難病ヒロイン、ハードボイルド世界を生き抜く

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第1話

 鼻の軟骨が潰れた。左手にはひびが入った。右手は腕の骨が折られた。両足をねん挫した。戦いが散々な結果だったのは当然だった。むしろ、その程度で済んで幸運と考えるべきかもしれない。相手は素手ゴロのプロだった。メッチャクチャ強かった。バールビンデシオはおおよそ、そういった趣旨の発言をしてからタバコを吹かした。

「まあね、勝てなくても戦う姿勢を示すのは、人生において重要なことだから」

 ジャドネ・モーボンは黙って話を聞いていた。葉巻は銜えたままで、火を点けていない。場所は病院の敷地外にある喫煙所だ。隣接する公園の端にある灰皿スタンドの周囲が病院に入院している患者の喫煙スペースだった。入院中のバールビンデシオに誘われ、その場所へ行ったのだが、彼自身はそれほど喫煙したい気分ではなかった。

「なあ、バールビンデシオ」

「ん?」

「入院期間は一体どのくらい伸びそうなんだ?」

 ジャドネ・モーボンの質問にバールビンデシオは首を横に振って答えた。

「分からんね。こっちが知りたいよ」

 バールビンデシオはアルコール依存症による内臓疾患で入院していた。酒が切れた彼は、こっそり病院を抜け出し、酒場に行って痛飲した挙句、その店で揉め事を起こして用心棒に叩き出された。怪我は軽くなかった。内科系の疾患だけでなく、外科的な治療まですることになった。

「腕がやられたんじゃ、飛行機の操縦は当分できないだろう。どうするつもりだ?」

 詰問するジャドネ・モーボンに対し、バールビンデシオは惚けた口調で答える。

「ほら俺、飛行時間が二万時間を超えるベテランのパイロットだから、どうにかなるよ。砂漠の真ん中に墜落したときは、本当にヤバかった。あれよかマシだ」

 それからバールビンデシオはウフフと笑った。

「あんときはね、王子様が助けてくれたんだ。星の王子様がね」

 ジャドネ・モーボンの頬がビリっと震えた。その口が開く前にバールビンデシオは言った。

「まあね、体の怪我は、もう大丈夫っしょ。飛行機も飛ばせるさ。でも、体が困った状態だ。それほど飲んだつもりはなかったけど、数値が元通りになった。つまり、悪化したってことやね。入院前に戻ったっちゅうこった」

 そう言いながらスッパスッパとタバコを吹かすバールビンデシオを、ジャドネ・モーボンが渋い顔で見つめる。

「健康には気を付けてくれ」

 バールビンデシオは悪戯っぽく片目を瞑った。

「お前さんに寿命を心配されるとは思わなかったよ、冷血人間のお前さんにな」

 ジャドネ・モーボンはボソッと呟いた。

「てめえの寿命なんか興味ない。飛行機を操縦する間だけ健康なら、それでいい」

「ああ、分かったよ」

 そう言ってバールビンデシオは灰皿スタンドにタバコを捨てた。その中に満たされた水がタバコの火を消す「ジュッ」という音が聞こえた。

「それじゃ、俺、病室へ戻るわ。外に出たって分かると看護師がギャーギャーうるせえんだ。お見舞い、どうもなあ、ありがとなあ」

 松葉杖のバールビンデシオが、ほんのわずかな段差に引っ掛かって転びそうになるのを、背後のジャドネ・モーボンは冷たい目で眺めた。アル中の元パイロットが病院の通用口の中に消えていく。その足取りは危なっかしい。使い慣れない松葉杖のせいだけではないだろう。全身の衰弱が進んでいるのだ。

 見送るジャドネ・モーボンの顔に浮かぶのは、不機嫌と不安の入り混じった表情だった。バールビンデシオに飛行機の操縦を任せたら、乗客の命は幾つあっても足りない。そのとき、背後に人の気配がした。コートに利き手を入れつつ振り返る。

 綺麗な女がいた。灰皿スタンドの横に立ち、ハンドバッグからタバコの箱を取り出そうとしていた。箱を出すと、一本銜えた。その後もハンドバッグの中を探し続けている。

 ジャドネ・モーボンはコートの中に差し入れた手をゆっくりと出した。女に背を向ける。そのときだ。

「失礼ですが、火を貸していただけませんか?」

 踏み出した足に重心を掛けたまま、ジャドネ・モーボンは半回転して振り向く。タバコを銜えた女が彼に笑顔を向けている。

「どこかに忘れてきたみたいで」

 コートの外のポケットから銀色に輝くライターを出し、女のタバコに火を点ける。女は紫煙を吐き出した。

「ありがとう」

「どういたしまして」

 そう言ってジャドネ・モーボンは女に背を向けた。公園を出て病院の正面玄関前からタクシーに乗る。行き先を告げ、握り締めたままだったライターで葉巻を火を点けようとして「車内禁煙」の張り紙に気付く。彼は葉巻をコートの内ポケットに入れた。車窓を流れる街の景色に目をやる。冬のさなかの街路樹には一本の葉も茂っていない。灰色の空の下を動いているのは車と通行人だけだった。

 家に戻るとジャドネ・モーボンはコートを脱ぎ、それから手洗いとうがいをした。それを見たマッドウィックは驚いた様子で言った。

「ハードボイルドな男も健康に気を遣うんだな」

 ジャドネ・モーボンは洗面所の鏡に映る金髪の青年の顔をジロッと見た。

「病院からの帰りだ。悪い細菌やウイルスは、出来る限り除去したい」

「そうは言ってもさ、あんたはハードボイルドな男じゃんかよ。そんなのに、神経質な手指消毒とか、似合わなくね? なんか、合わなくね?」

 タオルの代わりにキッチンペーパーで手を吹いて、使った紙をゴミ箱へ捨てたジャドネ・モーボンは振り返った。

「感染症を舐めない方が良いぞ」

「なんで? たかが風邪だろ?」

「俺が前につるんでいた相棒の話だ」

 そう断ってからジャドネ・モーボンは話を続けた。

「そいつは異世界から転移してきた奴だったんだが、その前にいた世界ってのが原因不明のウイルスが蔓延して滅びたそうだ。あっという間の出来事で、誰もどうすることも出来ずに。それで、あの男は転移後の、この世界に来てから消毒を熱心にするようになった。こっちも滅んだら大変だと思ったんだろうな」

 マッドウィックは顎のニキビに触れながら言った。

「世界って、そんな簡単に滅ぶものなのか。困ったねえ」

 あまり困ったような顔ではない。その横を通ってジャドネ・モーボンはリビングへ向かう。戸棚からウイスキーのボトルとグラスを取った。一杯やる。二杯目を注いでソファーに深々と座る。葉巻に火を点ける。

