退廃的な恋がしたい
氷雨ハレ
退廃的な恋がしたい
六月の天気は憂鬱なもので、曇り空は心の鏡の様だった。
雨戸を跳ねる水滴、テレビを流れる演劇、ただそれだけが頭の中に響いていた。
六畳間の部屋に男女二人、布団の上で身を寄せ合っていた。抱き合うことはせず、ただ横に並ぶだけ。視線は見つめ合わず、ただテレビを向くだけ。心の距離は遠く、そして近く、確かにここに在った。
僕達はお互いのことが好きだった。自分を愛することはなかったが、相手を愛することはあった。常にそうしていた。ただ愛というものは変動性に
僕達が出会ってからもう十年以上になる。最初は今と全く違った。
しかし、僕達はその幸せをかなぐり捨てて逃げた。僕達は社会的に正しいレールを捨て、自分のための道を選んだ。それが正解だったかは今でも分からない。
最初の方の僕達は、至って健全だったと思う。嫌なものに蓋をして、表面上では満面の笑みだった。
だが、その薄氷もある日突然割れることとなり、僕達は本当にレールから外れることとなった。
その後の僕達は愛を確かめるために、一番短絡的で手っ取り早い方法を使っていた。毎日の様に、産まれたままの姿で、相手の体を貪っていた。でも、それは次第に回数を減らし、いつしかしなくなった。違う、と思ったからだろう。しかし、そうしなくなっても僕達は身体を寄せ合った。そうして出来たのが今のこの形、僕達の最適解、辿り着くべきして辿り着いた場所だった。
僕達は一日中、ずっと身を寄せ合っていた。僕達の愛はこれが全てだった。これより発展することも衰退することもなかった。
僕達は幸せだった。そう信じて疑わなかった。そう、あの時までは。
今から二十年以上前、僕はこの世に生を受けた。母は生まれた時から居なかった。僕を産んで、そしてそのまま死んだ。
僕は父によって育てられた。父は忙しい人で、幼少期はベビーシッターが代わりに僕を育てた。小学校高学年の頃になると仕事があまり忙しくなくなったらしく、ベビーシッター、もとい家政婦を解雇し、その代わりに父自身が家にいるようになった。しかし、父は子育てをする人ではなかった。父は自立を重んじる性格の人で、何もかも僕にやらせ、文句があるとすぐに手を上げた。
自立と同時に父は夢を見ていた。自分が成し得なかった東大という狭き門に息子が入ることを。そしてそれを踏み台にして、息子が大企業の社長になることを。そう、僕は父の第二のプレイヤーキャラクターだった。
だが僕はそれに対して何の疑問も持たなかった。父の言うことは全て正しいと信じていた。
彼女、
僕はあまり彼女と親しくしようとしなかった。
彼女はよく、僕に話しかけてきた。僕は適当に彼女と接した。僕は冷たい人間と思われるかもしれないがそれで良かった。何故なら、この委員会活動は内申点のために行っているだけであり、彼女とは違いクラスのために行っているわけではないからだ。それでも彼女は僕に話しかけてきた。その子供のような話し方を、ちょっと
ただ、委員会活動となると急に真面目となり、いつもはだらーんと腑抜けた顔も、この時だけはシャキッと引き締まるのだった。真面目で、腑抜けで。頭が良くて、何処か変で。大企業の社長のようで、売れっ子のコメディアンのようで。そんな彼女を僕は敬遠していた。
僕は、出来ることなら彼女から遠ざかろうとした。しかし、出来なかった。彼女の方が近づいてくるからだ。
僕はよく彼女の笑い話を聞いた。彼女の話は、聞き手を惹きつける要素がふんだんに盛り込まれていたし、しっかりとしたオチもついていた。「話し上手だな。今度の発表も任せようかな。」なんて思いつつ、聞き耳半分、その他半分で彼女の話を聞いていた。
彼女の好きなことに、「他人のほっぺを
彼女は僕のほっぺも
当時の僕達の関係は一方通行だった。いつも彼女が僕にちょっかいを出し、僕がそれを受け流していた。
この関係は三年間続いた。しかしその関係は三年生の三月、卒業式の二週間前に変わることとなる。受験も授業も終わり、僕達三年生は学校で卒業前発表の準備をしていた。内容は「将来の夢」だった。特に悩むことなく内容が決まった。
放課後、誰もいない教室で僕が一人で発表準備をしていた時だった。彼女が教室に入って来た。始めの方はだんまりを決め込もうとしたが、彼女が話しかけてきたことによりその作戦は崩れた。
「これ、発表の準備? 学校でするの?」
「……うん、学校にはたくさんの備品があるから、これを使わない手はないと思って」
「内容……『トップリーダーに必要な素質』って、
「うん……将来は社長になってみんなを笑顔に出来たらいいなと思って」
「ふぅーん? ……それ、ホントなの?」
「……『ホント』…………? それってどういうこと?」
「その
「それは……
「なら、きっかけは?
