#3 独り相撲

 

 

 あの日、真白は俺を押し倒して数分。じんわじんわと頬を紅潮させ、耐えられないとばかりに勢いよく俺から離れた。

 

 そして結局は返事もなあなあに、「ご、ごめんっ。帰るね」と彼女は家を出ていった。生殺しというほどでもないが、なんだか釈然としないまま、その日の会話は終わった。

 

 あれから一週間が過ぎた。俺の鼻腔にはまだ、彼女の髪にまとわりついていた椿の匂いが残っていた。どれだけタバコを吸っても、彼女の匂いが、声が、顔が海馬に染みついている。高校時代の彼女と共に。

 

 未練がある自分に、自分自身で驚いている。もう過去のことだと、夢に出てきても昔の話だと。そう言い聞かせるように生きてきた。俺が夢に見る彼女は、高校時代の、セーラー姿のものだった。そこにいる俺は、今の髪が白くなった姿。

 

 見た目ばかり変わっても、俺はどこにも行けていないじゃあないか。俺は鬱のとき、そういった夢を見るたびに、そう思っていた。

 

 まず、夢に出てくるくらいに思っているなら、そのたび精神に割と大きなダメージを負っていたのなら、未練どころかまだまだ付き合う気でいるんじゃあないか。押し倒された日の晩、俺は小さい部屋で、自分にとって大きな発見をした。

 

 自分の愚かしさに辟易としつつも、やはり今の俺には彼女以上はいないのだろう。より深く落ち込む俺は、近くのパチ屋に行くのも面倒で、キャンパスの喫煙所でタバコを吸っていた。

 

 ここのベンチは低くて、俺には少し小さく感じるので使いづらい印象が強い。なので学校の喫煙所は、あまり使わないようにしている。使わない理由なんてのは、他にもある。

 

 例えば、脳を筋肉と取っかえっこした、声のでかいバカな脳筋ロボトミー野郎こと運動部の奴らが騒いでいたり。例えば、教授が妙ちきりんな武勇伝を語るものだから。自分のつまらない生い先を考えてしまい、鬱屈となってしまうことがあったり。例えば――「鶴ちゃ~んっ!おはよ!」

 

「…………」

 

 例えば、知り合いに話しかけられたり。俺の知り合いで、タバコを吸うような奴と言って思い当たるのは、あいつらしかいない。

 

「先輩」

「えへへ、来ちゃった」

 

 と言ったものの、あいつらの中でも非喫煙者代表が立っていたものだから、俺は思わず面食らう。

 

 横浜洋六大学よこはまようろくだいがく、演劇部。その名も『劇団紫煙組しえんぐみ』。会計担当、古屋先輩だ。

 

 下の名前なんて、覚えちゃいない。

 

 俺は部を、最初の公演である文化祭の直後に抜けたのだ。つまり、去年の9月。だから、俺は特段演技の上手いわけでもない先輩の名前なんて覚えていないのだ。

 

 とはいっても、上手かったのなんて、現役で活動していた先輩では『ミヨ姉』くらいしかいないんじゃあないかな。順調に勉学面をクリアしていれば、いまの学年は3年だろう、『逢坂あいさかミヨ』先輩。

 

「おはようございます」

「ちょちょちょっとォ~。反応遅いんじゃあなァい?」

「すみませんね」

 

 あそこのクソナードよか、よっぽどタバコが似合うようなギャルっぽい古屋先輩は、令和の世にはばかることを許されない喫煙者の楽園に、あろうことかライターひとつ持たない丸腰で侵入してきた。

 

「……なーんか、ホント変わっちゃったね」

 

 古屋先輩は、手を後ろに組んで、隣にドカンと座った。香水の匂いが、副流煙と喧嘩している。

 

「素がコレなので……戻った、といった方が正しいですね」

「あたしたちの前では、猫かぶってたってこと? にゃ~ん♡」

「ええ、まあ、はい」

「素直なのはヨシ! でもねっ、みんな心配してるよ? 鶴ちゃん、鬱っぽいってさァ」

 

 鬱はもうほぼ治った、はずだ。しかし他人の目からすれば、あたかも意志薄弱に見えるらしい。心の病気という、あいまいで目に見えない病においては、他人のファーストインプレッションがそのまま、完治しているかどうかの判断につながる。

 

