嘘つき
放課後の空はとても暗い色をしていた。見渡す限りに黒い雲が敷き詰められていて、私はそこはかとない不安を感じながら教室を出る。
「いーのりっ!」
「わ、美嘉ちゃん? どうしたの?」
「今日は部活休みでしょ? だから一緒に帰ろ」
突然の申し出に目を丸くする私。
美嘉ちゃんのお家はこの学校でも特に裕福だから、いつもは使用人さんが車で迎えにくる。だから一緒に帰るというのは、なんと今日が初めてだった。
「今日は使用人さんは? いないの?」
「いないとかじゃないけど、今日は断っちゃった。さっきメールを送ったんだ。車で送迎してくれると楽ではあるんだけど、楽しくはないってさ」
「まあ……確かにそうかも。やっぱりみんなと帰った方がずっと楽しいよね」
「そうそう。でも過保護な家だからさ、お父様とお母様をあまり心配させるわけにはいかないし」
やれやれと、美嘉ちゃんは肩を
「でも今日は断ったんだよね?」
「車での送迎は、ね。本当に困っちゃうよ。いくら私のことが心配っていったって、この程度でボディーガードを寄越してくる必要性は全然ないのに」
「え?」
校舎を出ると、美嘉ちゃんが前方を指差す。
目を細めて見ると、校門の外には2人の男性。両者とも筋骨隆々とした出立ちで、美嘉ちゃんが校門を出ると同時にぴしっと礼をした。それに片手で答える美嘉ちゃん。
「えっと……」
「あははは! そりゃ戸惑うよね。いくらなんでもこれはないっていうか、たった20分くらいの帰路なんだからボディーガードつけなくってもいいのに」
「ご当主様からのご命令ですので」
もう一度、やれやれと肩を竦める美嘉ちゃん。
私は軽く会釈だけしておく。
「ところで祈乃莉さ、せっかくだし寄り道してかない? 家に1人でいても退屈で退屈で、だから双葉先輩との恋バナ聞かせて欲しいな〜なんて」
「……え?」
違和感。
「だめだった? やっぱり、部活続いてたからお疲れかな。それなら全然無理しなくても」
「う、ううんそんなことないよ。むしろ嬉しい」
「ほんと?! 無理はしてないんだよね?」
「してないしてない。でもご迷惑にならないかな? 前と違って、今日は突然お家に押しかけるみたいになっちゃうわけだし……」
違和感。
「全然気にすることないよ。今日は部活ないんだし、たまにはゆったりしなきゃ」
気持ちの悪い感覚に、私は襲われる。
とてつもない違和感。
美嘉ちゃんの言葉が頭の中でぐるんぐるんと回り続ける。なんの変哲もないはずの会話。単なる遊びの誘い。それ以上の意味を持たないはずなのに、言葉ひとつひとつがすっと頭に入ってこない。
「……どうしたの? 祈乃莉気分悪い?」
「い、や……あはは、全然大丈夫だよ。ちょっとぼーっとしてただけ。もしかしたら疲れてるのかも」
「じゃあ、早くお家に帰って寝なきゃだね」
ぼーっとする私を見る、心配そうな眼差し。
それから立ち尽くす私を覗き込むかのように、美嘉ちゃんの整った顔が近づけられる。額と額が触れそうな距離。シャンプーの甘い香りに、私の意識は浮上する。そして気付いた。気付いてしまった。
同時に、気持ちの悪い感覚だけがふっと消える。
―――今日はあの日だ。
数日前、突如として突きつけられた悪夢。
それは全てが精彩だったわけじゃない。物語の途中から最後までがやけに鮮明で、けれど、その前の場面は明らかじゃなかった。
でも覚えていることがある。
ひとつ、部活がたまたま休みであったこと。
ひとつ、寄り道をしようとしていたこと。
ひとつ、友達と一緒にいたこと。
ひとつ、あれは大災厄の予兆であったこと。
夢が今起きてる事象によって補完される。そして取り戻される精彩さ。私はあの夢の全てを知覚する。
最後に、スマホの緊急アラートが作動すること。
「っ……?!」
無慈悲な音が、周囲に響いた。
それは空気を
「き、緊急アラート?!」
美嘉ちゃんがスマホを見て顔を青ざめる。
ボディーガードの男の人たちも眉を顰め、私は腰が砕けたかのように地面にへたり込む。目の前が真っ暗になる感覚。どこが正面か、どこが後ろか、下か上か分からなくなる。途端に薄れるリアリティ。
けれど私を抜きに、周囲は敏感に反応する。
「お嬢様! ひとまず玉響学園のシェルターに入りましょう。学園内の教師も今の緊急アラートで動き始めているはずです。大丈夫です、ここは安全ですよ」