「それは…………父さんが……」
質問は尋問に変わっていた。何かを見透かされているような気がした。強い恐怖を感じた。
しかし、それを言い出すことは出来なかった。聞くべきでないと判断したからだ。僕達は数分間に渡って簡単な問答をした後、彼女は軽い別れの言葉を言い、去っていった。
彼女がいなくなった後、僕は自分が作った発表原稿と内容が書かれた模造紙を見た。僕はそれを無造作に取り、グチャグチャに丸めた。ゴミ箱へ捨てに行き、ゴミの塊を少し眺めた後に投げ捨てた。
何日か経って発表があった。僕の発表は
そして僕達は卒業式の日を迎えた。結局、僕達はその日まで一言も交わすことはなかった。
式の後、僕達は校庭に出た。みんなは晴れ着姿や制服姿で写真を撮っていた。彼女はお世話になった人全員に、そして個別に挨拶して回っていた。わざわざそんなするだなんて、余程の物好きか? と思った。対して僕はすぐに帰った。
父に卒業した旨を伝える電子メールを送り、僕は参考書を開いた。勉強をしようと思ったが、あまりにも
僕は地域で一番頭の良い男子校に入った。そこでの日々は退屈で、あっという間に中学卒業から三年が経った。僕は中学卒業から高校卒業までの三年の間、生徒会長を務めながら勉学に勤しんだ。
そして迎えた大学受験。僕は抑え校として私立校を一つ、そして本命として東大を受験した。その結果、私立は受かった。東大は落ちた。そのことを父に報告した。父は激怒し、説教は次の日に父が家を出るまでの一日中続いた。
僕は抑えの私立に入った。そして、そこで彼女と再会した。
「
「
お互いが思っていた。彼、彼女は優等生だった。きっと自分の行く大学より上の大学に行くだろうと思っていた。
「まぁ、なんだ。同じ学校に入ったんだ。これからもよろしく頼む」
「私こそ、よろしく」
簡単に言葉を交わし、その場を後にする。僕は振り返り、彼女の後ろ姿を眺めた。彼女は変わっていないように見えたが、何処か微細な点で変わったような気がした。
その後は彼女との交流が何度もあった。お互い大学で他の友人が出来ず、サークルに入ることも出来なかった。
そんなもんだから、自然と一緒にいる時間が増えた。嫌な気はしなかった。知らない人と一緒にいることより数倍はましだった。あの日までの僕達の関係は、学校だけのものだった。学校の外に出れば赤の他人、そんな感じだった。しかしあの日、その関係が変わることとなった。
「
「今日は午前中に倫理の授業が入っている。午後は暇かな。何か用でも?」
「あの…………後で少し話が…………」
「話? 今じゃなくて?」
「その〜…………大事な話だから…………ゆっくり話したいな〜…………なんて」
「はぁ」と僕は二度言った。一度は先の話の終わりに、もう一度は今言った。あの後、僕は流されるままに約束をした。今日の五時、大学最寄りの駅にある待ち合わせスポット集合になった。これはとても珍しいことだった。彼女から話しかけてくることは何度かあったが、彼女から
午後五時半過ぎ、日が傾き始めた頃、僕は駅前に居た。スマホでSNSを眺めながら、そして彼女の話を考えながら時間を潰した。
信号が青になり、特徴的な音を立てた。ふと気になって横断歩道の向こうを見ると、そこに彼女が居た。午前中から全く服装が変わっていない僕に対して、彼女の服装はがらりと変わっていた。
彼女が「待った?」と言ってきたので、「待ってないよ」とだけ返した。僕は「そろそろ行こうか」と彼女に言おうとしたが、彼女の行動が僕を黙らせた。彼女はお辞儀をしていた。右手を僕の方に突き出してきた。僕は知っていた。この手の形は握手をする時の手だと。いや、そんなことはどうでもよかった。頭に浮ぶ疑問符。夏だというのに凍てつく時間。彼女が口を開く。ゆっくりと少しずつ。息が漏れる。そして、僕は認識した。
「好きです!!」
彼女、
