退廃的な恋がしたい

氷雨ハレ

退廃的な恋がしたい

 六月の天気は憂鬱なもので、曇り空は心の鏡の様だった。

 雨戸を跳ねる水滴、テレビを流れる演劇、ただそれだけが頭の中に響いていた。

 六畳間の部屋に男女二人、布団の上で身を寄せ合っていた。抱き合うことはせず、ただ横に並ぶだけ。視線は見つめ合わず、ただテレビを向くだけ。心の距離は遠く、そして近く、確かにここに在った。

 僕達はお互いのことが好きだった。自分を愛することはなかったが、相手を愛することはあった。常にそうしていた。ただ愛というものは変動性にんでいて、今の愛には昔の愛の面影おもかげもなかった。

 僕達が出会ってからもう十年以上になる。最初は今と全く違った。むしろ、仲が悪いまであった。しかし、時が経ち、会話をするようになってその関係は変わった。それからの大学生活というものは、慣れないことも多々あって大変ではあったが、それでもいい日々だった。そして、それはたった一瞬の煌めきだった。

 しかし、僕達はその幸せをかなぐり捨てて逃げた。僕達は社会的に正しいレールを捨て、自分のための道を選んだ。それが正解だったかは今でも分からない。

 最初の方の僕達は、至って健全だったと思う。嫌なものに蓋をして、表面上では満面の笑みだった。

 だが、その薄氷もある日突然割れることとなり、僕達は本当にレールから外れることとなった。

 その後の僕達は愛を確かめるために、一番短絡的で手っ取り早い方法を使っていた。毎日の様に、産まれたままの姿で、相手の体を貪っていた。でも、それは次第に回数を減らし、いつしかしなくなった。違う、と思ったからだろう。しかし、そうしなくなっても僕達は身体を寄せ合った。そうして出来たのが今のこの形、僕達の最適解、辿り着くべきして辿り着いた場所だった。

 僕達は一日中、ずっと身を寄せ合っていた。僕達の愛はこれが全てだった。これより発展することも衰退することもなかった。

 僕達は幸せだった。そう信じて疑わなかった。そう、あの時までは。



 今から二十年以上前、僕はこの世に生を受けた。母は生まれた時から居なかった。僕を産んで、そしてそのまま死んだ。

 僕は父によって育てられた。父は忙しい人で、幼少期はベビーシッターが代わりに僕を育てた。小学校高学年の頃になると仕事があまり忙しくなくなったらしく、ベビーシッター、もとい家政婦を解雇し、その代わりに父自身が家にいるようになった。しかし、父は子育てをする人ではなかった。父は自立を重んじる性格の人で、何もかも僕にやらせ、文句があるとすぐに手を上げた。

 自立と同時に父は夢を見ていた。自分が成し得なかった東大という狭き門に息子が入ることを。そしてそれを踏み台にして、息子が大企業の社長になることを。そう、僕は父の第二のプレイヤーキャラクターだった。

 だが僕はそれに対して何の疑問も持たなかった。父の言うことは全て正しいと信じていた。



 彼女、家入いえいり優依ゆいと初めて会ったのは中学生の時だった。僕達はクラス委員で、毎日クラスのために奉仕していた。

 僕はあまり彼女と親しくしようとしなかった。りが合わないと思っていた。と言うのも、僕達の性格は真反対で、クラスのみんなと距離を置く僕とは違い、彼女はクラスのみんなと仲良くするタイプの人だった。明るくて、真面目で。生徒受けが良くて、教師受けも良い。同級生からの渾名が「アンドロイド」で、陰で先生からクラスに馴染めていないことを心配されている僕とは大違いだった。

 彼女はよく、僕に話しかけてきた。僕は適当に彼女と接した。僕は冷たい人間と思われるかもしれないがそれで良かった。何故なら、この委員会活動は内申点のために行っているだけであり、彼女とは違いクラスのために行っているわけではないからだ。それでも彼女は僕に話しかけてきた。その子供のような話し方を、ちょっとやかましいオーバーリアクションを、無視してねた時のガキっぽさを、いまだに全てを鮮明に思い出すことが出来る。

 ただ、委員会活動となると急に真面目となり、いつもはだらーんと腑抜けた顔も、この時だけはシャキッと引き締まるのだった。真面目で、腑抜けで。頭が良くて、何処か変で。大企業の社長のようで、売れっ子のコメディアンのようで。そんな彼女を僕は敬遠していた。

 僕は、出来ることなら彼女から遠ざかろうとした。しかし、出来なかった。彼女の方が近づいてくるからだ。

 僕はよく彼女の笑い話を聞いた。彼女の話は、聞き手を惹きつける要素がふんだんに盛り込まれていたし、しっかりとしたオチもついていた。「話し上手だな。今度の発表も任せようかな。」なんて思いつつ、聞き耳半分、その他半分で彼女の話を聞いていた。

 彼女の好きなことに、「他人のほっぺをいじる」というのがあった。これは同級生の女子によくやっていたことだ。突いたり、伸ばしたり、くりくりしたり。彼女が楽しそうにやっていたのを今でも覚えている。

 彼女は僕のほっぺもいじってきた。よく「ほっぺいじっちゃうぞ〜」と宣言し、創作物ファンタジーでよく見る小悪魔の笑い声を出し、ほっぺをいじってきた。僕は毎回その行動を無視していた。すると彼女はいつも、萎えて仕事に戻るか、拗ねてもっと執拗にいじるかの二択だった。

 当時の僕達の関係は一方通行だった。いつも彼女が僕にちょっかいを出し、僕がそれを受け流していた。



 この関係は三年間続いた。しかしその関係は三年生の三月、卒業式の二週間前に変わることとなる。受験も授業も終わり、僕達三年生は学校で卒業前発表の準備をしていた。内容は「将来の夢」だった。特に悩むことなく内容が決まった。

 放課後、誰もいない教室で僕が一人で発表準備をしていた時だった。彼女が教室に入って来た。始めの方はだんまりを決め込もうとしたが、彼女が話しかけてきたことによりその作戦は崩れた。