「誰からですか?」

「み、みんなだよッ! キャンパスで見るたび、落ち込むかタバコ吸うかしかしてないじゃん?」

「それは、まあ合ってる」

「でっしょォ~~!?」

 

 うるさい。とにもかくにもうるさい。俺はまだ半分しか吸っていないタバコを水平に消し、ベンチを立つ。

 

「テメェらには関係のないことです」

「あァー!? 待った待ったッ!!」

 

 ひときわやかましい声を出し、こちらの手をつかむものだから、イラっときて彼女のほうに勢いよく振り返る。

 

 すると、先ほどの声を出した人と同一人物とは思えないような、悲しさのような何かに顔をゆがめられた女が、俺の手をつかんでいた。

 

 細い指だ。しわも少なく、長くて細い指。タバコの匂いのしない指。

 

「……戻ってきてよ、鶴ちゃん。キミのおかげで、あたしたち、ようやく何かをつかめそうなんだよ」

「俺は、特に何もしてませんよ。あの部で」

「あのね、鶴ちゃん。あたしたち、鶴ちゃんに助けられてたんだ」

「……」

「それに……鶴ちゃんがいないと、あたし……寂しいよ……」

 

 結局はそれが本音か。『みんなが言っていたから』と言って、自分の意見を押し付けるようなやつを俺は嫌うので、その心意気は買いたい。

 

 しかし、彼女の思い通りになる俺の行動とは、俺があの部に戻ること。そいつは不可能だ、確実に。俺は基本的に、どの面下げてどこにも行けないようなやつなので、どの面下げて部活に戻ればいいというのだ。

 

「自分勝手だよね……ゴメン……」

 

 本当の気持ちを隠さず言える点においては、何も謝ることはない。ただ、相手が悪かったな。泣いてスーホの矢を抜く気持ちとまではいかないが、俺は彼女のほうを振り返ったまま手をゆっくりとほどく。

 

「それで、一番顔のいい英先輩が選ばれたと」

「……へ?」

 

 俺がそう言うと、古屋先輩はぽかんと口を開け、数秒遅れでその口を手でふさぐ。俺自身も、なんだかセクハラじみた発言でもしたかなと思ってしまう。

 

 発言をしたことそのものは別に俺は気にしないが、俺の知らないところでこの発言が独り歩きするのは、少々めんどっちいと言わざるを得ない。

 

「顔……いい……?」

「まあ、大根ッスけど」

「そりゃあさァ! 鶴ちゃんと比べられたら、ねえ!」

 

 いつもの先輩に戻ったようだ。

 

「……やっぱキミ、演技は上手いけど、その『顔』だと可愛げないよ。センパイ、困っちゃう」

「あんたが大根なのは本当ですよ」

「もーッ!! そーゆートコ!!」

「……冗談ですから、あまり大きな声を出さないでください。頭に響きますし、気の短い運動部が殴り掛かってきますよ」

「あっ、ご、ごめッ……」

 

 古屋先輩は、世間一般では宗教2世と呼ばれるような立ち位置の人間だった。

 

 家の写真を見せてもらったことがあるが、マップアプリで検索すると出てくるような、和風の大きい家だった。同じ宗教の人も集まってくるところとして使われているようだった。

 

 なんと言うんだったかな、ああいう意図で建てられた建物。アジトみたいな、サティアンみたいなアレ。

 

 そういった家に生まれてから20年少しという年月住んでおり、下の5人の弟や妹を呼ぶときなどに大きな声を使うことからも、昔から彼女は声の大きいほうだったそうだ。

 

 声質も明朗快活そのものだったことから、その声の大きさも見込まれ、彼女が1年次だった頃の部長にスカウトされたらしい。

 

 ともかく、彼女の声が無意識に大きくなってしまうのは俺も承知している。部内スマブラ大会でも、彼女のカービィの残機が減るたびに彼女の事件性のあるほどの悲鳴が部室に響いていた。

 

「そちらの考えなど、凡そ読めていますよ」

「……」

 

 落ち込んでいるところ悪いが、俺は腹が減ったので近くの焼肉ライクに行かなければならないのだ。あそこの肉の安さは福利厚生と言っても過言ではない。並ばないうちに行っておかねば。俺が動こうと思っているうちに。また面倒くさくなって行けなくなるうちに。

 