僕達は近くのカフェへ向かった。彼女は非常にご機嫌な様子だった。一方、僕はこの現状を理解できていなかった。待ち合わせ場所で会って、開口一番に好意を言われた人の気持ちが分かるだろうか。しかも、街のド真ん中でだ。現在、彼女は僕の右腕にしがみ付いている。彼女の方だけを見れば、それはラブラブなカップルに見えたかも知れない。しかし、僕の方だけを見れば、それは無邪気な子供にドン引きする人に見えたかも知れない。少なくとも、僕は苦い顔をしていただろう。意味が分からなかった。
彼女の告白を聞いた後、僕の脳内回路はショートし、IQが半分くらいになった。そして僕は反射的に「え…………あ…………うん…………」とだけ言い、彼女の出した右手を取った。すると、まるで獲物が罠に掛かったかのように彼女は反応し、僕の右腕を絡め取ってしまった。そして現在に至る。
カフェに着いた頃には六時を告げるチャイムが鳴っていた。店員の「何名様ですか?」の質問に対し、「二名です!」と元気に答えた彼女のことが、強烈に記憶に残った。もう笑うことしか出来なかった。二人用の対面席に通された。彼女は僕から離れるのを嫌がっていたが、一分程渋った後、しょんぼりしながら席に着いた。僕はアイスコーヒーを、彼女はカプチーノを頼んだ。
「それで…………何の話だ?」
僕は彼女に話を振った。少しの沈黙を挟み、小声で「分かってるくせに」と呟いてから話が始まった。
彼女は言った。僕、
「で、何がしたいんだ?」
「それはもう決まっているよ! デート!」
「…………デート?」
「そう! デート!」
正直言って意味が分からなかった。デートとは何か、よく分からなかった。今までの人生十数年、僕は一度も「デート」と言うものをしたことがなかった。
「…………デートって何をするんだ?」
「うーん、やっぱりお出掛けかなぁ」
「お出掛け? どこに?」
「うーん……やっぱり海かなぁ〜。カップルと言えばそうじゃない? 他にはイルミネーション、水族館、美術館とかかなぁ。あ、食べ歩きも良いかもね!」
楽しそうに話す彼女に僕は付いていけなくなった。僕と彼女が生きてきた人生の間はここまでの隔たりがあったのか、と実感した。水族館や美術館か、行ったことないな。
そう思っていたら突然着信音が鳴り響いた。僕のではなかった。ということは…………
「あ、私だ。もしもし、あ、お母さん?」
彼女宛の電話だった。電話の主は母親だった。電話に出た彼女の声が段々と沈んでいくのがはっきり分かった。
「うん、分かった。切るね。…………ごめん! 急用ができたから帰ることになっちゃった。バイバイ!」
そう言って彼女は去っていった。まるで突風のようだった。机の上にはちょっとだけ残ったカプチーノと一枚の千円札だけが残された。僕は残ったアイスコーヒーを飲み干し、会計に向かった。
僕は帰路に着いた。彼女とデートをする自分の想像に時間を費やした。
午後九時、僕は家に着いた。送り先不明の「ただいま」を言い、リビングへ向かう。当然、そこには誰も居なかった。僕は一人だった。父はもう僕を見てくれない。僕を見てくれるのは優依だけだった。僕は彼女へデートの内容を詳しく話すようメールを送った。その夜、僕は眠れなかった。
それからというもの、僕達は週末になるとお出掛けをした。上野の美術館、墨田の水族館、渋谷のプラネタリウム、鎌倉の小町通り、思い付く所全てに行った。僕は恋愛に興味はなかったが、彼女とお出掛けすることによって一般常識を知ろうとした。僕は多くのことを知った。毎回僕は新しいものを見た。僕は楽しかったし、これがずっと続けばいいと思っていた。
平日の午後は次のデートの行き先をよく話し合った。費用を稼ぐため、バイトをしたりした。僕は一般的な大学生がする大学生活を満喫していた。当時の僕はそれがこれからも続くと思っていた。そう、あの日までは。