「これ、発表の準備? 学校でするの?」

「……うん、学校にはたくさんの備品があるから、これを使わない手はないと思って」

「内容……『トップリーダーに必要な素質』って、七逢しちおう君の将来の夢は『トップリーダー』なの? ってことはつまり、社長や議員とかを目指しているの?」

「うん……将来は社長になってみんなを笑顔に出来たらいいなと思って」

「ふぅーん? ……それ、ホントなの?」

「……『ホント』…………? それってどういうこと?」

「その七逢しちおう君の将来の夢は、本当に『七逢しちおう君の』将来の夢なのか? ってこと」

「それは……勿論もちろん。僕の将来の夢だ」

「なら、きっかけは? 何時いつ何処どこで、誰がきっかけだった?」

「それは…………父さんが……」

 質問は尋問に変わっていた。何かを見透かされているような気がした。強い恐怖を感じた。

 しかし、それを言い出すことは出来なかった。聞くべきでないと判断したからだ。僕達は数分間に渡って簡単な問答をした後、彼女は軽い別れの言葉を言い、去っていった。

 彼女がいなくなった後、僕は自分が作った発表原稿と内容が書かれた模造紙を見た。僕はそれを無造作に取り、グチャグチャに丸めた。ゴミ箱へ捨てに行き、ゴミの塊を少し眺めた後に投げ捨てた。

 何日か経って発表があった。僕の発表はおおむね好評で、同級生も先生も聞き入っていた。彼女だけが例外だった。彼女は退屈そうに僕の発表を聞き、最小限に、そして他人に心情がバレないように拍手をした。僕は彼女に腹を立てることはなかった。寧ろ恐れていた。彼女の後ろにある得体の知れない不吉な塊に、狂気に彩られた髑髏に。同時にそれらに対して興味を持っていた。

 そして僕達は卒業式の日を迎えた。結局、僕達はその日まで一言も交わすことはなかった。

 式の後、僕達は校庭に出た。みんなは晴れ着姿や制服姿で写真を撮っていた。彼女はお世話になった人全員に、そして個別に挨拶して回っていた。わざわざそんなするだなんて、余程の物好きか? と思った。対して僕はすぐに帰った。

 父に卒業した旨を伝える電子メールを送り、僕は参考書を開いた。勉強をしようと思ったが、あまりにもうるさいスマホの通知音に妨げられた。沢山のメールが届いていた。クラスメイト、部活の後輩、委員会で関わった人、色々な人から送られてきていた。そして、その殆どがコピーアンドペースト、つまり親しい人向けのメールではなく、思い入れのないどうでもいい人向けのメールだった。僕はそれらのメールに簡単に目を通し、送信者をブロックした。それから中学時代の人と連絡を取ることはなかった。



 僕は地域で一番頭の良い男子校に入った。そこでの日々は退屈で、あっという間に中学卒業から三年が経った。僕は中学卒業から高校卒業までの三年の間、生徒会長を務めながら勉学に勤しんだ。



 そして迎えた大学受験。僕は抑え校として私立校を一つ、そして本命として東大を受験した。その結果、私立は受かった。東大は落ちた。そのことを父に報告した。父は激怒し、説教は次の日に父が家を出るまでの一日中続いた。

 僕は抑えの私立に入った。そして、そこで彼女と再会した。

七逢しちおう君! どうしてここに?」

家入いえいり……久しぶりだな。お前こそどうしてここに?」

 お互いが思っていた。彼、彼女は優等生だった。きっと自分の行く大学より上の大学に行くだろうと思っていた。

「まぁ、なんだ。同じ学校に入ったんだ。これからもよろしく頼む」

「私こそ、よろしく」

 簡単に言葉を交わし、その場を後にする。僕は振り返り、彼女の後ろ姿を眺めた。彼女は変わっていないように見えたが、何処か微細な点で変わったような気がした。

 その後は彼女との交流が何度もあった。お互い大学で他の友人が出来ず、サークルに入ることも出来なかった。

 そんなもんだから、自然と一緒にいる時間が増えた。嫌な気はしなかった。知らない人と一緒にいることより数倍はましだった。あの日までの僕達の関係は、学校だけのものだった。学校の外に出れば赤の他人、そんな感じだった。しかしあの日、その関係が変わることとなった。

七逢しちおう君、今日の予定は?」

「今日は午前中に倫理の授業が入っている。午後は暇かな。何か用でも?」

「あの…………後で少し話が…………」

「話? 今じゃなくて?」

「その〜…………大事な話だから…………ゆっくり話したいな〜…………なんて」

「はぁ」と僕は二度言った。一度は先の話の終わりに、もう一度は今言った。あの後、僕は流されるままに約束をした。今日の五時、大学最寄りの駅にある待ち合わせスポット集合になった。これはとても珍しいことだった。彼女から話しかけてくることは何度かあったが、彼女から何処どこかへ行こうなんて話をされるのは初めてだった。僕の興味はその約束に向けられた。授業に集中することが出来なかった。僕を呼んで話をするということは、その話がそれ程大切な話なのか、大学内で出来ない話なのか、の二択になる。僕のノートは考察で埋まった。

 午後五時半過ぎ、日が傾き始めた頃、僕は駅前に居た。スマホでSNSを眺めながら、そして彼女の話を考えながら時間を潰した。

 信号が青になり、特徴的な音を立てた。ふと気になって横断歩道の向こうを見ると、そこに彼女が居た。午前中から全く服装が変わっていない僕に対して、彼女の服装はがらりと変わっていた。他所よそ行きの服だった。それも、結構しっかりしている。お洒落しゃれに興味のない僕ですら分かった。

 彼女が「待った?」と言ってきたので、「待ってないよ」とだけ返した。僕は「そろそろ行こうか」と彼女に言おうとしたが、彼女の行動が僕を黙らせた。彼女はお辞儀をしていた。右手を僕の方に突き出してきた。僕は知っていた。この手の形は握手をする時の手だと。いや、そんなことはどうでもよかった。頭に浮ぶ疑問符。夏だというのに凍てつく時間。彼女が口を開く。ゆっくりと少しずつ。息が漏れる。そして、僕は認識した。


「好きです!!」


 彼女、家入いえいり優依ゆいの告白を。



 僕達は近くのカフェへ向かった。彼女は非常にご機嫌な様子だった。一方、僕はこの現状を理解できていなかった。待ち合わせ場所で会って、開口一番に好意を言われた人の気持ちが分かるだろうか。しかも、街のド真ん中でだ。現在、彼女は僕の右腕にしがみ付いている。彼女の方だけを見れば、それはラブラブなカップルに見えたかも知れない。しかし、僕の方だけを見れば、それは無邪気な子供にドン引きする人に見えたかも知れない。少なくとも、僕は苦い顔をしていただろう。意味が分からなかった。

 彼女の告白を聞いた後、僕の脳内回路はショートし、IQが半分くらいになった。そして僕は反射的に「え…………あ…………うん…………」とだけ言い、彼女の出した右手を取った。すると、まるで獲物が罠に掛かったかのように彼女は反応し、僕の右腕を絡め取ってしまった。そして現在に至る。

