エピローグ

瑞木由花 20歳 夏2

 あれから、二年が経ったのか。胸を走る、ほんの僅かな感慨と、痺れるような苦み。


 海浜幕張駅へ向かう電車に揺られ、窓の外を眺めていると、昔のことばかり思い出す。景色は眼球の上を滑るばかりで、心は未だに迷いを見つめている。


 あのあとおねーちゃんは、おねーちゃんらしい、最高の歌を歌い続け、二時間ものライブを完走した。けど、ライブを台無しにされた観客からのクレームにより、チケット代の払い戻しが行われたようだ。


 また、それ以降のライブツアーもすべて中止になった。おねーちゃんの体の欠損が世間にバレたため、治っていたとはいえ大事を取ることになったのだ。それでも、世間はライブの中止はわたしの責任だと考え、それはまったく間違いではなかった。事務所側はわたしの両親に賠償金の請求も考えたらしいけど、おねーちゃんとの関係を壊さないために諦めたらしい。おねーちゃんは、休養とほとぼりを冷ますため二か月ほど活動を休止し、復帰した。


 わたしは当然、社会から叩かれた。わたしの発言がニュースになり、自称知識人や芸能人がわたしについて知ったような口をきいた。様々な精神病院や精神科に連れていかれ、最後は必ず病名を付ける精神科医たちに、いかにわたしの頭がおかしいかを懇切丁寧に思い知らされた。


 家は特定され、見ず知らずのやつらに嫌がらせをされるようになった。おねーちゃんへの愛は悪霊のせいだとかいう宗教の勧誘がきたり、謎の壺を売ろうとしてくるやつらまでいた。


 住んでいられなくて、家族三人で引っ越した。粘着質なファンに追いかけられて、計三回。名字も変えた。今では瑞木姓はおねーちゃんだけ。当然学校なんか通えず自主退学した。



 わたしは、耐えた。わたしの愛を治すためって精神科医から処方された、感情が薄くなる薬を飲んで、頭がぼうっとする中勉強を頑張った。深夜お父さんたちが、どこで育て方を間違ったのか話し合っているのを見た。平気なつもりでいたのに、食べ物を飲み込めなくなって、一カ月で体重が十キロ落ちた。どこを見てもわたしの傍に理解者はいなかったし、世間はもっと無慈悲だった。今でも情報サイトを見れば、わたしの近況を探す書き込みが更新されている。


 誰もが堂々と殴ることができるサンドバッグ。それがわたしだった。


 それでも、わたしは耐えた。おねーちゃんがSNSの公式アカウントで、たった一度だけわたしに言及してくれたから。


「どんな想いを抱えていても、あの子はワタシの大切な妹です」


 それすらなければ、わたしは自殺していただろう。


 二カ月後、おねーちゃんは活動を再開すると、多少のごたつきもあったらしいけど、むしろ被害者として社会から受け入れられた。歌手としての活動も順調で、最近ではハリウッド映画のテーマソングを担当したみたい。まだ偏見の目や希望の押しつけはあるみたいだけど、どんな時でも自分のために歌っているようだ。他人のために歌う時でも、強いられてやることは絶対にない。歌を聞けば、それが伝わってくる。


 わたしはなんとか高卒認定試験で高卒資格を得た。両親に大学にだけは通わせてやると言われたけど、そんなボロボロの状態じゃ受験勉強が捗るわけがない。それでも二人への後ろめたさから根性で頑張り、一年浪人して合格した。


 わたしは今、自分の心を知るため、山口大学で心理学を学んでいる。そこで、世の中には様々な人がいることを知った。少女性愛に死体性愛、動物性愛なんて序の口で、水の吹き出し方に性的興奮を覚える人や、エッフェル塔と結婚した人までいた。それらは性的志向ではなく性的嗜好の一つとされ、つまり同性愛者や多性愛者、無性愛者とは別のものとして扱われていた。あの夏までのわたしなら、理解できないと一刀両断しただろうそれらの性的嗜好は、今やわたしと切っても切り離せない関係だった。だって、わたし自身がそうなのだから。