始まりはそう、確か六月なのに晴れだった日、その日は東京ジョイポリスに行く予定だった。朝、起きてすぐ窓を開けようとした時、スマホが鳴った。メール、それも彼女からのものだった。内容は簡潔に「ごめん、行けない」とだけ。暫くは部屋の電気を付けることも、窓を開けることも忘れ、現実を理解するのに時間を使った。当時の僕は深く考えなかった。考えないようにした。彼女のことを一度忘れ、他のことに思考を使おうとした。しかし、出来なかった。
彼女に急用が入る時、それは人の頼みを断れないでいる時か母親に呼ばれた時の二つに一つだった。しかし、彼女はデートと他者の頼み事ならデートを優先する人だ。ということは…………
僕はその一日を家で過ごした。家事とレポートに時間を使った。やることがなくなったのでテレビを見た。目ぼしい番組はなかったが、時間潰しには丁度良かった。
その時ふと思った。何故僕は彼女がデートに行けなくなって落胆しているのだろう、と。別に一般常識を知るためだけなら、それはデートである必要はない。しかし、僕はその手段をデートに限定している。僕は自問自答を繰り返したが、その答えが出ることはなかった。
午後のニュースが始まろうとした時、僕は何となく外へ目をやった。雨だ。雨が降ろうとしていた。早く洗濯物を取り込まないと。そう思った時、電話が鳴った。リビングに一人、スマホが反響する。誰だ…………? そう思った。恐怖だった。誰が掛けてきたとしても
彼女とは駅で会った。彼女は濡れていた。どうやら傘を持っていないようだった。僕は彼女に「帰ろう」と言った。すると彼女は濡れた手で僕の袖を強く掴んだ。
「嫌だ…………帰りたくない…………」
彼女は下を向いて、そう僕に訴えてきた。彼女は震えていた。それは寒気からのものか、それとも別のものか。僕は分からなかった。とりあえず、僕は彼女を家に招待した。風邪を引かないよう、僕は彼女を風呂に入らせた。僕が着替えを用意していた時、風呂場から押し殺すような泣き声が聞こえてきたが無視した。十数分経って、彼女が風呂から出た。僕は彼女にホットミルクを与え、彼女が落ち着くのを待った。
少し経って、彼女はその重い口をゆっくりと開いた。
「……喧嘩…………したの…………お母さんと…………」
彼女はゆっくりと話を始めた。
「…………お母さんが…………
僕はそっと彼女を抱きしめることしか出来なかった。彼女は声を上げて泣いた。それが終わると、彼女は動かなくなった。彼女は寝てしまった。彼女をベッドに寝かせ、僕はキッチンへ飲み物を取りに行った。
するとまた電話が鳴った。いつもは沈黙を貫くスマホが、今日は二回も鳴った。電話の主を確認しようとした。その瞬間、手の感触が消え去った。ああ、スマホを落としたんだ。そう認識するのに時間は要らなかった。スマホを落としたら拾えばいい。しかし、体がそれを拒んだ。冷汗、過呼吸、戦慄、僕はそれらを前にして怖気付いてしまった。体の命令を無視してスマホを取る。ああ、分かっていた。だから見て見ぬふりをした。電話の主は………………父だった。
僕は電話に出た。右手でスマホを持ち、右耳にスマホを押し付け、左手で右手を抑えた。
「…………もしもし」
「遅い」
その一言は、僕を威圧するのに充分だった。
「大変申し訳ございませんでした」
「…………二度はない」
僕は過呼吸を抑え、父の話を聞こうとした。
「女が出来たんだな」
「はい。そうです」
「捨てろ」
「! ………………『捨てろ』とは」
「そのままの意味だ。東大に落ちた奴には分からないか? 『別れろ』という意味だ。女は下等な生き物だ。時間を
僕は黙ることしか出来なかった。
「情事に時間を使うなら、資格獲得に時間を使え」
「はい。分かりました。」
僕は電話を切って、スマホを握りしめることしか出来なかった。やり場のない怒りが、グルグルと頭の中を駆け回った。深呼吸を繰り返し、心を落ち着かせた。
冷蔵庫を開け、ボトルを取り出す。既に輪切りにされ、砂糖漬けにされた檸檬を頬張り、ボトルからコップにブランデーを注ぐ。いつものように。表面上、冷静を保ちながら。