 カフェに着いた頃には六時を告げるチャイムが鳴っていた。店員の「何名様ですか?」の質問に対し、「二名です!」と元気に答えた彼女のことが、強烈に記憶に残った。もう笑うことしか出来なかった。二人用の対面席に通された。彼女は僕から離れるのを嫌がっていたが、一分程渋った後、しょんぼりしながら席に着いた。僕はアイスコーヒーを、彼女はカプチーノを頼んだ。

「それで…………何の話だ?」

 僕は彼女に話を振った。少しの沈黙を挟み、小声で「分かってるくせに」と呟いてから話が始まった。

 彼女は言った。僕、七逢しちおう海里かいりのことが好きである、と。僕は彼女に何故好きになったかを聞いた。彼女は言葉に詰まり、「なんでそんなこと聞くのかな〜」とか「恥ずかしいよぉ」などと言って時間を稼いだ。オロオロする彼女を見て痺れを切らし、諦めて違う話を振った。

「で、何がしたいんだ?」

「それはもう決まっているよ! デート!」

「…………デート?」

「そう! デート!」

 正直言って意味が分からなかった。デートとは何か、よく分からなかった。今までの人生十数年、僕は一度も「デート」と言うものをしたことがなかった。

「…………デートって何をするんだ?」

「うーん、やっぱりお出掛けかなぁ」

「お出掛け? どこに?」

「うーん……やっぱり海かなぁ〜。カップルと言えばそうじゃない? 他にはイルミネーション、水族館、美術館とかかなぁ。あ、食べ歩きも良いかもね!」

 楽しそうに話す彼女に僕は付いていけなくなった。僕と彼女が生きてきた人生の間はここまでの隔たりがあったのか、と実感した。水族館や美術館か、行ったことないな。

 そう思っていたら突然着信音が鳴り響いた。僕のではなかった。ということは…………

「あ、私だ。もしもし、あ、お母さん?」

 彼女宛の電話だった。電話の主は母親だった。電話に出た彼女の声が段々と沈んでいくのがはっきり分かった。

「うん、分かった。切るね。…………ごめん! 急用ができたから帰ることになっちゃった。バイバイ!」

 そう言って彼女は去っていった。まるで突風のようだった。机の上にはちょっとだけ残ったカプチーノと一枚の千円札だけが残された。僕は残ったアイスコーヒーを飲み干し、会計に向かった。

 僕は帰路に着いた。彼女とデートをする自分の想像に時間を費やした。

 午後九時、僕は家に着いた。送り先不明の「ただいま」を言い、リビングへ向かう。当然、そこには誰も居なかった。僕は一人だった。父はもう僕を見てくれない。僕を見てくれるのは優依だけだった。僕は彼女へデートの内容を詳しく話すようメールを送った。その夜、僕は眠れなかった。創作物ファンタジーでよく見る「遠足が楽しみすぎて眠れない」というのはこういうことなのか、と思いながら毛布とベッドの間に体を挟み込んだ。



 それからというもの、僕達は週末になるとお出掛けをした。上野の美術館、墨田の水族館、渋谷のプラネタリウム、鎌倉の小町通り、思い付く所全てに行った。僕は恋愛に興味はなかったが、彼女とお出掛けすることによって一般常識を知ろうとした。僕は多くのことを知った。毎回僕は新しいものを見た。僕は楽しかったし、これがずっと続けばいいと思っていた。

 平日の午後は次のデートの行き先をよく話し合った。費用を稼ぐため、バイトをしたりした。僕は一般的な大学生がする大学生活を満喫していた。当時の僕はそれがこれからも続くと思っていた。そう、あの日までは。



 始まりはそう、確か六月なのに晴れだった日、その日は東京ジョイポリスに行く予定だった。朝、起きてすぐ窓を開けようとした時、スマホが鳴った。メール、それも彼女からのものだった。内容は簡潔に「ごめん、行けない」とだけ。暫くは部屋の電気を付けることも、窓を開けることも忘れ、現実を理解するのに時間を使った。当時の僕は深く考えなかった。考えないようにした。彼女のことを一度忘れ、他のことに思考を使おうとした。しかし、出来なかった。

 彼女に急用が入る時、それは人の頼みを断れないでいる時か母親に呼ばれた時の二つに一つだった。しかし、彼女はデートと他者の頼み事ならデートを優先する人だ。ということは…………



 僕はその一日を家で過ごした。家事とレポートに時間を使った。やることがなくなったのでテレビを見た。目ぼしい番組はなかったが、時間潰しには丁度良かった。

 その時ふと思った。何故僕は彼女がデートに行けなくなって落胆しているのだろう、と。別に一般常識を知るためだけなら、それはデートである必要はない。しかし、僕はその手段をデートに限定している。僕は自問自答を繰り返したが、その答えが出ることはなかった。

 午後のニュースが始まろうとした時、僕は何となく外へ目をやった。雨だ。雨が降ろうとしていた。早く洗濯物を取り込まないと。そう思った時、電話が鳴った。リビングに一人、スマホが反響する。誰だ…………? そう思った。恐怖だった。誰が掛けてきたとしてもろくな結果にならないと思った。電話の主は…………優依ゆいだった。僕は電話に出て、そして「もしもし」と言おうとした。すると、僕が電話に出たと分かって、彼女は僕が何か言うより先にこう言った。「今、会える?」と。

 彼女とは駅で会った。彼女は濡れていた。どうやら傘を持っていないようだった。僕は彼女に「帰ろう」と言った。すると彼女は濡れた手で僕の袖を強く掴んだ。

「嫌だ…………帰りたくない…………」

 彼女は下を向いて、そう僕に訴えてきた。彼女は震えていた。それは寒気からのものか、それとも別のものか。僕は分からなかった。とりあえず、僕は彼女を家に招待した。風邪を引かないよう、僕は彼女を風呂に入らせた。僕が着替えを用意していた時、風呂場から押し殺すような泣き声が聞こえてきたが無視した。十数分経って、彼女が風呂から出た。僕は彼女にホットミルクを与え、彼女が落ち着くのを待った。

 少し経って、彼女はその重い口をゆっくりと開いた。

「……喧嘩…………したの…………お母さんと…………」

 彼女はゆっくりと話を始めた。

「…………お母さんが…………海里かいり君のこと…………悪く言ったの…………それで…………海里かいり君はね…………そんな人じゃない……って…………言おうとしたんだけど…………お母さんがね…………」

 僕はそっと彼女を抱きしめることしか出来なかった。彼女は声を上げて泣いた。それが終わると、彼女は動かなくなった。彼女は寝てしまった。彼女をベッドに寝かせ、僕はキッチンへ飲み物を取りに行った。