 台所から紙パック入りのジュースを持ってマッドウィックがリビングへ入ってきた。パソコンが置かれたテーブルの椅子に座り、紙パックから直接ジュースを飲む。

「それで、バールビンデシオのおっさん、体の具合、どうだったのさ?」

 ジャドネ・モーボンは紫煙を吐き出しながら言った。

「悪い」

「あんたが言ったように、すぐに死にそうかい?」

「今日明日ってわけじゃないが、長くはない」

 マッドウィックは額を爪で掻いた。

「そんなに酷いの?」

「少なくとも、冒険旅行ができる体力は残されていないな」

 ジャドネ・モーボンはグラスのウイスキーを啜った。

「バールビンデシオの代わりになるパイロットを見つけないといけない」

「代わりのパイロット」

「ああ、あいつの腕はすっかり衰えた。昔の凄腕パイロットの面影は、どこにもない」

 口を尖らせてマッドウィックが言う。

「でも、飛行時間は二万時間を超えるベテランのパイロットだって、自慢してたじゃないか」

「昔のことだ。今は違う」

 マッドウィックは納得しかねる様子だったが、ジャドネ・モーボンは別の話題に切り替えた。ソファーから体を起こす。

「墜落機の周囲に変わりはないか?」

 パソコンの画面を横目で見て、マッドウィックが答える。

「衛星写真を見たところでは異常なし」

 ジャドネ・モーボンはソファーから立ち上がった。パソコンが置かれたテーブルへ歩く。マッドウィックの横に立つ。

「画像を拡大してくれ。墜落機の周辺を」

 マッドウィックがマウスを操作した。拡大された画像をジャドネ・モーボンは仔細に観察した。数百年前、鬱蒼とした大森林の真っ只中に墜落した異次元からの宇宙船は緑の樹木に覆われて肉眼では見えない。画像解析で、やっと分かる程度だ。

 それでもジャドネ・モーボンは緑の映像を見つめ続けた。そんな彼にマッドウィックが尋ねる。

「一つ、聞いていい?」

「何だ?」

「今さら、何だけどさ」

「早く言え」

「ここに本当に、お宝があるの?」

「ある」

「どうして分かるのさ?」

 ジャドネ・モーボンはマッドウィックを横目で見た。

「前にも言ったろ」

 マッドウィックは肩をすくめた。

「忘れたわけじゃない。ああ、忘れたわけじゃないさ。ただ、うん、ただね、ここで聞いておいた方が良い気がしたんだ。つまり……モチベーションってやつだよ。命がけの冒険への意欲って言うかさ、どうして自分たちが今ここにいるんだろう、僕たち何しているんだろう? みたいな疑問がさ、ふっと湧いてきて、それで」

 爪を噛み始めたマッドウィックの横でジャドネ・モーボンは紫煙を吐き出した。

「情報源は言えない。お宝は、あるとしか言えない。だが、その価値は教えられる。抗老化剤が最低でも二万パックはある計算だ。半値で売ったとしても百兆クレジットにはなる」

 爪を噛むのをやめたマッドウィックが、代わりに口笛を吹く。

「それだけあれば国が買えるね」

「この星の全部を買えるかもしれん」

 翌日の午後、ジャドネ・モーボンは再びバールビンデシオが入院している病院へ行った。必要な物があるから持って来てくれと頼まれたのだ。

 渋々とジャドネ・モーボンは病院へ向かった。バールビンデシオには身寄りがいない。そこで入院の際に必要な保証人になっている。何かあればジャドネ・モーボンの電話が鳴ることになっていた。それが今だった。

 バールビンデシオの病室にジャドネ・モーボンが入ると、パジャマを着た可愛らしい娘が変なダンスの真っ最中だった。年は十代の中頃だろうか。凄いターンをクルクルッと決め、パッと静止する。彼女がドヤ顔で決めポーズをすると、ベッドの上のバールビンデシオがヤンヤヤンヤと盛大な拍手を送る代わりにねん挫した足をバタバタ動かしスリッパで床を鳴らした。

「巧い、お嬢さん、凄く上手!」

 少女は照れて頭を掻いた。それからジャドネ・モーボンを見た。

「お見舞いの人ですね。お邪魔しました。それじゃ、おじさん、またね!」

 手を振って部屋を出ようとする少女をバールビンデシオが呼び止める。

「ちょ、ちょま、ねえ、ちょっと待って!」

 それからバールビンデシオはジャドネ・モーボンに言った。

「頼んだもの、持って来てくれたか?」

「ん、あ、ああ」

 ジャドネ・モーボンは持参したバッグと紙袋をベッドの上に置いた。それらの中を確認してバールビンデシオは頷いた。

「よっしゃ、これでいい。どうもなあ、ありがとなあ、あんがとさんなあ」

 礼を言ったバールビンデシオは少女にベッドの上にある土産の品を見せた。

「これ! この前お嬢さんに話したゲーム機とゲームソフトが、これ!」

 既に目を爛々を輝かせていた少女は食いついてきた。バールビンデシオの近くへ駆け寄る。ベッドに置かれたゲーム機やゲームソフトを次々と手に取り、彼女は興奮気味に言った。

「これって、お宝だよね。中古屋で、物凄く高く売ってんの、あたし見たことある!」

 バールビンデシオはウンウンと頷いた。

「そう。これはおっちゃんが、子供の頃に買ってもらったゲーム機。ソフトは小遣いで買い集めた。どれも半世紀以上前の品だけど、まだ動く。普通に遊べる」

 その言葉を聞き、少女の鼻息が荒くなった。

「やってみたい!」

「それじゃ、配線をつなげよう」

「それじゃ、俺はこれで失礼する」

「ちょ、ちょま、ねえ、ちょっと待って!」

 帰りかけたジャドネ・モーボンをバールビンデシオが呼び止める。

「配線、つないでやって」

 振り向いたジャドネ・モーボンが尋ねる。

「何の話だ?」

「ゲーム機だよ」

「ん?」

「昔のゲーム機はテレビと線でつながないといけないんだ。お前ぐらいの年なら、知っているだろ」

「ああ」

「この子は分からないよ。やってやってくれよ」

 バールビンデシオはギブスが装着された自分の手を見せた。ジャドネ・モーボンは酔いどれの代わりにゲーム機とテレビの配線をつないでやった。ゲーム機の電源スイッチを入れる。起動画面がテレビに出てきた。少女は歓声を上げた。