ブランデーは一気に飲んだ。ニコラシカ——口の中で作るカクテル。僕と彼女の好きな一品——それを一気に呷った。楽しむつもりは無く、乱雑な味が口の中に広がった。気持ち悪い程の酔いが襲った。その後そのままベッドに倒れた。睡魔に身を任せる直前、今の自分がいるベッドに彼女がいることを思い出したが、どうしようもなかった。
翌朝、先に目覚めたのは彼女だった。彼女は起き上がり、辺りを見渡し、時計を探し始めた。その音で僕も目覚めた。少し頭が痛かったが、耐えられる程度だった。彼女に時間を聞く、どうやら十時を少し過ぎたらしい。これじゃあ授業は受けられないね、と彼女に言った。彼女はそれに応えて言った。
「なら、ズル休みしない?」
今までの僕なら、彼女と出会わなかった僕なら、この誘いを即答で断っただろう。しかし、僕はこの誘いを断れずにいた。数秒の思索を経て、彼女の誘いに乗ることに決めた。
僕達はずっと家でテレビを見ることにした。お出掛けしようか? と言ったが、彼女が拒否したので辞めた。別にテレビを見る必要はなかったが、他にすることがなかったので、リビングのソファーに二人で座り、彼女が僕にもたれるような形でテレビを見た。昼のワイドショーでは、近年複雑化する家庭環境についての特集が組まれていた。僕は父の話を思い出していた。僕は…………彼女と別れないといけないらしい。僕はそれに対して強い
「ねぇ、昨日、何かあったの?」
「昨日? もしかして覚えていないの?」
「違う。私が寝た後の話。ずっと様子が変だよ。何かあったの?」
「何も——」
「それにさっきの特集、何か深く考えていたようだけど、何かあったの?」
「だから——」
「昔から思っていたけど、もしかしてお父さんと何かあったりするの?」
「それは——」
「ねぇ」
「何か隠していない?」
それは髑髏、僕があの日の彼女に見出したものだった。僕は恐怖した。そして諦めた。僕は彼女に話すことにした。僕の人生二十年分を。
彼女は僕の話を静かに聞いてくれた。話が終わると、彼女は僕のことをそっと抱きしめた。そして、僕の背中に左手を伸ばしてしっかり僕の体を捕まえ、僕の頭に右手を伸ばして僕の頭を優しく撫でた。まるで母親が子供をあやすように。生まれてこの方二十年、この経験はなかった。だから、僕はこの時の感情を表す言葉を全く知らなかった。とめどない涙が頬を伝っていることだけが分かった。僕は彼女を身を委ねた。
僕が落ち着くまで十分程掛かった。彼女は、僕が落ち着いたのを確認してからこう言った。
「逃げよ」
「え?」
「全部から逃げよ。全部だからね。
僕はその甘美な響きの誘惑に打ち勝つことが出来なかった。僕達はそれぞれ荷物をまとめて家を出た。そして、遠くを目指した。
僕達は俗世から離れ、そして人生のレールから外れた。
僕達は郊外にある築三十年のアパートを借りた。僕は不安だった。人生で初めて父親の扶養を抜け、自分の力で生きていく必要があったからだ。それはきっと彼女も同じだっただろう。二人暮らしの最初の方、僕達は来る日々を恐れて生きていた。
僕達は毎日を懸命に生きていた。最初の方は自炊もしていたし、バイトもしていた。しかし、僕達は気づいてしまった。僕達が生きるのに努力は必要ない、と。僕達は自炊をしなくなった。毎日、近所のコンビニで安売りしているコーンフレークを買い、三食それを食べた。僕も彼女も文句を言わなかったし、それでいいと思っていた。
僕達の生活が変わったのは、その生活が始まってから一年が経った頃だった。
ある日、僕が夕食を
五時間程前、彼女がまだバイト中の時、バイトリーダーの男が声を掛けてきたのが発端だった。バイトリーダーという肩書きを持ってはいるが、仕事を熱心にこなすタイプではなかった。