 するとまた電話が鳴った。いつもは沈黙を貫くスマホが、今日は二回も鳴った。電話の主を確認しようとした。その瞬間、手の感触が消え去った。ああ、スマホを落としたんだ。そう認識するのに時間は要らなかった。スマホを落としたら拾えばいい。しかし、体がそれを拒んだ。冷汗、過呼吸、戦慄、僕はそれらを前にして怖気付いてしまった。体の命令を無視してスマホを取る。ああ、分かっていた。だから見て見ぬふりをした。電話の主は………………父だった。

 僕は電話に出た。右手でスマホを持ち、右耳にスマホを押し付け、左手で右手を抑えた。


「…………もしもし」

「遅い」


 その一言は、僕を威圧するのに充分だった。


「大変申し訳ございませんでした」

「…………二度はない」


 僕は過呼吸を抑え、父の話を聞こうとした。


「女が出来たんだな」

「はい。そうです」

「捨てろ」

「! ………………『捨てろ』とは」

「そのままの意味だ。東大に落ちた奴には分からないか? 『別れろ』という意味だ。女は下等な生き物だ。時間をく価値などない。捨てろ」


 僕は黙ることしか出来なかった。


「情事に時間を使うなら、資格獲得に時間を使え」

「はい。分かりました。」


 僕は電話を切って、スマホを握りしめることしか出来なかった。やり場のない怒りが、グルグルと頭の中を駆け回った。深呼吸を繰り返し、心を落ち着かせた。

 冷蔵庫を開け、ボトルを取り出す。既に輪切りにされ、砂糖漬けにされた檸檬を頬張り、ボトルからコップにブランデーを注ぐ。いつものように。表面上、冷静を保ちながら。

 ブランデーは一気に飲んだ。ニコラシカ——口の中で作るカクテル。僕と彼女の好きな一品——それを一気に呷った。楽しむつもりは無く、乱雑な味が口の中に広がった。気持ち悪い程の酔いが襲った。その後そのままベッドに倒れた。睡魔に身を任せる直前、今の自分がいるベッドに彼女がいることを思い出したが、どうしようもなかった。


 翌朝、先に目覚めたのは彼女だった。彼女は起き上がり、辺りを見渡し、時計を探し始めた。その音で僕も目覚めた。少し頭が痛かったが、耐えられる程度だった。彼女に時間を聞く、どうやら十時を少し過ぎたらしい。これじゃあ授業は受けられないね、と彼女に言った。彼女はそれに応えて言った。


「なら、ズル休みしない?」


 今までの僕なら、彼女と出会わなかった僕なら、この誘いを即答で断っただろう。しかし、僕はこの誘いを断れずにいた。数秒の思索を経て、彼女の誘いに乗ることに決めた。


 僕達はずっと家でテレビを見ることにした。お出掛けしようか? と言ったが、彼女が拒否したので辞めた。別にテレビを見る必要はなかったが、他にすることがなかったので、リビングのソファーに二人で座り、彼女が僕にもたれるような形でテレビを見た。昼のワイドショーでは、近年複雑化する家庭環境についての特集が組まれていた。僕は父の話を思い出していた。僕は…………彼女と別れないといけないらしい。僕はそれに対して強い嫌悪けんお感を持った。何かが嫌だと思った。何が嫌かは分からなかったが、何かが嫌だった。答えのない自問自答をした。それは彼女が僕を呼びかけるまで続いた。その頃にはテレビの特集は次の話題に移っていて、往年の名作ドラマ『オンリー・ラヴ・ユー』の新作についての話だった。僕は彼女に「何かあった?」と訊いた。彼女はリモコンを手に取り、テレビの電源を消した。そして、僕の方に体を向けた。


「ねぇ、昨日、何かあったの?」

「昨日? もしかして覚えていないの?」

「違う。私が寝た後の話。ずっと様子が変だよ。何かあったの?」

「何も——」

「それにさっきの特集、何か深く考えていたようだけど、何かあったの?」

「だから——」

「昔から思っていたけど、もしかしてお父さんと何かあったりするの?」

「それは——」

「ねぇ」


「何か隠していない?」


 それは髑髏、僕があの日の彼女に見出したものだった。僕は恐怖した。そして諦めた。僕は彼女に話すことにした。僕の人生二十年分を。

 彼女は僕の話を静かに聞いてくれた。話が終わると、彼女は僕のことをそっと抱きしめた。そして、僕の背中に左手を伸ばしてしっかり僕の体を捕まえ、僕の頭に右手を伸ばして僕の頭を優しく撫でた。まるで母親が子供をあやすように。生まれてこの方二十年、この経験はなかった。だから、僕はこの時の感情を表す言葉を全く知らなかった。とめどない涙が頬を伝っていることだけが分かった。僕は彼女を身を委ねた。

 僕が落ち着くまで十分程掛かった。彼女は、僕が落ち着いたのを確認してからこう言った。


「逃げよ」

「え?」

「全部から逃げよ。全部だからね。海里かいり君」


 僕はその甘美な響きの誘惑に打ち勝つことが出来なかった。僕達はそれぞれ荷物をまとめて家を出た。そして、遠くを目指した。

 僕達は俗世から離れ、そして人生のレールから外れた。



 僕達は郊外にある築三十年のアパートを借りた。僕は不安だった。人生で初めて父親の扶養を抜け、自分の力で生きていく必要があったからだ。それはきっと彼女も同じだっただろう。二人暮らしの最初の方、僕達は来る日々を恐れて生きていた。

 僕達は毎日を懸命に生きていた。最初の方は自炊もしていたし、バイトもしていた。しかし、僕達は気づいてしまった。僕達が生きるのに努力は必要ない、と。僕達は自炊をしなくなった。毎日、近所のコンビニで安売りしているコーンフレークを買い、三食それを食べた。僕も彼女も文句を言わなかったし、それでいいと思っていた。

 僕達の生活が変わったのは、その生活が始まってから一年が経った頃だった。

 ある日、僕が夕食をつまんでいた時のこと、家に帰ってきた彼女が突然僕を押し倒してきて、僕に性行為をするよう要求してきた。彼女の要求を断る理由もなかったので、僕は「いいよ」とだけ言って彼女の要求を呑んだ。すると彼女は前戯もなしに行為を始めた。僕は驚いたがその思考に蓋をし、彼女との甘い時間に身を捧げた。三回行為を致した後、疲れた僕は「そろそろ休憩にしない?」と彼女に伝えた。すると、彼女は涙目になって僕にしがみ付き「やめないで」と懇願した。こんなことは今までになかった。だから僕は彼女に何があったのかを訊いた。