 わたしは教授の勧めで、教授に紹介された特殊な性的嗜好の持ち主が集まるチャットグループの一つに所属し、彼らがどのようにして社会とかかわっているのか学んでいる。そこでわたしは、自分なりの生き方を探している。


 わたしの前で、五歳くらいの姉妹が身を寄せ合って居眠りしている。お母さんが、二人の頬にかかった髪をそっと払う。


 ネイルは希望していた通り、東京の大学で社会学を学んでいる。高校の頃の知り合いで連絡を取り続けているのはネイルだけ。わたしは大学ではできるだけひっそりと生きていて、数人の友だちもできたけど、わたしが瑞木由花であると告げた相手は一人もいない。だから、親友と呼べるのは彼女だけ。


 ……ああでも、知り合いといえば、コーチからは時折近況報告が来る。この前は愛莉ちゃんの誕生日にディズニーに行ったって写真が送られてきた。大学を卒業した後、プロとしてではなくともまたボクシングをやってみたらどうだ、と誘ってもらえてもいる。あれだけ厳しく叱ってきたくせに、反省しているならいいんじゃないか、ってさ。


 まったく、優しいんだか、甘いんだか。でも、その言葉に救われる。


 キヨにいの動向は、さっぱりわからない。おねーちゃんの公式アカウントでは、結婚報告や恋人の存在が発表されたことはない。どちらにしろ、わたしが知るすべはない。元気でいてくれたらいいな、とは思う。


 おねーちゃんとは、ずっと音信不通。お父さんたちに連絡をしてはダメだと命じられたし、おねーちゃんも多分同じことを言われたんだと思う。どちらにしろ、おねーちゃんはメアドやプライベート用のSNSのアカウントを変えたらしいから、連絡しようとしてもできなかった。


 ライブも何度かあったけど、行かなかった。おねーちゃんのためとはいえ、ライブツアーを滅茶苦茶にしたわたしは、ライブのために頑張った人たちに合わせる顔がなかったから。そもそもお父さんたちから禁止されていたし、粘着質なファンが入り口で見張っていたらしいから、行っても参加することはできなかっただろう。


 今にして思えば、他に方法があったはずなのに、どうしてあんなことをしたのだろうかと疑問に思う。でも、あの時はあれしか考えられなかったから、無意味な問いなんだろう。


 今なら、絶対にできないことだ。無敵だったわたしはもういない。社会は予想していたよりずっと強大で、複雑で、残酷で、卑怯だった。そしてなにより、わたしは無力だった。


 それでも。


 それでもわたしは、あの感情は愛だと信じている。


 だって、わたしがそう信じているから。


 二年。わたしはあまりに変わり果ててしまったけど。


 あの熱は変わらないまま、心の底を焦がし続け、切ない痛みを生んでいる。

 





 わたしの迷いなんてお構いなしに、列車は海浜幕張駅に到着する。


 来てしまった。


 五周年記念ライブは地元で、わたしやお父さんたちのために開催してほしい。そんな口約束を信じて、高速バスと電車を乗り継ぎ、山口県から千葉県まで。


 バカなんじゃないかと思う。会場が幕張メッセなのは、わたしとの約束を守る為じゃなくて、たまたまかもしれない。五周年記念ライブは地元でなんて、誰でも考え付くことだから。


 それでも、万が一覚えていてくれた結果なら、わたしがいないとダメだと思ったから。お父さんたちにすら内緒で、ここまで来た。


 たとえどちらの結果だろうと、一目見たら、帰ろうと決めて。


 変装用のための帽子を目深にかぶり、マスクをして、速足で入場口を通過する。わたしの席は会場の後ろの方。人気のない低ランクの席を狙い撃ちして勝ち取った席。チケットを握り締め、パイプ椅子に腰を下ろす。