「あ、ああ……そうだよね。大丈夫だよね」
「ええ、いざとなれば私どもがお守りいたします」
ひとつ、深呼吸をする美嘉ちゃん。
「聞いて祈乃莉。大災厄が起こった場所からここまで、まだ1km近くある。だから立って、今すぐ逃げよう……? ……祈乃莉?」
「無理、だよ……」
「無理じゃないよ! ほら、シェルターだってすぐそこだから! それに授業で習ったよね。ここ神奈川県は安全だって。だから心配する必要ないよ」
「……なんだっ、て…………」
「え? 今なんて言ったの?」
私はばっと視線を上げた。
私を案ずる、美嘉ちゃんの表情。それはとどめなく溢れる涙とともに滲み、見えなくなってしまう。
「……だめなの! そういう問題じゃないの!」
「お、落ち着いて祈乃莉。どういうこと? そういう問題じゃないって、どういう問題なの?」
「だって、お父さんとお母さんが―――!」
私がそう言うと、すぐには返事がなかった。
ヒュンッと、無防備な体に冷風が吹き付けられ、私は寒気を感じて全身を震わせる。それが寒さによるものか、それとも恐怖によるものか私には分からない。
「ねえ……。まさか、祈乃莉のお家って、今大災厄が起きてる地区にあるってこと……?」
美嘉ちゃんの声が震えていた。
「そう……、そうだよ! だからだめなの!」
「っ、そうだとしても、まずは自分の身を守らないといけないよ! お父さんとお母さんだってきっと無事だよ! だからっ、だから……!」
早くシェルターに逃げようと美嘉ちゃんは言う。
でも……ああ、だめだ。
私はこの続きを知ってる。どういう理屈か分からないけど、私のお父さんとお母さんが実は信者で、死んじゃうことを私は夢を介して知っている。
「い、いよ……美嘉ちゃんは先に逃げてて」
「は? なに言ってるの?!」
「私はお家に帰らなきゃいけないの! お父さんとお母さんに、会って話さなきゃいけないの!」
「だからお父さんとお母さんはきっと無事だよ!」
「……私は、そんな楽観的じゃだめなの!」
いつのまにか体の震えは収まっていた。
怖くない、なんてことはない。むしろ怖い。どうして立っていられるのか分からないぐらい、心は恐怖に囚われている。頭がおかしくなりそうだ。
あの夢が現実になるだなんて、認めたくない。
けど現実逃避はしたくない。
そんな相反する気持ちが、私を鼓舞し立ち上がらせる。今の今まで起こったことは現実だ。でもあの夢の内容は、決して現実になんかさせてやらない。
私は涙を拭い、唇を噛み締め、正面を見据える。
美嘉ちゃんが泣きそうな顔で私を見ていた。
「……先に逃げてて。私は、一旦お家に戻るから」
美嘉ちゃんはその端正な顔をさらに歪め、それから大きく、何度も何度もかぶりを振る。
「危ないよ……。そんなの、だめだよ……」
「心配してくれてありがとう。でも大丈夫。私は無事に戻ってくるから、だから信じて待ってて」
一刻も早く、私はお家に戻らないといけない。
だから私は美嘉ちゃんの返事を待たずして体の向きを変え、そんな私の正面にボディーガードの男の人が立ち塞がる。私は、これまで力無く体の横に垂らしていた手を強く握りしめる。
「―――どいてください」
そのお願いを聞いてくれるかは分からない。
けれど私には、私のお願いは通じるという予感めいたものがあった。全身に力がみなぎる。一歩、前に踏み込むとボディーガードの2人はすぐに道を開けた。不自然なほど簡単に、私のお願いは聞き入れられる。
「美嘉ちゃんも私を信じて欲しい」
「……うん、分かった。わたし待ってるからね」
「ありがとう。じゃあ、行ってくるね」
美嘉ちゃんは小さく頷いた。
それから私は、お家まで続くコンクリートの道路上を
その間、私は昨日のことを思い出していた。
それは双葉先輩とファミレスに寄ったときのこと。
私が夢の内容を相談したのに対して、双葉先輩が発した慰め。
『祈乃莉が見たのは単なる夢だ』
「……嘘つき」
双葉先輩は大嘘つきだ。
私は初めて、心の中で先輩のことを詰った。
アンチクロックワイズ ののかのの @nonoka-nono
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