バニーさん
呼杜音和
第1話
塾の宿題をしようと筆箱を開けたら、消しゴムがなかった。買ったばかりの、コーラの匂いが付いた消しゴムだった。
机の上で鞄を逆さにしたら、ノートや教科書に交じって、小さな女の人が転がり出てきた。
イタタ、とお尻を擦りながら立ち上がると、ちょうどリカちゃん人形くらいの背丈があった。
「あたしのハイヒール、どこかしら?」
んしょっ、とノートを持ち上げ、「一緒に探してくださる?」と私を振り仰ぐ。
私はドギマギしながら頷くと、散らばった本やノートをパラパラと捲った。そうやって探すふりをしながら、女の人を見ていた。目を離すと消えてしまいそうな気がしたから。
その人は、昔サーカスで見たことのあるバニーさんの格好をしていた。それがとても可愛らしく似合っていて、うさぎの耳は実際に頭から生えているみたいに自然だった。
「あら、あんな所に転がってたわ」
真っすぐ伸びた足ですたすた歩いて、筆箱の陰から親指の爪くらいの大きさの、赤いハイヒールを拾い上げた。
「もう片方はどこかしら?」
それは私の足のすぐ傍に、絨毯の毛に半ば埋もれて落ちていた。
人間界に忘れ物をしたら帰れないという、妖精界のルールをどこかで読んだことがあった。さりげなく足の下に隠しながら、自己紹介した。
「私、なつめといいます。バニーさん、そう呼んでもいいですか?」
妖精の名前はとてもややこしくて、発音が難しいと聞いたことがあった。
「バニーさん?」
首を傾げて思案する姿も、とても優美で愛らしい。
バニーさんが考えている間に、足首を掻くふりをして、靴下の中にハイヒールを押し込んだ。
「ええ、構わないわ。ところでなつめさん、これはとても重要な質問なんだけど。このお家に猫はいるかしら?」
「いいえ。猫は飼っていません」
ヨークシャテリアのペペならいるけど、黙っていた。バニーさんは見るからにほっとした表情で、「よかった」と呟いた。
「それではなつめさん、今日からよろしくね」
「今日から? ということは、私の家に滞在してくれるんですか?」
バニーさんは微笑んで、バレリーナのようにお辞儀した。
「どうぞよろしく」
嬉しさで頭がぼうっとなった。妖精と一緒に暮らせるなんて、なんて素敵なんだろう!
薔薇色の至福に浸っていた私は、大切なことに気付いた。
「バニーさん、喉は乾いていませんか? お腹は? 私、お母さんに何かもらってきます」
お客様には、おもてなしをしないと。バニーさんの「おかまいなく」という声を背中に部屋を出た。
ショートケーキとジュースを載せたお盆を手に部屋に戻ると、バニーさんは机の本棚にちょこんと腰かけて待っていた。
階段を上ってくる間、やっぱり夢だったかも知れないと考えていたので、とても嬉しかった。
「素敵なお部屋ね。なつめさんのお家はお金持ちなの?」
「パパは一応、会社の社長さんです」
謙遜してみせたけど、誇らしかった。パパは大きな貿易会社を経営している。
「どうぞ召し上がれ」
バニーさんはひらりと本棚から飛び降りると、ケーキのイチゴを両手で抱え上げた。むしゃむしゃと半分くらい食べて、小さなげっぷをした。虫のおならくらいのげっぷだった。
「なつめさんは読書家なのね」
うんと背中を逸らし、本棚を見上げて言った。
「パパが外国に行くたびに、勝手に買ってくるんです。でもこの本は一番のお気に入りです」
大判の写真集を、腕に力を込めて取り出した。
「英語は読めないけど、外国の写真がきれいだから」
アルプスの山々やオーロラの写真を見せてあげると、バニーさんは感嘆の声を上げた。
「この方、なつめさんのお母さん? とても優しそうな人ね」
机に飾ってあるママの写真を見て褒めてくれる。
「なつめさんのお家に来られてよかったわ」
輝く瞳でそう言われ、私は有頂天になった。
「いつまででもいてくださいね。私、パパにお願いしてドールハウスを買ってもらいます。バニーさんが心地よく暮らせるように、なんでもしますから」
妖精に優しくすれば、願い事を叶えてもらえるのだ。
「ありがとう。前のお家には、もう帰れないから」
バニーさんが形の良い眉を寄せて、寂しそうに俯いた。
「どうしてですか?」
「以前は男の子のお家にいたの。とてもいい子だったのに、中学生になると、私を見る目つきがだんだん嫌らしくなってきて。あら、ごめんなさい。小さなお嬢さんに聞かせる話じゃなかったわ」
バニーさんに同情しながらも、少しムッとした。私は、もう小さくはないから。
「なつめさん、お願いがあるの」
「なんですか?」
顔を近づけて聞くと、バニーさんはオーロラの写真の上にきちんと正座して、両手を合わせた。
「私を元の姿に戻して欲しいの」
「元の姿、ですか?」
「そう。私は悪いマジシャンのせいで、こんな姿に変えられてしまったの。それは酷い男で、鳩に変えられた友達だっているのよ」
悪いマジシャンって、魔法使いのことだろうか?
「なつめさんは賢そうだし、勇気もありそう。あなたなら、きっと悪いマジシャンを見つけ出して、私を元の人間の姿に戻せるわ」
「え?」
よく見ると、バニーさんの口元にはうっすらとほうれい線が浮かび上がっていた。
「バニーさんは、妖精じゃないんですか?」
私の言葉に、バニーさんは気を悪くしたようだった。ツンと顎を上げて言った。
「こんなに小さいけれど、私はれっきとした人間よ」
「なんだ、私はてっきり…」
妖精でないなら、もうバニーさんに用はなかった。おまけに面倒なお願いまでされてどうしようと思った時、急に部屋のドアが開いた。
ドキッとした拍子に、パタンと固い表紙を閉じた。
「お母さん! 部屋に入るときはノックしてって言ってるでしょ!」
「ごめんなさい。ご飯ができたから、冷めないうちに降りてくるのよ」
足音が遠のくと、小声で「バニーさん?」と呼んでみたけど返事はなかった。
さっき本を閉じたとき、グチュッと汁気のあるものを潰した手応えがあった。
恐る恐る本を開くと、ページの間に一匹のテントウムシがぺたんこになって挟まっていて、その小さな体積からは想像もできないほど大きく、真っ赤なシミが広がっていた。
「あーあ、お気に入りだったのに」
写真集をゴミ箱に放り込んで思った。
妖精だったら、お母さんを消してとお願いするつもりだったのに。
ママが死んでから、パパの秘書だったあの人が新しいお母さんになった。きっと財産目当てに違いない。
もしかしたらバニーさんを小さくしたマジシャンなら、お母さんを消せたかもしれない。
もっと詳しく話を聞いておけばよかったと思ったときには、全て後の祭りだった。
おわり
バニーさん 呼杜音和 @KY7089
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