それからというもの、僕は寝ている時とシフトが入っている時以外の時間は、彼女を抱くことになった。最初の方は一日で計十回位抱き、お互いが疲れて寝落ちするまで夜を過ごすこともあったがその回数は次第に減っていった。お互いが気づいていた。こんなことをしても意味がないと。体を寄せ合って、ぶつけ合って、その結果得られたものは空虚な快楽と後味が悪い不快感だった。それと同時に違和感も覚えていた。
あの一件の後、彼女はバイトを辞めた。そこから数ヶ月か経って、僕も辞めた。その頃の僕達には生への執着が見られなかった。勿論、そこに向上心などある筈もなく、現状維持だけを目指していた。
「死んでもいい。でも死ぬつもりはない。」そんな気持ちで生きること一年、逃げ出してから三年が経った。僕達は言葉を交わさないようになった。それは僕達の間にある信頼がそうしたのか、それとも僕達の持つ怠惰がそうしたのか、原因は分からなかった。ただ言えるのは僕がそれで満足していたことだけだ。
僕達は最も近い距離に体を置き、最も遠い距離に心を置いた。毎日、僕達は惰眠を貪った。お互いの気持ちも、過去も知らないままで。
夢を見た。
始まりは日常生活での会話の一節、量産化された流行の一掬い、僕は記憶の再演を見た。
「ほら……最近やってるドラマ! タイトルは『オンリー・ラヴ・ユー』って言うんだけど、知ってる?」
「知らないな。人気なのか? それ」
「人気も何も、大流行だよ! 知らないの? SNSで話題沸騰中だよ!」
「…………悪いな。トレンドは抑えていないんだ。そんなに面白いのか?」
「もう最高だよ! 特にあの恋愛がね、いいの! 確か……『退廃的な恋』って言うのかな?」
「…………『退廃的な恋』? なんだそれ?」
「それはね…………」
彼女が何かを言う。しかし、それは聞き取ることが出来なかった。彼女が霞んでいく、消えていく。そして、僕は再び彼女の姿を認識した。それは現実の出来事だった。
今日は十二月三十日、世間一般では年越しムードが漂い、テレビは年越し特番が放送されていた。この時期になると見る番組がなくなって困るな、と思いながら毎年変わらず繁盛するアメ横の中継を見るのだった。ただいつまでもその中継が続いているわけではないので、どうしようかと悩んだ。そこでふと閃いた。「そうだ、大掃除をしよう」、と。
布団でうずくまる彼女を置いて、僕は整理から始めた。部屋の隅っこの段ボールは引っ越してからというもの、簡単に荷物を出したままで放置されていた。中身を出して、選別する。見た感じ彼女の荷物だった。僕は彼女への罪悪感を少し持ちながら仕分けをした。一度全ての段ボールから荷物を出すことにした。僕の荷物は少なく、彼女の荷物が殆どだった。
彼女の荷物を少し詳しく見ることにした。謎の袋の中には服が入っていた。ブランド物ではなかったが、それなりに高そうな感じはした。きっとお出かけする時に着る物だったのだろう。結局今日までその機会はなかった。
次に取り出したのは分厚い本だった。函から中身を取り出し確認する。それは卒業アルバムだった。しかも中学時代のものだった。集合写真を見る。そこにはたくさんの知った顔があった。しかし、その声を、その言葉を思い出すことは叶わなかった。僕は
「何見てるのぉ~?」
その声は後ろにいた彼女の物だった。僕は驚いた。てっきり彼女はまだ寝ているものだと思っていた。彼女は寝起きだったためか、声に芯がなく、うっつらうっつらしながら話を始めた。
「これは何かなぁ~…………ぁあ~卒アルだねぇ~」
彼女は僕が持っていた卒業アルバムを取ると、一枚一枚丁寧にページを捲り始めた。三年間の思い出の写真が、ページいっぱいに敷き詰められていた。そこに僕はいなかった。在ったのは有象無象の顔と、彼女の笑顔だけだった。
「どぉだったぁ? 中学時代はぁ? 楽しかったぁ?」
僕に思い出はなかった。僕は中学時代の全てを勉学と内申に費やした。思い出を語らない僕に気を遣ってか、彼女は更にページを捲った。クラスページだった。
「みんなのこと覚えてるかなぁ?