 部活に戻る気など毛頭ない。分かってくれよ。

 

「困るだとか寂しいとかも、その場しのぎの嘘なのでしょう」

「それは!」

「違いますかね」

「あたし自身の本心だよッ! 鶴ちゃんはね、あたしの憧れの演者でッ……」

「あなた『以外』は、どうですかね」

 

 一転、彼女は真剣な目になり、俯き気味に話しだす。

 

「あの部は、正直腐りきっている。もう真面にはなれない」

 

 その意見には全面的に同意だ。今の『劇団紫炎組』は、ほぼほぼ引退しかけの4年生と、『あのOB』がいる限り、もう立て直すことなんて不可能なほどに腐敗している。

 

 支える柱の腐った家がどうなるかなんて、小学生でも分かるだろうこと。今は大丈夫でも、いずれは崩れる。その崩れるまでの時間も、いつここが壊れるのか四六時中びくびくしながら暮らさねばならない。

 

「キミは、今あそこに戻っても歓迎はされない。それはあたしも分かってる。あたしの同期や、キミの同期はともかく……」

「やはり、『上の連中』は俺を追放しようとしていたのですね」

「あ、あたしは違うよッ!?」

「どうだか」

 

 すると彼女は立ち上がり、俺の両手をつかみ、胸元に持ってくる。

 

「ホンキ、だからッ」

「何が。というか、何に」

「キミに」

「……そりゃよかったッスね」

 

 この人は、誰にでもこういうことをするし、こういうことを言うような人間だ。惑わされないぞ、俺は。

 

 普通の男子大学生ならば、その有り余る性欲から来る脳内のエロ・シミュレーターから『この人、オレの事スキなんじゃねッ!?』と勘違いしてしまうところだ。

 

「キミ、ぶっちゃけ自分自身を低く見すぎだよ」

「その心は?」

「演技、気配り、鼓舞……どれをとっても、キミの才能はホンモノだよ。たとえその全てが、猫かぶりだったとしても」

 

 どの立場から言っているんだ、と一瞬だけイラついたが、彼女も演技や気配りは一級だ。それは自他ともに認めている事実。

 

 そんな古屋先輩からこういった誉め言葉をいただけたのだから、ここは素直に受け取るべきだ。と、普通なら思うだろう。

 

 俺には、そんな風に俺が見えていない。これが俺をおだてる古屋先輩の罠かもしれない。そういった考えよりも先に、俺の胸中には、『俺は人間として価値なんかない』という潜在意識に近い言葉が、歩道橋に書かれた標語のように嫌でも目立ってしまっている。

 

「信じてない? あたしの言葉を、あたしのことを」

「俺は……俺を、信じられていない……俺、は…………」

 

 瞬時に、脳内にフラッシュバックする、過去の失敗の記憶。その記憶のほとんどにいる、真白の顔。俺は震える手で、慌ててタバコを取り出す。

 

 こういう時に限って、ライターの火が一向に点かない。オイルが切れているからだろうか。イラつきがピークに達し、同時に不快な記憶の濁流をせき止めるダムが崩壊する。

 

 息が荒くなる。手の震えが止まらない。瞳孔もおそらく挙動がおかしくなっているだろう。周りの引いている視線が刺さる。

 

「鶴ちゃんッ!!!」

 

 黒くなった頭の中に、北極星が見えた。一番星のように主張の激しいその声は、やはり演者に向いていると言わざるを得ない。

 

 気付けば、身体が強く締めつけられていた。古屋先輩が、俺に抱きついていたのだ。

 

 彼女は俺のタバコを持ち、それをひっくりかえさにする。

 

「逆さだよ」

 

 古屋先輩の大声に、救われる時が来るとは。俺は俺自身の不安定すぎる精神状態にうんざりしながら、タバコをしまう。

 

「今までのキミは偽物でもいい。気を遣ったり、演技したりするのは諦めてもいい。でも、勝手に自分を値踏みしないで」

 

 彼女は鼻の詰まったような声で、俺の胸に顔をうずめながら話す。

 

 泣いてるのかよ。俺なんかが、少しバッドに入ったばかしで。

 

 しかし現に、明らかに様子のおかしくなった俺を、勝手にしんどバッドな俺を前に、逃げずに助けてくれて、あろうことか抱きしめてまでくれる彼女のことだ。バカみたいにお人好しだな。宗教勧誘に気をつけてくれよ。

