瑞木由花 18歳 秋14
伸ばした手の先で、おねーちゃんが悶え始めた。両手で体を抱いて、肩を掻きむしる。
「……え、ちょ、おねーちゃん大丈夫!?」
「あ、あああ、あ、」
近づこうとした途端、服の両袖がポロリと外れた。ボタンを外したように見えたから、元からそういう作りだったみたい。頭にかかったフードとヴェールをむしり取ると、ふわりと綺麗な黒髪が広がり、苦悶の表情が現れる。胸とお腹の辺りの布に触れると、重ね着していた重厚そうな布が外れ、半袖で膝丈ほどのワンピースに変わる。
そして、露わになる。右耳のない顔。性別が一致しない両足、ドレス越しでも凹んで見える右胸、指が欠けた手のひら。おねーちゃんがファンに隠し続けて来たもの。
予想外のことが起こりすぎたからか、観客は棒立ちで見ているだけだ。わたしが駆け寄ろうとすると、おねーちゃんの体がブルリと震えた。
「え」
思わず目を見張り、立ち尽くしてしまう。
おねーちゃんの体のいたるところが、泡立つみたいに膨れ縮みを繰り返す。と、水しぶきが飛び散るように、おねーちゃんの皮膚が弾けだした。スポットライトを浴びて小さな宝石のように輝くそれらは、地面に触れると更に弾け、粒子となってステージを彩る霞に変わる。飛び散った皮膚の下は、つるりとした白い肌。脱ぎ捨てたドレスもあいまって、まるで羽化か脱皮のよう。わたしはなにが起きてるのかわからなくて、おろおろすることしかできない。
多分、二十秒もなかったと思う。それが終わると、おねーちゃんはゆっくり体を起こした。
蒼いワンピース姿のおねーちゃんは、男でも女でもない中性的な姿だった。ほっそりした体つきなのに頼りなさはなく、どんなドレスもおこがましいほどに綺麗だ。メイクが取れた顔はあまりに人間離れしていて、神様みたいに美しい。頭を振り、体をはたくと、残った粒子がキラキラ輝いて散っていった。
そしてなにより、手も足も指も耳も何一つ欠けていない。
「由花。ありがとう」
おねーちゃんがわたしを見る。体がビクリを振るえた。優しい笑顔。高鳴る心臓。答えを知るのが怖くて、でも期待を消し去ることはできなくて。
「ごめんね。ワタシは由花の気持ちに応えてあげられない」
……あ。
ああ。
わたし、ちゃんと、立ててるよね。
笑わなきゃ。なのに、体が動かない。
あれ、なんだろう、おかしな空気。観客席のファンがほっとしてる。やっぱりエリカは自分たちのエリカだって、高潔で清純で理想的で慈悲深いみんなのエリカなんだって。違うよ。そうじゃない。まだわからないの? ダメ。押し付けないで。みんな、ちゃんと見てよ。おねーちゃんを見てあげてよ!!
……全部ダメだったの? 何もかも失敗だったの?
ごめん、ごめんね、おねーちゃん。
――歌声が、そこにある全てをねじ伏せた。
たった一声。たった一節。それだけで、空気が変わる。
ああ、わたしは知っている。この曲は“ヴィラン”。エリカの始まりの歌。
おねーちゃんが歌う。それは今までの、誰かに寄り添う歌声じゃない。あのクローゼットの中で初めて聞いた時のような、自分はここにいるんだ、わたしを見ろ、お前らのせいで苦しむわたしを見ろと叫ぶ歌。聞き手への配慮なんて欠片もない。声で殴って力づくでねじ伏せ、屈服させ、縛り付け、聞かせる歌。だからこそ生み出される、目も離せない強烈な引力。おねーちゃんの心が歌に接続して生まれる魔性の魅力。
なんて圧倒。なんて凶暴。なんて超絶。此の世のものとは思えない。それは例えるなら大いなるものの一撃。ああそうだ、おねーちゃんは心の中に化け物を飼っていた。小さな人間が集ったところで、相手になんかならないんだ。
観客は呆然としている。当然だよね、お前らの信じる聖人みたいなおねーちゃんは、こんな歌は歌わない。
蹂躙していく。化け物は久しぶりの獲物に嬉々として襲い掛かっていく。歌が、三千人の観客、数万、数十万のファン、この世界中の人々が生み出したおねーちゃんへの幻想を、粉々に打ち砕いていく。
思い出したように、バンドの人たちが演奏を始める。昨日のセトリには無かった歌だけど、知ってたみたいに合わせてくる。おねーちゃんの歌が磨き抜かれた刃のように輝きを増す。
一曲目が終わると、おねーちゃんは間髪入れずに次に移った。ああ、これはサードシングルだ。
おねーちゃんは観客に訴えてる。歌う楽しさに身を浸し、これもワタシだって見せつけてる。体を自由に動かして、どこまでも、元気いっぱいに。
そっか。おねーちゃんの体が元に戻ったのは、おねーちゃんが自分らしく生きるって決めたからだ。ネイルの言っていた病気は、自分の体をただの道具として認識してしまい、精神が肉体と乖離して起こるもの。そして、自分らしく生きることは、自分を受け入れること。おねーちゃんは自分の本当の気持ちを受け入れ、社会の操り人形として振る舞うことを止めた。だから、 心身の乖離がなくなって、体が元に戻ったんだ。
不意に、わたしは肩を掴まれた。キヨにいだ。早桜さんもいる。ステージの袖に連れていかれる。抵抗はしなかった。ここでわたしがやるべきことは、もう何もなかったから。
舞台袖に入り、おねーちゃんの姿が見えなくなった途端、膝から崩れ落ちた。早桜さんがわたしに何かを言っている。けど、耳に入らない。
「……う、ああ、あああ」
だって、フラれたから。
痛いな。悲しいなあ。心がバラバラに砕けちゃったみたい。溢れ続ける愛しさが、全部痛みに変わって帰ってくる。もはや激痛。涙が出る。ああ、これが失恋なんだ。
でも、本当はわかってたんだ。わたしは必ずフラれるって。それでも止まれなかった。愛がわたしを無敵にしてくれたから。
「あ、ああ、あははは」
でも、後悔はしていない。
だって、わたしは勝ったんだ。おねーちゃんは、わたしの想いに応えてくれなかった。けど、選んでくれたのは、わたしだった。
わたしは七十億人に勝ったんだ。本当のおねーちゃんを、おねーちゃんの自分らしさを、取り戻したんだ。
それが嬉しくて、けど、それじゃどうにもならないくらい悲しくて。
悲しいよ。悲しいよお……っ。
ステージで鳴り響く演奏と、おねーちゃんの歌声が。わたしの泣き声を優しくかき消してくれた。
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