演技の型』や『演劇人のオーラ』をはじめとした、学生を中心に使われている近年の演劇用語は、演劇をしていない人にはまるで分からない。

 一般人からすれば無視して通れる概念。演劇人は、演劇を通して育てられる通常では使われない脳の神経、通称『演劇シナプス』を通じて『演劇人のオーラ』を目視したり、『演技の型』を見分ける。

 こと演者に関しては、その『演劇シナプス』どうしを刺激させ、舞台上でそれぞれのイマジネーションをぶつけ合う。

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