「すご、すご、凄い! これ、懐かしのゲーム機特集で見た。いや~人生、何が起きるか、わかんないね! 長生きはするもんだね!」

 その言葉を聞いて、バールビンデシオの肩がピクっと震えた。ジャドネ・モーボンは言った。

「それじゃ、俺はこれで」

「ちょ、ちょま、ねえ、ちょっと待って!」

「何だよ?」

 ニマッと笑ってバールビンデシオは言った。

「俺の代わりに、この子のゲームの相手をしてやってくれないか?」

 口の端をわずかに上げてジャドネ・モーボンは言った。

「お前がやれよ、タバコが吸えるんだから、コントローラーの操作だってできるだろ」

「両手を使えないとな、できねえ」

 二人は無言で睨み合った。そんな二人の様子を見て、少女はおずおずと言った。

「あたしのことなら、大丈夫ですよ」

「いや、それはちょっと違う。ゲームは一人でも楽しい。でも、種類によっては二人以上でプレイした方が楽しい場合がある。対戦型ゲームなんか、そうだ」

 それからバールビンデシオはジャドネ・モーボンに頭を下げた。

「頼むよ」

 ジャドネ・モーボンは部屋の隅の壁に立てかけてあったパイプ椅子を一つ持って来た。ベッドの横に置かれていた丸い椅子を顎で示し、少女に尋ねる。

「どちらに座る?」

 少女は一瞬、固まった。

「あ、それじゃ、わたしは、こっちの青いクッションの丸い椅子で」

 パイプ椅子に腰かけたジャドネ・モーボンは二つあるコントローラーの一つを手にした。

「やりたいゲームを選んでくれ」

 少女はバールビンデシオをチラッと見た。ベッドに座った初老の男はニコッと笑って頷いた。少女はバッグと紙袋の中を漁り、一本のゲームソフトを取り出した。

「じゃ、まずはこれ」

 少女からソフトのカートリッジを受け取ったジャドネ・モーボンがゲーム機の挿入口に差し込む。少女がゲーム機の電源スイッチを押した。画面にゲームの初期画面が映った。バールビンデシオが言う。

「二人プレイのボタンを押して」

 ジャドネ・モーボンがコントローラーを操作する前に少女が二人プレイのボタンを押した。ゲームが始まった。それは格闘ゲームだった。二人はそれぞれのキャラクターを選んだ。

 少女の選んだキャラクターは画面の色を一瞬だけ変えたり、極彩色の輝きを放ったり、変な踊りを舞って数秒間にわたって敵を混乱させたり、奇怪な波動を放出してジャドネ・モーボンの操作するキャラクターをズタボロにした。

「相手にならんな」

 バールビンデシオは呆れ顔で言った。ジャドネ・モーボンはコントローラーを握る指先をクネクネ動かした。

「リハビリを兼ねた準備運動は終わった。次から本気を出す」

 同じキャラクターで第二ラウンドが始まった。今度はジャドネ・モーボンもやられっぱなしではなかった。相手の攻撃をいなした。ガード中の相手を放り投げた。キレた少女が「フン!」と鼻音を鳴らした。彼女の操作するキャラクターが猪突猛進してくると、その攻撃を見切り、鋭いカウンターパンチを食らわした。少女のキャラはノックダウンされた。少女は目を見開いて惨劇を凝視した。信じられないといった表情だった。バールビンデシオは論評した。

「ジャドネ・モーボンは特殊攻撃を一切使わずにリオノーラのキャラをぶっ倒したな。大したものだ。基本的な数値が低いはずなのに、これは立派な結果だよ」

 褒められてジャドネ・モーボンは右の頬を指先で掻いた。

「スペックでは向こうにかなわないから、技術で勝負した」

 おっさん二人が感想を述べていると、リオノーラという名の少女が電源スイッチを切らずにいきなりカートリッジを引っこ抜いた。バールビンデシオの口から、か細い悲鳴が迸った。

 リオノーラは別のソフトを取り出しジャドネ・モーボンの鼻先に突きつける。

「次の勝負はこれ、これ!」

 ジャドネ・モーボンはカートリッジの表面に貼られたシールを見た。そこに書かれたゲームの名前を読む。

「どっきりしゃっきりすっきりビクトリー・カーレースか。何度かプレイした。先に使用するマシンを選んでいいぞ」

 リオノーラはもっともハイスペックのレースマシンをセレクトした。ジャドネ・モーボンの選んだマシンは平均的なスペックだった。

「じゃ、始めるよ」

「すまん、マシンの足回りの設定を微調整させてくれ」

 コントローラーの十字ボタンを何度も動かし細かい数値の再設定をしてからジャドネ・モーボンは頷いた。

「始めよう」

 リオノーラはゲームスタートのボタンを押した。画面に大きく数字が表示される。5、4,3,2,1,0と来たところで彼女は幾つかのボタンを激しく連打した。彼女の操作するマシンがグルグル回った。スピンしたマシンは横でレース開始を待っていたジャドネ・モーボンのマシンへ体当たりした。ぶつけられた彼のマシンはコース外の吹き飛ばされた。

 バールビンデシオが呻く。

「隠し技か。久々に見たな」

 リオノーラは可愛らしい顔を歪めて「ぐひひ」と笑った。ジャドネ・モーボンは奥歯を噛みしめながらコントローラーを操作して自分のマシンをスタート地点に戻した。急いで発進させる。そのときにはライバルのマシンは遥か向こうを疾走中だった。タイムロスは大きい。

 バールビンデシオがジャドネ・モーボンに言った。

「先行する車に追いつくのは、もう無理じゃないかな」

 リオノーラはニッタラニッタラ笑った。

「う~ん、でもさ、このレースはゴールまでコース五周の設定だから、まだわからないんじゃないかな」

 バールビンデシオはリオノーラに注意した。

「気を付けろよ、お嬢さん。コース内へ入って来る奴らがいるからな」

「知ってるって……ぐあああ!」

 突然コースへ飛び出してきた鹿とぶつかりかけたリオノーラのマシンがクルクル回ってコースアウトした。彼女はボタンを連打してマシンをコースへ戻す。画面の端にあるサーキットの全体図を見る。ジャドネ・モーボンのマシンが近づきつつあった。舌打ちをしてマシンを発進させる。猛スピードでヘアピンカーブに突っ込む。派手にタイヤを鳴らして回り、それから再加速する。サーキットの全体図に目をやる。

 ジャドネ・モーボンのマシンの位置を示す赤い点との距離は広がっていない。むしろ近づいていた。リオノーラは歯を食いしばった。新たな障害物が出現し、マシンの進路を塞ぐたびに「ぎょえ~!」「うわはははっ!」「なんなんよ、これ、なんなのよ!」「ぎひひひひぃ!」「寿命が縮まる! 寿命が縮まる!」などと叫ぶ。

 バールビンデシオはジャドネ・モーボンに言った。

「コースのライン取り、上手いな」

「まあね」

「センチの単位で取ってんの?」

「ミリだね」

 レースは最終ラップに突入した。二台のマシンの順位は相変わらずだが、距離は迫っていた。カーブでジャドネ・モーボンは距離を詰めた。しかしストレートだとエンジンの性能が勝るリオノーラのマシンに利があった。ゴールは写真判定となった。少女が勝者だった。