 五時間程前、彼女がまだバイト中の時、バイトリーダーの男が声を掛けてきたのが発端だった。バイトリーダーという肩書きを持ってはいるが、仕事を熱心にこなすタイプではなかった。むしろバックれることも多々あったらしい。彼曰く恋人に逃げられたそうで、有り余る性欲のけ口を探していたらしい。そこで目につけたのが優依ゆいだった。彼は優依ゆいを強引に押し倒し、そして抱いた。行為自体は簡単に言葉で表せるものだったが、その行為が彼女に残した爪痕は決して簡単に言葉で表せるものではなかった。

 それからというもの、僕は寝ている時とシフトが入っている時以外の時間は、彼女を抱くことになった。最初の方は一日で計十回位抱き、お互いが疲れて寝落ちするまで夜を過ごすこともあったがその回数は次第に減っていった。お互いが気づいていた。こんなことをしても意味がないと。体を寄せ合って、ぶつけ合って、その結果得られたものは空虚な快楽と後味が悪い不快感だった。それと同時に違和感も覚えていた。優依ゆいが妊娠しない。この一、二ヶ月の間、ずっと避妊もせずにしていたのに、一向にできる気配がしなかった。「不妊症」、その言葉が頭をよぎった。しかし、彼女に言うことはなかった。言う必要がなかったから、言っても何も変わらないと思ったから。

 あの一件の後、彼女はバイトを辞めた。そこから数ヶ月か経って、僕も辞めた。その頃の僕達には生への執着が見られなかった。勿論、そこに向上心などある筈もなく、現状維持だけを目指していた。

「死んでもいい。でも死ぬつもりはない。」そんな気持ちで生きること一年、逃げ出してから三年が経った。僕達は言葉を交わさないようになった。それは僕達の間にある信頼がそうしたのか、それとも僕達の持つ怠惰がそうしたのか、原因は分からなかった。ただ言えるのは僕がそれで満足していたことだけだ。

 僕達は最も近い距離に体を置き、最も遠い距離に心を置いた。毎日、僕達は惰眠を貪った。お互いの気持ちも、過去も知らないままで。


 夢を見た。

 始まりは日常生活での会話の一節、量産化された流行の一掬い、僕は記憶の再演を見た。

「ほら……最近やってるドラマ! タイトルは『オンリー・ラヴ・ユー』って言うんだけど、知ってる?」

「知らないな。人気なのか? それ」

「人気も何も、大流行だよ! 知らないの? SNSで話題沸騰中だよ!」

「…………悪いな。トレンドは抑えていないんだ。そんなに面白いのか?」

「もう最高だよ! 特にあの恋愛がね、いいの! 確か……『退廃的な恋』って言うのかな?」

「…………『退廃的な恋』? なんだそれ?」

「それはね…………」

 彼女が何かを言う。しかし、それは聞き取ることが出来なかった。彼女が霞んでいく、消えていく。そして、僕は再び彼女の姿を認識した。それは現実の出来事だった。

 今日は十二月三十日、世間一般では年越しムードが漂い、テレビは年越し特番が放送されていた。この時期になると見る番組がなくなって困るな、と思いながら毎年変わらず繁盛するアメ横の中継を見るのだった。ただいつまでもその中継が続いているわけではないので、どうしようかと悩んだ。そこでふと閃いた。「そうだ、大掃除をしよう」、と。

 布団でうずくまる彼女を置いて、僕は整理から始めた。部屋の隅っこの段ボールは引っ越してからというもの、簡単に荷物を出したままで放置されていた。中身を出して、選別する。見た感じ彼女の荷物だった。僕は彼女への罪悪感を少し持ちながら仕分けをした。一度全ての段ボールから荷物を出すことにした。僕の荷物は少なく、彼女の荷物が殆どだった。

 彼女の荷物を少し詳しく見ることにした。謎の袋の中には服が入っていた。ブランド物ではなかったが、それなりに高そうな感じはした。きっとお出かけする時に着る物だったのだろう。結局今日までその機会はなかった。

 次に取り出したのは分厚い本だった。函から中身を取り出し確認する。それは卒業アルバムだった。しかも中学時代のものだった。集合写真を見る。そこにはたくさんの知った顔があった。しかし、その声を、その言葉を思い出すことは叶わなかった。僕は彼等かれらとの思い出を辿ろうとしたが、これも出来なかった。僕は彼等かれらと関わろうとしてこなかった。そのツケが今、自分に返ってきたのだった。


「何見てるのぉ~?」


 その声は後ろにいた彼女の物だった。僕は驚いた。てっきり彼女はまだ寝ているものだと思っていた。彼女は寝起きだったためか、声に芯がなく、うっつらうっつらしながら話を始めた。


「これは何かなぁ~…………ぁあ~卒アルだねぇ~」


 彼女は僕が持っていた卒業アルバムを取ると、一枚一枚丁寧にページを捲り始めた。三年間の思い出の写真が、ページいっぱいに敷き詰められていた。そこに僕はいなかった。在ったのは有象無象の顔と、彼女の笑顔だけだった。


「どぉだったぁ? 中学時代はぁ? 楽しかったぁ?」


 僕に思い出はなかった。僕は中学時代の全てを勉学と内申に費やした。思い出を語らない僕に気を遣ってか、彼女は更にページを捲った。クラスページだった。


「みんなのこと覚えてるかなぁ? 海里かいり君はみんなのために頑張ってきたんだよぉ」


 同級生、学友、本来はそう呼ぶべき人々。僕はそのページにいる人の殆どと初対面だった。否、目を向けなかっただけだ。


「覚えていない。僕はみんなのことを知らない。みんなの上に立つ者なのに、だ。」

「そっかぁ。でも、まだ遅くないよ。」

「それって……どういう…………」


 彼女は卒業アルバムを閉じ、僕の方に体を向けてきた。


「今から知ればいいんだよ。一つずつ、身近な所から……ね」


 そう言って彼女は昔話を始めた。



 昔、今から十数年前。当時の優依ゆいはまだ小学生だった。優依ゆいには父親が居なかった。優依ゆいが二、三歳の頃に交通事故で死んだらしい。そのため、優依ゆいを育てたのは女手一つだった。優依ゆいの母親はいつも何かに急かされていたように見えたらしい。それは女手一つで子を育てる責任から来るものだったのか、それともママ友間での保身のためのものだったのか。今でも不明である。ただ一つ言えることは、その焦りが優依ゆいの成長に大きな影響を与えたことだった。母親は優依ゆいにスパルタ教育を施した。毎日十二時まで勉強させ、家事の大半は優依ゆいにやらせた。その上、気に喰わないことがあれば、コップや灰皿を投げた。当時の家は優依ゆいにとって地獄のような場所だった。