 開始まであと五分くらい。どこにでもいる女子大生のわたしは、グッズを身に着けたファンの中では逆に浮いている。


「お久しぶりですね」


 肩が震える。知り合いはいないはずなのに。こわごわ顔を上げる。


「……早桜さん」

「はい。取り合えず、会場の外へ」


 そんな。まだ、始まってすらいないのに。


「……あの、」


 情けないくらい、声が震える。


「一目見たら、帰ります。迷惑なんてかけません。だから、ここにいちゃダメですか?」

「いや、信用できませんが」

「そんな、本当で……!!」


 呆れた様子の早桜さんを見て、言葉が続かなくなる。そうだよね。信じてもらえるはずがない。


「目立ってますよ。始まるまで時間がありません。早く」


 気づけば、周囲の視線がわたしたちに集まっている。ライブTシャツを着たファンの中、スーツ姿の早桜さんは目立つからだ。落胆が心を蝕み動けなくなる前に、体を引きずるようにして会場の外へ。空は雲一つない快晴で、わたしはこの場にあまりに相応しくなかった。


 帰ろうとすると、早桜さんに呼び止められる。なに、まだわたしを責め足りませんか。ならどうぞご自由に。あの日以降もおねーちゃんを支え続けたあなたの言葉なら、わたしをたっぷりと傷つけられるでしょう。


「これを」


 なのに、胸に押し付けられたものは暴言ではなかった。


「関係者席のチケットです。エリカから預かりました。……さすがにこれを、他のファンの前で渡すわけにはいきませんから」

「……え?」

「それと、エリカから伝言です。『地元でのライブは初めてだから。不安だから、近くで見ていて』と」


 ……ああ。


 覚えていて、くれたんだ。


 それだけじゃない、こんな、わたしのために、チケットまで。


 足の力が抜ける。地面に膝をついて、両手で顔を覆う。涙と嗚咽が、まとめて溢れて止まらない。


 許された。そんな気がした。何を? わからない。わからない、けど。


 わたしは、おねーちゃんを愛している。


 この想いは今も変わらなくて、きっと死ぬまでこのままで、わたしは一生、おねーちゃん以外を愛せないんだろう。そんなの、何一つ許されるべきじゃない。なのに、こんなにも救われた気持ちになるのは、一体どうして? 


「わたくしも、一応あなたには感謝しているのです。あの時、あなたがあそこにいなければ、きっとエリカは今、ステージの上に立っていなかったでしょうから。いくら本人が隠していたとはいえ、エリカの体にあれほどの異常が起きていると知らなかったなんて、マネージャー失格ですよ。あなたの後始末は本当に大変でしたが、エリカの命と比べたら安いものです」


 早桜さんが、わたしの肩にそっと手を置き、優しく声をかけてくれる。けどごめんなさい、頭の中を素通りして、なんて言われてるのかわかんない。何を喜べばいいのかもわからないまま、胸の内から溢れる歓喜が、わたしを自由にしてくれないんだ。


「ほら、もう時間がありません。早く席へ」


 返事をしたつもりが、唸り声しか出なかった。涙をぬぐう。心の整理もできないまま、メイクもぐちゃぐちゃになったまま、走る。関係者席の中で、ステージ中央に一番近い席がぽつんと空いている。おねーちゃんが、わたしに与えてくれた居場所。


 席に着く。


 頭の中はぐちゃぐちゃなのに、浮かぶ思いはただ一つ。


 おねーちゃんに、会いたくてたまらない。


 長すぎる一秒をいくつも重ね、待ち続ける。なんて苦行。でもこれくらい、おねーちゃんのためなら耐えられる。




 開演のアナウンスが入り。


 演奏が流れだし。


 煌びやかなライト共に。


 おねーちゃんが現れて。




 真っ先にわたしを見て、弾けるような笑顔を浮かべてくれたから。


 わたしは。


 あなたを愛してよかったと、心の底からそう思って。


 ダメだってわかってるのに、切なさと、苦しさと、愛と、愛と、愛と、愛が、溢れて止まらなくなって。


 視界が滲んで。




 わたしの涙が、愛する人を閉じ込めた。

                          

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おねーちゃんが好き ヤケ酒あずき @Renta0828

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