 リオノーラはガッツポーズをした。

「よっしゃ~! 勝った!」

 ジャドネ・モーボンはコントローラーを膝の上に置いた。バールビンデシオは感想を述べた。

「五周じゃなく十周のレースだったら、お嬢さんの勝ちはなかったかもな」

 リオノーラは素直な顔で頷いた。

「そうかも。現に今も危なかった」

 そしてコントローラーで自分の膝をバンバン叩いた。

「このゲームの最新版の方がね、操作性はいい。これ、ちょっと反応が遅い。最新のゲーム機で戦ったら、あたしの圧勝だったと思う!」

 バールビンデシオは言った。

「そのコントローラー、代わりの品がないから大事に使って」

「あ、すみません」

「でもまあ、もうそれはお嬢さんのものだから、好きにしていいよ」

「え」

「あげるよ、お嬢さんに」

 リオノーラは飛び上がらんばかりに喜んだ。

「ありがとう! おじさん、ありがとう! やったー! お宝ゲットだぜ!」

 ジャドネ・モーボンは立ち上がった。

「じゃ、俺は帰る」

 そのとき病室のドアをノックする音がした。バールビンデシオが返事をするとドアが開いた。奇麗な女が立っていた。女は言った。

「うちの娘が、こちら様にお伺いしていると伺ったもので」

 リオノーラは自分の母親に手を振った。

「あ、ママだ。ママ、ヤッホー!」

 女の表情が心なしか険しくなる。

「やっほーじゃないでしょ。何ですか、人様の病室で大騒ぎして。あなたの大声が廊下まで響いてましたよ」

「それは生きている証ってことで。それよりママ、これ見て!」

 バールビンデシオから贈られたゲーム機とゲームソフトを母親に見せる。

「貰っちゃった!」

 リオノーラの母親はバールビンデシオとジャドネ・モーボンに頭を下げて礼を言った。バールビンデシオが何か答えた。ジャドネ・モーボンは、この女と最初に会った時のことを思い出していた。昨日、病院の隣にある公園の喫煙場所でタバコの火を貸した女だった。

 リオノーラと彼女の母親が部屋を出た後で、ジャドネ・モーボンは言った。

「ずいぶんと元気な娘っ子だな」

「そうだな。でも、もうあんまり長くないんだってさ」

 ジャドネ・モーボンは怪訝な顔でバールビンデシオを見た。バールビンデシオは顔をクシャクシャにして言った。

「自分で言っていた。余命わずかなんだってさ」

 家へ戻ったジャドネ・モーボンに留守番のマッドウィックが話しかけた。

「遅かったな」

「ああ」

「何かあったのかい?」

「別に」

「あのゲーム機とゲームソフト、動いたかい?」

「動いた」

 聞いたマッドウィックの顔に驚きの色が浮かんだ。

「手が使えないバールビンデシオの代わりに、あんたがゲーム機の本体を起動させたの?」

「ああ。そして二本ゲームをプレイした」

「あんたが? テレビゲームなんか、絶対やりそうにない人間なのに?」

「やるよ、たまにはな」

「そうなんだ。でも、おっさん二人でゲームって、変な構図だね」

「バールビンデシオは片手しか使えないから、やらなかった」

「独りでゲームしてたの?」

 ジャドネ・モーボンはしばし考えてから言った。

「一人じゃない。リオノーラと一緒だ。そういえば、ゲーム機の電源スイッチを押したのも、あの子だったな」

「誰それ?」

「自称、余命わずかな少女だ」

「え」

「詳しいことは何も知らない。バールビンデシオの話した通りだとすれば、長生きはできない女の子だ」

「ちょ、ちょ、ちょま、ねえ、ちょっと待って、それ、どこから出て来たの?」

「ゲーム機の電源スイッチを入れたのは、彼女だった」

 狐につままれたような顔をするマッドウィックに説明する。

「バールビンデシオは入院仲間の女の子と親しくなった。二人ともゲーム好きだったんだ。可愛い娘さんだったよ。それで、あしながおじさん気取りの紳士バールビンデシオは、そのお嬢さんに自分の古いゲーム機をプレゼントしたくて、俺に病院まで持って来させた。そして俺は、バールビンデシオに代わってゲームをした。彼女と対戦ゲームで、ちょっとばかり」

 マッドウィックは不思議な事実を発見したかのように興奮して鼻の穴を広げた。

「色々あって驚いたけど、特に新鮮な驚きだったのは、ジャドネ・モーボン。あんたのことだよ。いやはや、ハードボイルドな男もビデオゲームをするんだな!」

 ジャドネ・モーボンは深く息を吐いた。

「俺は別にハードボイルドな男ってわけじゃない。仮にそうだとしても、昔からそうだったわけじゃない。俺にも子供の頃があった。学生の頃はゲームに夢中になっていた。その時代には、ゲームをやったよ、普通に」

 マッドウィックは口唇を舐めた。

「そうだな、それが普通の子供時代だな。さて、それじゃ留守の間に起きたことを報告するよ」

 パソコンの画面を指で示す。

「墜落機に異常はない。だが、軍の監視衛星のコントロール機構に侵入を試みた奴がいる」

 マッドウィックは鼻の頭をこすり、パソコンの前の椅子に座るジャドネ・モーボンに、その指を向けた。

「軍は、それに気が付いてネットワークを遮断した。言っておくが、こちらの心配はご無用だから。そんなヘマ、しないから。僕は、バレていない。軍の管理者は、こっちに気付いていないから。でも、監視体制は強化された。二度目のハッキングを防ぐために」

 ジャドネ・モーボンはパソコンの画面からマッドウィックの方へ顔の向きを変えた。葉巻を銜える。

「話を続けてくれ」

 マッドウィックは頷く。

「ハッカーは、この地域の衛星写真をチェックした。具体的には、この墜落機のエリアだ。ここだけを重点的に調べたんだ。どういうことだろう、それは、つまり」

 葉巻を銜えたままジャドネ・モーボンは頷いた。

「危険な兆候だな」

「その通り。僕ら以外にも、この墜落機に興味を抱いている人間がいるかもしれないってことだからね」

 マッドウィックの言葉を聞き、ジャドネ・モーボンは苦い顔で頷いた。

「俺の推測も同じだ」

 翌日、ジャドネ・モーボンはバールビンデシオや病院から呼ばれていないのに見舞いに出かけた。受付のスタッフから「毎日お疲れ様です」と言われた。病室に入る前、廊下を歩いているときから女の子の声が聞こえてきた。「ぎょえ~!」「うわはははっ!」「なんなんよ、これ、なんなのよ!」「ぎひひひひぃ!」「寿命が縮まる! 寿命が縮まる!」と元気が良い。これならノックをしても聞こえない。挨拶抜きで扉を開ける。

 ベッドの上のバールビンデシオがジャドネ・モーボンに気付いた。ぐすっと笑う。

「ノックは無用かよ。まあ、いいさ。俺とお前の仲だ」

 テレビに向かってゲームをしているリオノーラは、入り口に背中を向けているのでジャドネ・モーボンに気付かない。その隣のパイプ椅子に腰かけているリオノーラの母親は、彼に気が付き会釈をした。