 優依ゆいは学校も地獄だったと言った。学校での優依ゆいは家とは違い、明るい性格だった。これに関しては僕も知っていた。しかし、優依ゆい曰く、それは地獄だった。何故なら優依ゆいは演じていたからだ。自分の理想である姿を、自分の抑圧された姿を。ここだけ聞くと、地獄よりも天国ではないかと思えてしまうが、現実はそうではなかった。確かに初めの方は良かった、と優依ゆいは言った。しかし実際のところ、その行為は家に帰った時に押し寄せる後悔の原因になっただけだった。その日の自分の行動を一つ一つ思い出し、現実の自分と照らし合わせた時、自分がどれだけ愚かで、恥ずかしくて、惨めで、醜いものかを理解するのだった。それによって生じる負の感情は日々蓄積し、優依ゆいを壊すのには十分だった。なら演じることを辞めればいい。そう思うかもしれない。しかし、それは不可能だった。優依ゆいは恐れていた。自分が築き上げ築き上げてきた「家入いえいり優依ゆい」というキャラクターを崩してしまうのを。もし崩れてしまったら、自分はもう学校で存在できなくなるのではないかと恐れた。そうやって誰にも打ち明けることがないまま、優依ゆいは高校に進学した。

 高校に入った優依ゆいは、これまで通りの演技で同級生と接していた。しかし、いつしかその演技もやめてしまった。

 同級生はみんな、優依ゆいのことを白い目で見た。異質な物として遠ざけた。高校という環境は優依ゆいという存在を拒絶した。

 優依ゆいは演技をする必要はなかった。高校に優依ゆいを知る人が居なかったからだ。しかし、優依ゆいを認める人は居なかった。

 優依ゆいの通っていた進学校にはカースト制度が根付いていた。頭の良い奴とカリスマ性がある奴が上に立ち、優依ゆいのような弱者は下にしがみつくことしか出来なかった。

 優依ゆいは何も持ちえなかった。そのくせプライドはあった。進学校に来る人なら、誰でも一定以上のプライドを持っている。それは中学校までで育った自分は出来るという万能感だった。

 進学校に来る人は成功者である。若い成功者は挫折を知らない。その点については全員が子供だった。カースト上位者は家柄がよく、取り巻きが多くいた。

 優依ゆいは所謂、お嬢様学校という所に入った。母子家庭で、何処どこの派閥にも属さず、ただ明るいだけで、色々なグループを掻き回していく。だから嫌われた。孤立した。優依ゆいは様々な人にいじめられた。陰湿に、執拗に。

 優依ゆいには相談する人がいなかった。頼れる友人は高校に居なかったし、中学時代の友人の幻想を壊したくなかった。母親に相談することはなかった。相談しても信じてくれないだろうと思っていた。

 先生には相談した。先生は言った。「自分で解決しなさい。」と。優依ゆいは大人に期待することを止めた。

 三年間いじめられ、思うように事が出来ないまま受験を迎えた。結果は不合格。泣く泣く抑えの大学に行くことになった。

 優依ゆいは不安を抱えていた。大学でまた同じようにいじめられてしまうのではないか、と。そんな時に会ったのが僕だった。

 その後は僕も知っている内容だった。共に授業を受けた日々、告白したあの日、デートをした日々、逃げ出したあの日、一つ屋根の下で暮らした日々。優依ゆいは楽しそうに、そして悲しそうに話した。

 話の終わりに優依ゆいは言った。「救ってくれてありがとう。」と。僕はどう返答しようか悩んだ。僕は優依ゆいを救った訳ではない。仮に優依ゆいが本当にそう思っていたとしても、それは優依ゆいが勝手に思っている訳で、僕が意識して優依ゆいを救おうとした訳ではなく、結果的に優依ゆいを救っただけである。

 僕は優依ゆいにその事を言おうとした。「優依ゆい」と呼び掛ける。返事はなかった。優依ゆいは寝てしまっていた。僕は優依ゆいを寝床に戻し、「おやすみ」とだけ言い、布団を掛けた。そして僕は作業に戻った。

 僕は気づいていなかった。優依ゆいが起きていた事を。彼女が放った一言を。


「私は————」



 その日はいつもの様に空が曇りで、優依ゆいが僕より早く起きていたことを覚えている。

 僕が起きて早々、優依ゆいは僕に言った。「海に行こう」と。

 優依ゆいがお出掛けに誘う事は久しぶりのことだった。最後にお出掛けをしたのはいつだっただろうか。思い出そうとしたが、それは叶わなかった。その時の僕は、今の僕達がお出掛けをしなくなるだなんて思わなかっただろう。だから意識することがないし、記憶することもないのだ。

 僕は断る理由もなかったので海に行くことにした。やる気が失せる前に準備をし、家を出発した。電車に乗って行くことにした。

 海まで二時間。この時間は短いものではなかった。今までの優依ゆいなら、僕が誘ってもいかなかっただろう。しかし、優依ゆいは自発的に海に行こうとしていた。僕は優依ゆいの心境の変化を読み取ろうとしていた。

 電車には僕達しか居なかった。こんな時間に海へ行くのは僕達だけだった。普通の人なら平日は仕事や学校があり、海に行こうだなんて考えないだろう。僕達は常に逆行していた。

 僕は人と関わることをしなかったし、優依ゆいは自分を見せることをしなかった。僕達は学ぶことも働くこともせず、毎日を怠惰に過ごし、人々が寝静まる頃に街へ出た。

 優依ゆいは寝ていた。僕にもたれたまま、電車に揺られていた。僕は起きていた。車内の広告と電光掲示板を、そして彼女を見ていた。


『広がる人型アンドロイドの量産化。人間生活の明日は如何いかに。』


 僕はそのニュースを見て、人間の存在意義について考えた。僕達は社会貢献をしていない。僕達は社会貢献をするアンドロイドよりも下の存在であった。画一的なアンドロイドの方が優れているならば、僕達の持つ個性第一主義の思想は間違っているのではないかと思った。僕達は感情を持つべきでなかったとも思ったし、僕は父に従って生きていた方がよかったのではないかとも思った。

 それでは何故なぜ僕が生きるのか。全ての理由は優依ゆいにあった。優依ゆいが居たから僕は生きてきたのだ。そう、僕は優依ゆいが———


『次は七里ヶ浜、七里ヶ浜』


 その瞬間、僕は現実に引き戻された。僕は優依ゆいを起こした。まだウトウトしている優依ゆいの手を引き、僕達は電車を降りた。

 海に着いたのは午後九時だった。出発が遅かったから当然と言えば当然であるが、昔映像で見た日光を乱反射する海面を見ることは出来なかった。優依ゆいの白い帽子と白いワンピースが、この暗闇を照らしているような気がした。