同級生、学友、本来はそう呼ぶべき人々。僕はそのページにいる人の殆どと初対面だった。否、目を向けなかっただけだ。
「覚えていない。僕はみんなのことを知らない。みんなの上に立つ者なのに、だ。」
「そっかぁ。でも、まだ遅くないよ。」
「それって……どういう…………」
彼女は卒業アルバムを閉じ、僕の方に体を向けてきた。
「今から知ればいいんだよ。一つずつ、身近な所から……ね」
そう言って彼女は昔話を始めた。
昔、今から十数年前。当時の
高校に入った
同級生はみんな、
進学校に来る人は成功者である。若い成功者は挫折を知らない。その点については全員が子供だった。カースト上位者は家柄がよく、取り巻きが多くいた。
先生には相談した。先生は言った。「自分で解決しなさい。」と。
三年間いじめられ、思うように事が出来ないまま受験を迎えた。結果は不合格。泣く泣く抑えの大学に行くことになった。
その後は僕も知っている内容だった。共に授業を受けた日々、告白したあの日、デートをした日々、逃げ出したあの日、一つ屋根の下で暮らした日々。
話の終わりに
僕は
僕は気づいていなかった。
「私は————」
その日はいつもの様に空が曇りで、
僕が起きて早々、
僕は断る理由もなかったので海に行くことにした。やる気が失せる前に準備をし、家を出発した。電車に乗って行くことにした。
海まで二時間。この時間は短いものではなかった。今までの
電車には僕達しか居なかった。こんな時間に海へ行くのは僕達だけだった。普通の人なら平日は仕事や学校があり、海に行こうだなんて考えないだろう。僕達は常に逆行していた。
僕は人と関わることをしなかったし、
『広がる人型アンドロイドの量産化。人間生活の明日は
僕はそのニュースを見て、人間の存在意義について考えた。僕達は社会貢献をしていない。僕達は社会貢献をするアンドロイドよりも下の存在であった。画一的なアンドロイドの方が優れているならば、僕達の持つ個性第一主義の思想は間違っているのではないかと思った。僕達は感情を持つべきでなかったとも思ったし、僕は父に従って生きていた方がよかったのではないかとも思った。
それでは
『次は七里ヶ浜、七里ヶ浜』
その瞬間、僕は現実に引き戻された。僕は
海に着いたのは午後九時だった。出発が遅かったから当然と言えば当然であるが、昔映像で見た日光を乱反射する海面を見ることは出来なかった。
僕達は浜辺を歩いた。言葉を交わすことなく。手を繋ぐこともなく。
側から見ればただの奇行であったかもしれない。しかし、もうどうだって良かった。僕達を邪魔するものは何もなかった。ここには僕達だけがあった。車の往来の音も、風の音も、会話の音もなく、月下、波のメトロノームを頼りに、静かなステップを踏んだ。
僕達は浜辺から少し離れた漁港のようなところに来た。実際、そこは立ち入り禁止区域だっただろう。しかし、僕達は入った。見られているかもしれない。捕まるかもしれない。僕達はそのようなことを何も考えなかった。僕達は子供のように探検した。それはまるで失った月日を追うようだった。
漁港の外には船着場があった。僕達はそのコンクリートで舗装された道を歩いた。
心地よい陸風に背中を押され、僕達は前へ前へ進んだ。最も、この先は行き止まりだ。来た道を戻ることでしか帰ることが出来ない。昔の僕だったら、その行為は無意味であると決めつけ、絶対にしなかっただろう。しかし、僕は変わった。彼女が僕を変えた。
僕は
僕は昔の
ふと気になった。もし昔の僕が、昔の
そんな考え事をしながら船着場の先端まで来たその時だった。強い風が吹き、
僕は
その時見た
僕達は海面に接した。ノースプラッシュなんて格好いいものでもなく、大きく水飛沫を立て、そして沈んでいった。
青が広がる。レイリー散乱が透明な海に垂らした青が、夜の闇が落とした黒が、僕達を海底へ誘った。
それから一分程経って、僕達は海面に出た。
すると、
僕も笑った。
五分くらい抱き合った後、僕は浜辺に戻ることを提案した。
僕達は浜辺で朝日を待った。終電は僕達を待ってくれなかった。僕達はいつものように横に並び、いつものようにもたれていた。
これが僕と