 ジャドネ・モーボンは軽く会釈をして言った。

「どうも、こんにちは」

 そしてバールビンデシオに話しかける。

「よお、具合はどうだ?」

「快調だ」

 にこにこしているバールビンデシオの目に鋭い視線を送りつつ、ジャドネ・モーボンは言った。

「ちょっと話をしたい」

「いいとも」

 リオノーラの母親は立ち上がった。

「お邪魔して申し訳ございません。さ、行きましょう」

 娘に部屋を出るよう促すが、ゲームに集中しているリオノーラは言うことを聞かなかった。

「ママ、今あたし動けない。今ここで戦わないといけないの。残機三つにエクストラステージでの補充一機で合計五機なのよ。これなら、この難関ステージをクリアできる。こんなん、やるしかないって。これで戦えば、敵の大型戦艦を撃破できる。絶対に勝てる。遂に、この大物を片付けられるのよ! このときを逃したら、あたし、こいつに勝てないまま死んじゃう!」

「いいかげんにしなさい!」

「いいよ、お嬢さん、ゲームを続けていて」

 バールビンデシオはベッドを降りた。壁に立てかけている松葉杖を取って、ジャドネ・モーボンに言った。

「喫煙場所へ行こう」

 平身低頭のリオノーラの母親に手を振り、バールビンデシオは廊下に出た。廊下の端にある窓を見やって、彼は言った。

「喫煙の場所は人がいることが多い。あの窓から見れるから、ちょっと見て来てくれ」

「お断りだ。それなら最初から、人のいない場所へ行きたい」

「屋上へ行こう」

 二人はエレベーターで最上階へ行き、そこから階段を使って屋上へ出た。ジャドネ・モーボンは習慣で葉巻をコートの内ポケットから出した。ライターを探していたら、自分を見るバールビンデシオの視線に気づいた。

「なんだ?」

「ここは禁煙だ」

 ジャドネ・モーボンは葉巻をコートの内ポケットに戻した。

「吸わないのか?」

「俺は禁煙することに決めたよ」

 一呼吸してジャドネ・モーボンが言った。

「早く出発したい。退院してくれ」

 バールビンデシオは唾を飲んだ。

「いきなりだな」

「墜落機の存在に気付いた奴らがいる。一刻の猶予もない」

 松葉杖を両手で軽く叩き、バールビンデシオは言った。

「体の自由が利かない。上手く飛ばせるか分からない」

「二万時間を超える飛行時間のキャリアを生かす時だ」

「内臓が」

「抗老化剤を使えば病気の進行は食い止められる。自分の取り分で何とかなるだろ」

「しかし」

 逡巡するバールビンデシオに詰め寄る。銜えた葉巻を左手の指に挟む。右手は病衣の胸倉をつかむ。ジャドネ・モーボンは病人の顔に食いつかんばかりの勢いで言った。

「ここで後れを取るわけにはいかないんだ。飛行機の操縦ができないのなら、この仕事を降りろ。こっちで代わりのパイロットを探す。約束していたお前の分のお宝はやれないが、ここまでの分の金はやる。それで手を引け」

「大した額は貰えないよな」

「当たり前だ。まだ何もしてないんだからな」

「行くよ」

 溜め息を吐いてバールビンデシオが付け加える。

「俺の取り分の抗老化剤をリオノーラに分けてあげたいんだ」

「好きにしろ」

 病室に戻るとマッドウィックがいた。母と娘と和やかに談笑していた金髪の青年は、入ってきた二人に手を挙げて挨拶した。

「よっす」

 マッドウィックとリオノーラと彼女の母親は、三人で先程とは別のテレビゲームをしていた。今はリオノーラの母親がコントローラーを握り、ゲームをプレイしている。

 リオノーラは部屋に姿を見せたオッサン二人に謝った。

「さっきはごめんなさい。実はね、あのゲーム、セーブができたの。後になって気付いたの」

 バールビンデシオは尋ねた。

「大型戦艦、倒せたか?」

 リオノーラは首を横に振った。

「あたしは駄目、途中で怖くなってセーブしたの。でも、ママは勝ったよ。途中から代わりにプレイして貰ったんだけど、敵大型戦艦を撃沈した」

 ジャドネ・モーボンとバールビンデシオはリオノーラの母親を見た。彼女は二人に背を向けながら言った。

「お恥ずかしいですわ。本当に」

 そう言いつつも彼女の目はテレビゲームの画面から離れない。マッドウィックはゲーム画面を見ながら面白そうな顔で言った。

「リオノーラのお母さん、昔プロゲーマーだったんだって。言われてみれば、見た印象があるわ」

「それだけじゃないよ、ママはね~え、飛行機の操縦だってできるよ!」

 ジャドネ・モーボンとバールビンデシオは顔を見合わせた。そしてリオノーラの母親を見た。彼女はフライトシミュレーションゲームをプレイしていた。特別ボーナスの出るエクストラ・ステージで、ちょうど凱旋門をくぐり抜けるところだった。