 僕達は浜辺を歩いた。言葉を交わすことなく。手を繋ぐこともなく。優依ゆいを先頭にして、僕達はどこまでも歩いた。波の音だけが頭に響いていた。

 側から見ればただの奇行であったかもしれない。しかし、もうどうだって良かった。僕達を邪魔するものは何もなかった。ここには僕達だけがあった。車の往来の音も、風の音も、会話の音もなく、月下、波のメトロノームを頼りに、静かなステップを踏んだ。

 僕達は浜辺から少し離れた漁港のようなところに来た。実際、そこは立ち入り禁止区域だっただろう。しかし、僕達は入った。見られているかもしれない。捕まるかもしれない。僕達はそのようなことを何も考えなかった。僕達は子供のように探検した。それはまるで失った月日を追うようだった。

 漁港の外には船着場があった。僕達はそのコンクリートで舗装された道を歩いた。

 心地よい陸風に背中を押され、僕達は前へ前へ進んだ。最も、この先は行き止まりだ。来た道を戻ることでしか帰ることが出来ない。昔の僕だったら、その行為は無意味であると決めつけ、絶対にしなかっただろう。しかし、僕は変わった。彼女が僕を変えた。

 僕は優依ゆいの姿を目で追った。優依ゆいは帽子を手で押さえ、調子に乗って一回ターンをした。可憐かれんなターンだった。夜の闇を見にまとったバレリーナのようだった。再演はされない一生に一回の劇、オーケストラピットの演奏者は不在、観客は一人、演者も一人。

 僕は昔の優依ゆいを見ているようだった。元気いっぱい活発のコメディアンで、何処か抜けていて、今も少しバランスを崩しながら騒いでいる。

 ふと気になった。もし昔の僕が、昔の優依ゆいに対して友好的な態度をとっていたら、今の僕達はどうしていただろうか。

 そんな考え事をしながら船着場の先端まで来たその時だった。強い風が吹き、優依ゆいが被っていた帽子が飛ばされてしまった。優依ゆいは急いで手を伸ばしたが、帽子には届かず、代わりにバランスを崩し、海へ落下しそうになっていた。

 僕は優依ゆいに手を伸ばした。優依ゆいは僕の手を取った。しかし、僕が優依ゆいを支えられるはずもなく、僕達は共にバランスを崩し、海へと落下していった。

 その時見た優依ゆいの顔を、僕は忘れることはないだろう。優依ゆいは笑っていた。その笑みは最小限に、僕を見つめる優しい目をしつつ、何処か悲しそうな雰囲気を出しながら。

 僕達は海面に接した。ノースプラッシュなんて格好いいものでもなく、大きく水飛沫を立て、そして沈んでいった。

 青が広がる。レイリー散乱が透明な海に垂らした青が、夜の闇が落とした黒が、僕達を海底へ誘った。

 優依ゆいの髪は海月くらげのように漂った。僕は見惚れていた。ああ、そうか。僕は————

 それから一分程経って、僕達は海面に出た。優依ゆいが久しぶりにセットしたヘアスタイルは既に原形を留めていなかった。かく言う僕も、きっと滑稽な姿になっていたのだろう。

 すると、優依ゆいが笑った。声を出して笑った。その声は小さく、今にも消えてしまいそうだったが、確かに笑っていた。

 僕も笑った。優依ゆいにつられて笑った。僅かな時間だったが、僕達は笑い合った。それが終わると、僕達は抱き合った。確認は必要なかった。お互いが相手のことを理解しているからこそ出来ることだった。

 五分くらい抱き合った後、僕は浜辺に戻ることを提案した。優依ゆいは「うん」とだけ言った。

 僕達は浜辺で朝日を待った。終電は僕達を待ってくれなかった。僕達はいつものように横に並び、いつものようにもたれていた。

 これが僕と優依ゆいの最後のおでかけだった。



 ある日のことだった。

 僕が起きてから長い時間が経っても、優依ゆいは起きなかった。珍しいことではなかったが、何故か僕は心配になった。

 僕は優依ゆいに触れた。優依ゆいは冷たかった。僕に熱でもあるのかなと思った。

 朝食を済ませ、布団に帰った。そしてすぐに眠りに落ちた。現実から逃げるのにはそれで十分だった。

 翌日も優依ゆいは起きなかった。家の中には無数の羽虫がいて、優依ゆいの周りを飛んでいた。

 僕は蚊取り線香に火をつけ、燃えていくその先端を眺めていた。今は夜、僕達が生きるこの六畳間は暗闇と僅か光を放つ蚊取り線香だけがあった。

 その翌日、優依ゆいの顔に蛆虫うじむしが付いていた。僕は布団をめくった。布団の下には、優依ゆいの体には、無数の蛆虫うじむしがあった。

 僕は優依ゆいに付いた蛆虫うじむしを手で取って捨てた。何の感情も持たず、ただの作業をするように。

 僕はこれが無意味であることを知っていた。しかし、それでも続けた。理由は自分でも分からない。もしかしたら諦めたくなかったのかもしれない。神にすがっていたかったのかもしれない。

 しかし現代、人の時代、神は既に死んでいる。有りもしないものを追っているあたり、僕は本当に成長していないんだな、と思った。

 僕は優依ゆいの服を脱がせた。優依ゆいは全く抵抗しなかった。体の中心、腹部から淡い青が広がっているのが分かった。僕は生まれたままの姿になった優依ゆいを見ても、何の性的興奮も覚えることはなかったし、優依ゆいに欲情することもなかった。



 あれから四時間が経った。葬儀屋の霊柩車の音で僕は現実に帰ってきた。運転席にはアンドロイドが居て、人間の代わりに仕事を行なっていた。全ては有限である。人の時代もいつか終わるのかもしれない。そう思った。

 優依ゆいを後部座席に寝かせ、僕は助手席に乗り、霊柩車は発進した。車は久しぶりだった。特に助手席に乗るというのは初めてだった。葬儀場に行くまでの間、僕は外を眺めていた。

 僕達の生活範囲である半径百メートルより外は僕達にとっては未開の領域だった。その領域に最後に踏み入れたのは優依ゆいと海に行った時だったっけな、と思いながら車窓を眺めた。

 街並みは変わってしまった。僕達を残して。そして優依ゆいも変わってしまった。僕を残して。僕はやるせない気持ちを抱えながら車に揺られた。

 二時間後、僕達は葬儀場に着いた。ここの葬儀場は手続きが簡単に出来ることが売りで、僕達のようないやしい身分の人々がよく利用する所であるらしい。人が居ないのが特徴であった。実際、他の客は居なかったし、スタッフの人も居なかった。全ての業務はアンドロイドが担っていた。