ある日のことだった。
僕が起きてから長い時間が経っても、
僕は
朝食を済ませ、布団に帰った。そしてすぐに眠りに落ちた。現実から逃げるのにはそれで十分だった。
翌日も
僕は蚊取り線香に火をつけ、燃えていくその先端を眺めていた。今は夜、僕達が生きるこの六畳間は暗闇と僅か光を放つ蚊取り線香だけがあった。
その翌日、
僕は
僕はこれが無意味であることを知っていた。しかし、それでも続けた。理由は自分でも分からない。もしかしたら諦めたくなかったのかもしれない。神に
しかし現代、人の時代、神は既に死んでいる。有りもしないものを追っているあたり、僕は本当に成長していないんだな、と思った。
僕は
あれから四時間が経った。葬儀屋の霊柩車の音で僕は現実に帰ってきた。運転席にはアンドロイドが居て、人間の代わりに仕事を行なっていた。全ては有限である。人の時代もいつか終わるのかもしれない。そう思った。
僕達の生活範囲である半径百メートルより外は僕達にとっては未開の領域だった。その領域に最後に踏み入れたのは
街並みは変わってしまった。僕達を残して。そして
二時間後、僕達は葬儀場に着いた。ここの葬儀場は手続きが簡単に出来ることが売りで、僕達のような
葬儀場は既に飾り付けられていた。僕は辺りを見渡した。当たり前だったが、参列者は僕一人だった。
遺影には笑顔の
その笑顔は僕の心に深い傷をつけていった。
結局、僕は本当の
思考も葬式も、一度始まったものは止まることを知らず、僕のことを見向きもせず置いていった。スピーカーから流れる木魚と
僕は焼香のことを思い出した。立ち上がり、遺影の前に立つ。焼香のやり方はなんとなく知っていた。昔、父と行った葬式で知ったのだろう。あれは誰の葬式だったのだろうか。今となっては分からなかった。
焼香が終わり、僕は遺影をもう一度見た。知らない顔は、変わらずそこにあった。
僕は席に戻り、残りの
しかし、
そして僕は理解した。僕は
僕は席を立って走り出し、今の
気がつけば葬儀は終わっていた。AIが考えた説話を聞き流し、僕達は火葬場へ向かった。火葬場にも人は存在せず、そこに居たのはやはりアンドロイドだけだった。
僕は
便箋はアンドロイドが持ってきてくれた。僕は手紙に今の心情と
その後、火葬炉の裏にある職員しか入れないところに行った。そこからは火に包まれる
最愛の人が焼かれているのにも拘らず、僕の心には一切の
火葬は人生最後の輝きであったはずだが、別に美しくも神々しくもなかった。ただ人間の醜さがそこにあった。聖女と持て
火葬が終わり、台の上に
その行為に対して、僕は一切の
僕達は葬儀場から出て、家へ向かった。夜も更け、外には僕達以外誰も居なかった。僕は
帰る途中、僕達は思い出話をした。初めて会った日のこと、共に委員会活動をしたこと、大学で再会したこと、二人で逃げ出したこと、そして海に行ったこと。今までの全てを話した。それが終わるとこれからの話をした。今までの僕達は不幸でいっぱいだったけど、出会ってからは幸せでいっぱいだよ、と
その後、僕は海に引っ越そうとも言った。何処か遠い、海沿いの白い家で一生を過ごすんだ。朝は好きな時間に起きて、適当にバゲットを
そんな話をしていたら家に着いた。僕は「ただいま」と言った。返事はなかった。あるはずがなかった。家はいつまでも静かだった。僕以外の人の気配がしなかった。彼女の気配がしなかった。
その時僕は理解した。
僕は何も知らないふりをして、風呂に入り、夕食を済ませた。涙が溢れそうになったが堪えた。僕は複雑な気持ちに蓋をして、無知を演じた。きっとこれは僕が死ぬまで続くだろう。
僕は
そして、今に至った。
これで僕の話は、懺悔は終わった。空はまだ曇っていた。僕に星を見る権利はないようだった。
うっすらとした朝焼けが部屋に入ってくるのが分かった。眩しかった。だから、僕はカーテンを閉め、部屋と外界を遮断した。部屋は暗くなった。
僕は小さくなってしまった
僕は今、退廃的な恋をしている。
退廃的な恋がしたい 氷雨ハレ @hisamehare
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