 最大速度で凱旋門のアーチを航空機が潜り抜けた瞬間、その場にいた全員――リオノーラの母親を除く――は一斉にどよめいた。

 病院を出たジャドネ・モーボンとマッドウィックはタクシーに乗り込んだ。

「行先は」

「ちょ、ちょま、ねえ、ちょっと待って!」

「待つよ。どうした?」

 マッドウィックは言った。

「外食したい。家に帰る前に、どこかの店へ寄りたい」

 ジャドネ・モーボンは頷いた。

「分かった。何が食べたい?」

「膵臓料理」

「そんなの、あるのか?」

「この前インターネットのニュースでやっていた。評判の店だって」

 マッドウィックは店の名前と住所を言った。ジャドネ・モーボンはタクシーの運転手に訊ねた。

「そういうことらしいが、そんな店が本当にあるのかい?」

 若い人に人気の店だとタクシーの運転手は言った。

「それじゃ、そこへやってくれ」

 道は混んでいた。マッドウィックは窓の外の景色を見ながら言った。

「予約した時間には間に合うと思うけど」

 それからマッドウィックはタクシーの運転手に店までの到着予想時間を訊いた。答えを聞いて安堵の表情を見せる。シートにどっしりと座る。

「久しぶりに外出すると、心がワクワクするね。引きこもりを卒業したくなるね」

「そいつは結構だな」

 車内禁煙を張り紙をチラリと見て、ジャドネ・モーボンは言った。

「意外だったよ」

「何が?」

「病院に来るとは思わなかった」

「そうだね」

 鼻で深く息をして、マッドウィックは同じことを言った。

「そうだね、本当に、そうだね」

 二人は膵臓料理の専門店で食事をした。ジャドネ・モーボンは、あまり美味しいとは思えなかった。しかしマッドウィックは旨い旨いと言って食べた。

「いつも通販のレーションを食べているから、こんなに美味しく感じるのかな?」

 尋ねられたジャドネ・モーボンは「知らんよ」と答えた。

 翌日ジャドネ・モーボンとマッドウィックは二人で病院へ向かった。

 ジャドネ・モーボンは墜落機への飛行プランをバールビンデシオと話し合っておきたかった。マッドウィックは別の目的があった。

「旅行の計画が大事なのは分かっているんだけど、飛行プランについては、二人だけで話してもらえないかな? ちょっと用があって」

「なんだ、そりゃ」

「冒険」

「は?」

「リオノーラの病室へ、行こうと思って」

「すまん、意味が分からない」

 マッドウィックは顔を赤くして言った。

「僕、女の子の部屋に入るの、初めてだから」

 ジャドネ・モーボンは一瞬、言葉に詰まった。

「病室だぞ」

「それでも、女の子の部屋に間違いないよ」

「大部屋だったら、どうする?」

「周りに人がいた方が、ドキドキが少なくて楽かも」

 リオノーラの病室は、バールビンデシオと同じく個室だった。マッドウィックは受付のスタッフに、リオノーラさんのお見舞いに来た、と告げた。ジャドネ・モーボンは受付のスタッフに、バールビンデシオへ用がある、と伝えた。しばらくすると受付のスタッフがマッドウィックを案内していった。ジャドネ・モーボンは、しばらく待った。やがて看護師が現れ、バールビンデシオは容体が悪化したため集中治療室へ移ったと彼に伝えた。

 ジャドネ・モーボンは看護師に訊ねた。

「意識はありますか?」

 看護師は首を横に振った。

「いいえ、名前をお呼びしても反応がありません」

 一瞬の間を開けて、ジャドネ・モーボンが問う。

「回復の見込みは、ありますか?」

「私からは、何とも申し上げられません」

 指先で額を抑え、ジャドネ・モーボンは呟いた。

「神のみぞ知るか。いえ、こちらの話です。どうもありがとうございました」

 善後策を考えるため、病棟のホールのソファーに腰を下ろしたときだった。病棟の奥の方からリオノーラの母親が現れた。硬い表情で彼女は言った。

「お話がございます。お時間、よろしいでしょうか」

 有無を言わさぬ口調だった。

「ここに席があります。移りましょう」

 面会者用のテーブルがホールに置かれていたので、ジャドネ・モーボンはリオノーラの母親に促した。彼女は首を横に振った。

「煙草を吸いながらお話したいのです」

 それなら病院の隣の公園の喫煙許可エリアが最も近い。そのつもりでジャドネ・モーボンは病院を出た。隣接する公園へ行こうとすると、リオノーラの母親は別の場所へ向かって歩き出した。

「どちらへ?」

「ごめんなさい。あの、近くに喫煙のできる喫茶店がございます。そこで、ゆっくりお話をしたいのです」

「こちらは、どこでも構いませんよ」

「娘がこちらの病院にお世話になるようになって、見つけたお店ですの」

 リオノーラの母親の背中へ、ジャドネ・モーボンは声を掛けた。

「娘さんが入院するようになって、長いのですか?」

 問われた女の背中が小さく震えた。男は質問したことを後悔した。

 リオノーラの母親に案内されて入った喫茶店は落ち着いた雰囲気で心地好かった。

席に座った二人はコーヒーを注文した。出てくるまで、二人は黙ったままだった。二つのコーヒーを置いて店員が去ると、リオノーラの母親はジャドネ・モーボンに訊いた。

「煙草を吸っても構いませんか?」

「どうぞ」

 そう言われてリオノーラの母親は薄く笑った。

「今さら、そんなこと、お断りしなくても構わなかったですね。ごめんなさい、私、少し混乱していて」

 リオノーラの母親は煙草を吸った。青ざめていた顔に血の気が少し戻った。彼女は言った。

「昨晩、バールビンデシオさんからお話を伺いました」

 ジャドネ・モーボンの目つきが鋭くなった。テーブル越しに向かい合って座る女の顔を真正面から見つめる。見つめられた女は視線を逸らさなかった。

「皆さんは、あるものを探していらっしゃるのですよね。異世界から飛来して、この星に墜落した宇宙船の高価な積み荷を」

 葉巻を銜えたジャドネ・モーボンが答える。

「何の話なのか、分かりませんね」

「嘘はおっしゃらないで下さい。バールビンデシオさんが教えてくれました」

「彼なら意識不明の重体ですよ」

「昨夜、意識が無くなる前に教えて下さったのです」

 ジャドネ・モーボンは銜えた葉巻を指に挟み、リオノーラの母親の背後を見た。そして、さりげなく店内を見回す。誰も彼らに注目していない。聞き耳を立てる奴もいなかった。

 葉巻を外してジャドネ・モーボンは尋ねた。

「彼は何と言ったのです?」

 紫煙を吐き出してリオノーラの母親が答える。

「積み荷は高価な抗老化剤だと」

 ジャドネ・モーボンは身動ぎ一つしなかった。リオノーラの母親は頭を下げた。

「お願いです。私を仲間に入れて下さい。余命わずかな娘のために、私は抗老化剤が必要なのです」

 リオノーラの母親がどんな顔をしているのか、ジャドネ・モーボンには見えない。彼は言った。

「顔を挙げて下さい。テーブルの上を見てないで」

 言われてリオノーラの母親は体を起こした。その目は真っ赤だった。彼女は言った。

「娘には、もう残された時間はありません。早く抗老化剤を服用しないと、娘は死んでしまいます。私たちには一刻の猶予もないのです」

「あなたは勘違いしているようだな。抗老化剤は万能薬なんかじゃない。金持ちの年寄りが飲む栄養サプリメントみたいなものだ。老いを防ぐといったところで、老化が完全に停まるってわけじゃない。人によって作用や効き目に違いはあるし、それに副作用だってある。むしろ娘さんの寿命を縮めるだけになるかもしれないんだ」

 ジャドネ・モーボンはそう言ったが、リオノーラの母親の意思は変わらない。

「私を仲間に入れて下さい。私は航空機の操縦ができます。バールビンデシオさんの代わりにパイロットを務めることができるんです」

「分かりました。ですが、私の一存では決めかねます」

 テーブルの上に置かれた伝票を持ってジャドネ・モーボンは立ち上がった。

「戻りましょう。仲間に相談します」

 二人はリオノーラの病室へ入った。リオノーラとマッドウィックは対戦ゲームで白熱していた。ジャドネ・モーボンは言った。

「帰るぞ」

 リオノーラとマッドウィックは再戦を約束した。彼女は尋ねた。

「次は、いつ会える?」

 マッドウィックは即答した。

「明日」

 タクシーで家に戻るとジャドネ・モーボンは事情を説明した。

「バールビンデシオは意識を失くす前にリオノーラの母親へ秘密を洩らした。あの女は俺たちが墜落機のお宝を狙っていることを知り、仲間に加えてくれるよう頼んできた。自分は航空機の操縦ができるからバールビンデシオの代わりが務まると言っている」

 マッドウィックはパソコンを操作し留守の間に何か異常事態が発生していないかをチェックした。

「異常はないけど、それがいつまで続くか分からない。急いだ方が良いとなれば、リオノーラの母親を仲間に入れるしかないんじゃないか。代わりのパイロットがすぐに見つかるとは限らないし」