 葬儀場は既に飾り付けられていた。僕は辺りを見渡した。当たり前だったが、参列者は僕一人だった。

 遺影には笑顔の優依ゆいがいた。これは僕や僕以外の誰かが撮った写真ではなく、葬儀屋が本人の顔を元に生成した写真だそうだ。

 その笑顔は僕の心に深い傷をつけていった。優依ゆいと過ごしたこの数年間、優依ゆいが笑うことは殆どなかった。僕にとっての優依ゆいとは、いつも静かに寄り添ってくれる、そんな人だった。だから僕は、あの遺影の中にいる優依ゆいの存在を否定したかった。あれは優依ゆいでないと言いたかった。でも言えなかった。

 結局、僕は本当の優依ゆいというものを理解できていなかった。僕が見ていた優依ゆいは表面だけだった。海で見た優依ゆいの笑顔は本心だったのだろうか。この数年間、優依ゆいの本心を、僕はずっと抑圧してきたのだろうか。

 思考も葬式も、一度始まったものは止まることを知らず、僕のことを見向きもせず置いていった。スピーカーから流れる木魚と読経どきょうの音だけが空間にあった。

 僕は焼香のことを思い出した。立ち上がり、遺影の前に立つ。焼香のやり方はなんとなく知っていた。昔、父と行った葬式で知ったのだろう。あれは誰の葬式だったのだろうか。今となっては分からなかった。

 焼香が終わり、僕は遺影をもう一度見た。知らない顔は、変わらずそこにあった。

 僕は席に戻り、残りの読経どきょうの時間を使って優依ゆいの顔を思い出そうとした。初めて会った時のこと、共に委員会活動をした時のこと、学校行事の写真に写ったのを見た時のこと、再会した時のこと、告白された時のこと、逃げようと言われた時のこと。優依ゆいの姿は脳内のフォトフレームに収まり、僕に笑みや悲しみを見せるのだった。

 しかし、優依ゆいが体を求め始めてからというもの、僕の脳内のフォトフレームの優依ゆいの写りが悪くなった。優依ゆいはフォトフレームの外に出たり、そっぽを向いたりした。

 そして僕は理解した。僕は優依ゆいを見ていなかった。僕が優依ゆいを抱いた時、僕は優依ゆいを見ていただろうか。僕達が浜辺で寄り添った時、僕は優依ゆいを見ていただろうか。僕にとっての優依ゆいは、薄くて脆いものだった。

 僕は席を立って走り出し、今の優依ゆいを求めた。責める人はいなかった。棺桶に眠る優依ゆいは花の中に沈んでいた。優依ゆいは笑わなかった。悲しむこともなかった。優依ゆいは表情を変えることなく寝ていた。

 気がつけば葬儀は終わっていた。AIが考えた説話を聞き流し、僕達は火葬場へ向かった。火葬場にも人は存在せず、そこに居たのはやはりアンドロイドだけだった。

 僕は優依ゆいをアンドロイドに預けた。火葬炉に優依ゆいを入れた棺が入ろうとした時、僕はそれに待ったをかけた。「手紙を書きたい」、そう言って。

 便箋はアンドロイドが持ってきてくれた。僕は手紙に今の心情と優依ゆいへのプラトニックな愛をつづった。書き終わった手紙を棺に入れ、火葬炉へ行く棺を見送った。

 その後、火葬炉の裏にある職員しか入れないところに行った。そこからは火に包まれる優依ゆいの姿を見ることが出来た。

 最愛の人が焼かれているのにも拘らず、僕の心には一切の哀愁あいしゅうの念がなかった。まるでほろほろと崩れゆく蚊取り線香を見ているかのように、悶え、苦しみながら死んでゆく優依ゆいを見ていた。

 火葬は人生最後の輝きであったはずだが、別に美しくも神々しくもなかった。ただ人間の醜さがそこにあった。聖女と持てはやされたジャンヌ・ダルクの火刑も実際はこんなものだったのかも知れないと思った。

 火葬が終わり、台の上に優依ゆいの骨が並べられていた。僕はその骨を、周りに残った灰を、一つ一つ骨壷に入れた。僕はその作業を淡々と行なった。優依ゆいの骨を一つ一つ砕いて入れた。

 その行為に対して、僕は一切の躊躇ためらいも後悔もなかった。最後に喉仏の骨を入れるまでに三十分掛かった。アンドロイドから有料の骨袋を貰い、優依ゆいが入った骨壷を入れた。

 僕達は葬儀場から出て、家へ向かった。夜も更け、外には僕達以外誰も居なかった。僕は優依ゆいを両手で抱えながら歩いた。優依ゆいは随分と小さくなってしまった。

 帰る途中、僕達は思い出話をした。初めて会った日のこと、共に委員会活動をしたこと、大学で再会したこと、二人で逃げ出したこと、そして海に行ったこと。今までの全てを話した。それが終わるとこれからの話をした。今までの僕達は不幸でいっぱいだったけど、出会ってからは幸せでいっぱいだよ、と優依ゆいに言った。

 その後、僕は海に引っ越そうとも言った。何処か遠い、海沿いの白い家で一生を過ごすんだ。朝は好きな時間に起きて、適当にバゲットをつまもう。昼は家のカバードポーチにあるガーデンチェアに座りながら夢を語ろう。夜は砂浜で寄り添いながら星を見よう、と。

 そんな話をしていたら家に着いた。僕は「ただいま」と言った。返事はなかった。あるはずがなかった。家はいつまでも静かだった。僕以外の人の気配がしなかった。彼女の気配がしなかった。

 その時僕は理解した。優依ゆいが死んだということを。

 僕は何も知らないふりをして、風呂に入り、夕食を済ませた。涙が溢れそうになったが堪えた。僕は複雑な気持ちに蓋をして、無知を演じた。きっとこれは僕が死ぬまで続くだろう。

 僕は優依ゆいを抱えたまま布団の上に座った。時計の針は夜の三時を指していた。部屋の中には秒針の音だけがしていた。あれだけ騒がしかったテレビの喧騒も、少し前まで続いていた風雨の音も、そして優依ゆいの声も、もう何もなかった。

 そして、今に至った。

 これで僕の話は、懺悔は終わった。空はまだ曇っていた。僕に星を見る権利はないようだった。

 うっすらとした朝焼けが部屋に入ってくるのが分かった。眩しかった。だから、僕はカーテンを閉め、部屋と外界を遮断した。部屋は暗くなった。

 僕は小さくなってしまった優依ゆいを撫で、そして長い眠りに落ちた。


 僕は今、退廃的な恋をしている。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

退廃的な恋がしたい 氷雨ハレ @hisamehare

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