 

「欲を言えば?」

「戻ってきて」

 

 同じことしか言わねえな、この人。

 

 だから、俺は部に戻りたくなんかないんだよ。そんな嘘を言いかけたとき、古屋先輩は、ばっと顔を上げる。

 

 充血しきった目から、零れる大粒の雫。俺の服についてんじゃあねーかってくらいに崩れたメイク。涙袋は天然ものだったんだな、と俺が呑気なことを考えていることもつゆ知らず、彼女は俺の頬を包むように触る。

 

「あたしが、キミの全部を受け入れてあげる」

 

 そこから首の後ろに手を伸ばし、俺の顔は彼女の顔に近づけられる。

 

 タバコの臭さといった競合相手がいなくなり、より顕著になった香水のかほりが鼻を刺す。唇どうしが、指一本分の感覚をあけて衝突間近。

 

「あたしにキミの全部をちょうだい。鶴ちゃん」

 

 震える厚い唇で、俺を口説く古屋先輩。その表情は、俺以外の誰にどう聞いても『ホンキ』のモノだろう。

 

 夢中になるのはいいが、あなたと同じ学部の陽キャが後ろで崩れ落ちていることにも気づいてやれよ。

 

「だから……死なないでよ」

「飛躍しすぎですよ」

「だって、今の鶴ちゃん……っ」

「……はは。死にそうな顔、してますか?」

 

 あなたが鬱に見えるってんなら、俺は鬱なんでしょうね。どんな顔してんだろうなあ、今の俺。

 

 きっと、真白への未練を消しきれない、惨めな男がそこにはいるんだろうな。

 

 俺は乾いた笑い声をあげる。

 

 すると彼女は、俺の身体にすがりながら、ずるずると下に。崩れ落ちるように地面にへばり、背中を震わせる。

 

「ッ……なんで……」

 

 俺はその言葉を聞いた瞬間、耳をふさいでしまう。

 

「なんで鶴ちゃんがッ!! こんな目にあわなきゃいけないンだよォォォッ!!!」

 

 あんたの叫びを聞いたら、決意が揺らいでしまうかもしれないから。

 

 俺は、耳の穴に指を入れると同時に、かたく決心をした。俺は、古屋先輩をこんなにした部を許さない。そして、俺は俺自身を許さない、と。

 

 俺という人間に触れてしまったせいで、古屋先輩はこうなってしまった。この責任は、演じるという快楽を忘れられずに再び禁断の果実に手を伸ばしてしまった俺と、俺の存在を許さなかった部の『上の連中』の責任だ。

 

 この責任から、俺は逃れるつもりはない。あいつらはどうかな。

 

 声の大きい彼女を見習い、あるいは敬意を表し、俺は少し声を張って後ろに声をかける。

 

「キャンパス内で見かけたら、声かけてくださいな! ……部を抜けても、死ぬわけじゃあるまいし。会うことはできますよッ」

 

 思ったよりも声量が大きくなってしまった。舞台に戻るのは、この感覚があるうちだろうな。

 

 俺は頭に、とある疑問が過る。能動的に、俺がある日突然思い立って自殺をしたならば、この人はそれに気づくこともなく、俺を探し続けてくれるだろうか。

 

 まあ、それはそれで、生まれてきてよかった、死んでみてよかったと思えるだろう。俺が死んだその後の、彼女の様子を確かめるすべは一切としてないのだが。

 

 喫煙所から離れ、俺はため息をつく。

 

「鶴ちゃんって呼ばれ方……苦手だなぁ~ッ……」

 

 なんとなく、上を向いてみた。いやに真昼の太陽が眩しく、白い月が目に付いた。

 

 




tips.横浜洋六大学

 横浜の中区と金沢区にキャンパスを置く大学。18の学部・25の学科・4つのキャンパスを有している。空飛夢は法学部、古屋は経営学部である。

 部活動・サークル活動も盛んで、とくに陸上部とフェンシング部は、強豪として県内外を問わずその名を轟かせている。

 演劇部もあり、名前は『劇団紫炎組』。大会のない大学演劇界の中でも、近所の大学同士での勢力関係というものはなんとなくあるものだが、現在横浜市内にある18の大学の中でも『劇団紫炎組』は、全体的な実力として下の方にいるようだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る