 ジャドネ・モーボンが何度か頷く。

「秘密を守れるパイロットでないといけない。そんな奴を探す手間を考えれば、すべてを知っている人間を仲間入りさせた方が手っ取り早い」

 話はまとまった。だが、確認事項がある。ジャドネ・モーボンは言った。

「彼女が本当に飛行機を飛ばせるのか、実地検分しないといかん」

 墜落地点まで飛ぶ航空機は既に用意されていた。最新式の垂直離着陸機だった。決して安い買い物ではないが、それだけの価値がある。ジャドネ・モーボンは航空機を預けている空港管理会社に連絡を入れた。試験飛行のための整備を依頼する。そして翌日、マッドウィックと共に病院入りした。マッドウィックがリオノーラとゲームで遊ぶ間、その母親と打合せをする。場所は先日の喫茶店だった。その店でリオノーラの母親に「航空機を実際に飛行させて欲しい」と話す。

「それは、今日でも良いのでしょうか?」

 空港管理会社の整備員から整備終了の連絡が入っている、とジャドネ・モーボンは言った。

「だから、今日でも大丈夫だ」

 リオノーラの母親はジャドネ・モーボンに頼んだ。

「娘も一緒に連れて行って貰えないかしら?」

「それは、今日のことか?」

「今日だけでなく、本番も」

 ジャドネ・モーボンは上唇を指先で撫でた。

「現地へ連れて行くつもりか? 人跡未踏の大森林のど真ん中だぞ」

「娘には、もう時間が残されていません。いつ亡くなるか、分からないのです。抗老化剤が手に入ったら、すぐにでも飲ませたいのです」

 コーヒーカップを空にしてジャドネ・モーボンは立ち上がった。伝票をつかもうとすると、リオノーラの母親が制した。

「今回は私が」

「好きにしろ」

 喫茶店を出た彼らは病院に向かって歩いた。隣を行くジャドネ・モーボンに、リオノーラの母親が尋ねた。

「女性と食事をなさるときは、いつも会計をして下さるのですか?」

「手持ちに余裕があれば」

「ない時は?」

「そもそも、そんなときは女と食事をしない」

 リオノーラの母親はクスっと笑った。

「見栄坊なんですね」

 ジャドネ・モーボンは答えなかった。病院へ戻る。リオノーラの母親は「売店で買い物を済ませる」と言って去った。その背中を見つめ、エレベーターへ向かう。リオノーラが入院している病棟へ行く前に集中治療室に立ち寄る。バールビンデシオの意識は回復していなかった。今後、意識が回復するか分からないと応対した看護師から暗に言われた。礼を言って去る。リオノーラの病室へ入る。ノックはしなかった。またゲームで騒がしいだろうから、と思ったのだが、後になって考えると廊下まで騒がしいリオノーラの声が聞こえてこないから妙だった。それもそのはずで、リオノーラはテレビゲームをしていなかった。彼女はベッドに横になっていた。その上にマッドウィックがいた。両手でリオノーラの両腕を抑え付けている。

 ジャドネ・モーボンはベッドに近づくとマッドウィックの頬を張り飛ばした。上背はあるが細身のマッドウィックは筋骨隆々の男から思い切り叩かれて吹っ飛んだ。その顔面を踏んづけて、ジャドネ・モーボンは言った。

「余命わずかな女の子にすることか。恥を知れ」

 リオノーラは顔面を蒼白にしてジャドネ・モーボンにしがみついた。

「違うんです、違うんです!」

「お嬢さん、こいつをかばう必要はない。性根を叩き直してやるだけだ」

「誤解です、私が悪いんです!」

 べそをかいてリオノーラは話した。二人はゲームで賭けをした。負けた方が勝った方の命令に絶対に従う。それがきっかけだった。

「私が勝ったんで、彼に命令したんです。私の真似をしてダンスしろって」

 リオノーラはダンスが好きで、得意だった。マッドウィックはダンスが好きでも得意でもなかった。しばらく命令に従ったが、やがて不平を言った。

「ねえ、リターンマッチってないの? もしかして、ずっと命令に従ってないといけないの? ずっと踊っていられないんだけど。もう疲れたよ」

 へとへとなマッドウィックを見て、リオノーラは笑った。

「もうすぐ死んじゃうあたしより貧弱なんて、情けないぞ」

 その言葉を聞いた途端、マッドウィックの顔からすべての感情が失われた。

「あのさ」

「な~に」

「君、本当に死ぬの」

「死ぬよ」

「嘘だろ、だって、こんなに元気なんだもの」

「無理してるだけ。本当は凄く疲れてるの」

 マッドウィックは怒った顔をした。

「それじゃ寝ていろよ」

「嫌」

「なんでだよ」

「寝たら、死んじゃうかもしれない。だから、あたし、できるかぎり起きているようにしているの」

「それだと体力が回復しないだろ」

「どーせ死ぬんだから同じ」

「そんな言い方するな!」

 マッドウィックは唇をわなわな震わせて言った。

「これでも僕は大病を抱えた君を心配してるんだよ」

 リオノーラは唇を尖らせた。

「ほっといてよ」

「ほっとけない」

「どうして?」

「……どうしても」

「うるさいな、あたしの好きにさせてよ」

「君に死なれたくない。大人しく寝てくれ」

「嫌です! べろべろば~!」

 マッドウィックは無理やりリオノーラを寝かそうとした。彼女の肩をつかんでベッドに倒したのだ。そのときジャドネ・モーボンが室内に入ってきた。

 事情を聴いたジャドネ・モーボンはマッドウィックの顔を踏んづけていた靴を退けた。その細い体を起こしてパイプ椅子に座らせる。

「誤解して悪かった」

 素直に頭を下げると、マッドウィックはニィ~と笑って言った。

「な、リオノーラ、言ったとおりだろ? 強面だけど、本当は優しい人なんだ」

 リオノーラはマッドウィックの顔を見て笑った。

「顔の大きさ、倍くらいになってる!」

 マッドウィックは腫れた顔を洗面台の鏡に映して笑った。若い二人が笑いあっている横でジャドネ・モーボンは気まずい思いをしていた。病室に入ってきたリオノーラの母親は三人を見て言った。

「楽しそうなところをお邪魔して悪いけど、そろそろ出かけましょう」

 リオノーラは言った。

「ねえ、ママ。今日の遊覧飛行は行かないことにしたいんだけど」

「どうして? 楽しみにしていたじゃない」

「マッドウィックからのリターンマッチを受けないといけないの」

 それからリオノーラはマッドウィックに言った。

「ねえ、いいでしょ」

 マッドウィックは首が壊れたかのように何度も何度も頷いた。ジャドネ・モーボンにも異存はなかった。意向を聞かれたわけではない。

 結局、垂直離着陸機を使ったリオノーラの母親の実地テストはジャドネ・モーボンのみの参加となった。最初はおっかなびっくりだったが、パイロットの腕前が確かなものだと知るとリラックスした。そんな彼に操縦士は色々な話をした。娘のこと、自分のこと、亡くなった夫のことを次から次へと。自分たちのことだけでなく、あなたたちの話もしてと言われ、ジャドネ・モーボンは先ほどマッドウィックを殴った話をした。とんでもない誤解だったと告げると、彼女は笑い、それから言った。

「あの子に注意しとく。せっかくの恋人なのに、酷いことをしちゃダメって」

「恋人?」

「ええ」

「あいつが?」

「私の知る限り、娘の最初の恋人よ」

 そう言ってから、静かな声で付け加える。

「最後の恋人かもしれないけどね」

 コートから葉巻を出しかけて、ジャドネ・モーボンは機内が禁煙であることを思い出した。

「抗老化剤を使えば病気の進行は食い止められるだろう。完治はしないが、死ぬには至らないはずだ」

 そう言うジャドネ・モーボンにリオノーラの母親は頷いた。

「私、絶対に抗老化剤を手に入れるわ」

「その意気だ。それじゃ、そろそろ降りるか」

「私、あなたの就職試験に合格したの?」

「ああ」

「嬉しい!」

「お喜びのところ誠に申し訳ないが、嫌なニュースがある」

「聞きたくないけど聞いておくわ。なに?」

「俺たちのお宝を狙っている奴らがいるようだ。もしも、そいつらと現地でかち合ったとしたら、戦いになるかもしれない。武器は扱えるか?」

 リオノーラの母親は首を横に振った。

「銃は使えるけど、得意じゃない。飛行機の操縦の方が好き」

 ジャドネ・モーボンは隣の操縦士席に座る女性から正面の窓ガラス越しに視線を移した。

「それならそれでいい。君たち母娘は俺が守る」

 クスっと笑う声が聞こえた。横を向く。リオノーラの母親は言った。

「私の名前はレティシア。まだ言っていなかったと思うから、教えておくわね」

 レティシア。ジャドネ・モーボンは、その名前を口の中で二、三度繰り返した。次に二人きりになったとき、その名を呼ぼう――と彼は考えていたが、その機会が訪れないまま物語は最終盤に突入する。

「レティシアという女は預かった! ジャドネ・モーボン! 出てこい!」

 巨大な墜落機は貨物室も巨大だった。声が反響して、声の主の居場所が分からない。半壊したコンテナの中に身を潜めていたジャドネ・モーボンは、隣で震えているリオノーラの手に拳銃を握らせた。呟く。

「敵を見たら躊躇なく撃て。それがハードボイルドな世界の鉄則だ。情けを掛けるなよ、絶対だぞ。いいか、おじさんに約束してくれ」

 プルプル震えながらリオノーラは頷いた。ジャドネ・モーボンは精一杯の優しい笑顔を浮かべた。

「それでいい。それじゃ、おじさんはママを助けてくるから」

 動き出したジャドネ・モーボンの背中にリオノーラが声を掛ける。

「待って」

 ジャドネ・モーボンは振り返った。リオノーラは泣きながら言った。

「おじさんは死なないでね。マッドウィックみたいに、死なないでね」

 敵の攻撃からリオノーラをかばってマッドウィックは死んでいた。ジャドネ・モーボンは頷いた。

「事が済んだら、マッドウィックを埋葬する。そのときは、手伝ってくれ」

 何度も頷くリオノーラに軽く手を振り、ジャドネ・モーボンは半分壊れたコンテナを出た。そこから十分な距離を取って、大声を出す。

「アラン・ローラン! 俺はここにいるぞ!」

 思いのほか近くから反応があった。

「並んだコンテナが邪魔で姿が見えん! ジャドネ・モーボン、コンテナの屋根に登れ!」

 巨大な墜落機の巨大な貨物室内には巨大なコンテナが大量に積み込まれていた。かつては整然と並んでいたのだが、不時着した衝撃でコンテナの列は崩れている。そんなコンテナの一つにジャドネ・モーボンは上がった。

「屋根の上に出たぞ。アラン・ローラン、お前も出てこい!」

 背後で物音がした。ジャドネ・モーボンは振り返った。コンテナの上に旧知の男の姿があった。二人はしばらく無言で睨み合った。やがてアラン・ローランが言った。

「裏切者には、死あるのみだ」

 ジャドネ・モーボンは尋ねた。

「女は無事か?」

 アラン・ローランは答えなかった。ジャドネ・モーボンは足を一歩踏み出した。

 それを見てアラン・ローランは一歩後退りした。構えた拳銃を見せつける。

「動くんじゃねえ。それ以上は近づくな」

 ジャドネ・モーボンは止まった。アラン・ローランは冷たく笑った。

「それでいい。改造人間のお前に素手ゴロでかなう奴なんていないからな」

 舌の先で前歯の裏の安全装置を解除した後、ジャドネ・モーボンは奥歯の加速装置のスイッチを噛みしめた。同時にダッシュをかける。急激に加速した改造人間は、昔この宇宙船で共にこの星へやってきた同胞の胸元に飛び込んだ。相手の顔に驚愕の表情が浮かぶ寸前、ジャドネ・モーボンの右の拳が唸りを上げた。その鉄拳で心臓を胸板ごとぶち抜かれたアラン・ローランは一瞬で絶命した。

 拳から血を滴らせたジャドネ・モーボンは、しばらくの間、旧友の死骸を見下ろしていた。その目には光るものがあった。フッと息を吐き、彼は叫んだ。

「リオノーラ! 片付いた! 出て来ていいぞ!」

 遠くから返事が聞こえた。死体をそのままにして、コンテナを降りる。声の方へ向かう。狭いコンテナの隙間を縫うようにして駆け寄ってきたリオノーラの姿があった。彼女は尋ねた。

「ママは? ママは無事なの?」

 ジャドネ・モーボンは正直に言った。

「分からん。今から捜索する」

「もう敵はいない?」

「ああ、それは確実だ。最後の奴も俺が始末したから、もう全員いなくなった」

「絶対?」

「絶対確実だ。おじさんが約束するよ」

 そう言ってジャドネ・モーボンはリオノーラに背中を向けた。そしてレティシアの名を叫ぼうとした。その瞬間だった。彼の背後にいたリオノーラが発砲した。背中から心臓を撃たれた改造人間ジャドネ・モーボンは前のめりで斃れた。リオノーラは恐る恐る近づいた。ジャドネ・モーボンの死体に何発か銃弾を撃ち込む。穴だらけの死体から大量の血液が流れた。完全に動かなくなったことに、心彼女はからホッとした様子だった。拳銃を下ろし、死体に語りかける。

「おじさん、ごめん。あたしたち、お宝を独り占めにする。お宝の抗老化剤は、あたしとママで大切に使うから。そして、あたし、難病ヒロインを卒業する。悪役令嬢に転生したつもりで、精一杯生きていく」

 それからリオノーラは母を探した。墜落機の貨物室は広大だった。彼女が母親の死体を見つけるまで、時間を要した。

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難病ヒロイン、ハードボイルド世界を生き抜く @2321umoyukaku_2319

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