姉ちゃんとのある日常⑥(姉視点③) 完

 

 夢を見ていた。私が悲しくて一人で泣いていると、ユウタが私の隣に座って一緒に泣いてくれる夢。悲しいのに幸せだった。ずっとこんな日が続けばいいのに、と泣きながら私は思った。それなのにけたたましい音が鳴って、私の意識は無理やり現実に引き戻されていった。



 目覚まし時計を止める。顎が外れそうなくらい大きなあくびが出た。時刻は午前6時30分。今日は、私は休みだけどユウタはいつも通り学校だ。弁当を作らないと。私はベッドを降りてキッチンに向かった。



 テーブルに置かれた一輪の菊が朝日を反射して光っている。私はそれを見ながら鍋にお湯を沸かしていた。昨日の記憶を探る。どんなに頑張っても、家に帰ってきてからのことが思い出せない。気を失った私をユウタが介抱してくれたんだろうか。そんなことを考えていると鍋が沸騰してきたので、そこにアスパラの束を入れた。

 ユウタが起きて、部屋のドアを開けた。目を擦りながらまっすぐキッチンに近づいてくる。私たちはいつも通り挨拶を交わして、会話を始めた。ユウタと会話するのがすごく久しぶりに感じられた。私はずっとこの時間が待ち遠しかったような気がする。


「あ、アスパラを肉で包んだやつだ」


しばらく会話していると、ユウタが私の作っているものを見て言った。


「この前ユウタがおいしいって言ってたからまた入れようと思って」


「うん。俺、これめっちゃ好き」


ユウタがへへっと少し変な笑い方をする。これはユウタが本当に嬉しいときに出てくる笑い声だ。その嬉しそうな顔を見ていたら、私も嬉しくなってきて、えへへと笑ってしまった。朝のキッチンに平和な嬉しいのスパイラルが出来上がる。ユウタと一緒にいる空間ってなんでこんなに穏やかなんだろう。


「あ、そうだ。今日もゲーム機学校に持っていくけど、大丈夫だよね?」


「別にいいけど……。今日も持っていくの?」


不思議に思い、私は聞いた。最近、ユウタは毎日カバンにゲーム機を入れて登校していた。学校でもゲームをしているということだと思うのだが、わざわざ先生に見つかるリスクを負ってまで昼間にゲームをしたいものだろうか。私にはよくわからなかった。


「最近、昼休みに友達とゲームしてるんだ。すごく楽しいんだよ」


ユウタが少し眠そうに微笑む。


「そ、そっか……」


友達ともゲームしてるんだ。弁当を作る手の動きが鈍くなる。なんだか心がもやもやして、私は俯いた。


「そ、その……」


私がもごもごしていると、あくびをしていたユウタが


「え?」


と言ってこっちを見た。


「……私とゲームするのとどっちが楽しい?」


急な質問に驚いたのかユウタが目を見開いた。


「……姉ちゃんとゲームしてる時が一番楽しいよ」


ユウタが優しい声で言う。全身の力が抜けていくのを感じた。


「そ、そっか」


と私が言うと、


「うん」


とユウタが笑った。



「いってらっしゃい」


と言ってユウタを見送る。


「いってきます」


と言ってユウタが私に手を振って歩き出す。姿が見えなくなるまで手を振って、また家の中に戻った。



 今日は一日自由だ。程よい開放感を感じつつも、ぽっかり空いた空白の時間をどうやって有効活用するか私は迷った。とりあえずテレビをつけてみる。テレビは朝のニュースがまだ続いていた。天気のお姉さんが今日はどこも一日、気持ちよい青空が見えるでしょうと言っているのを見て、私はふと、布団カバーを洗おうと思った。最近は忙しくて布団カバーの洗濯は後回しになっていた。今日だったらそれができる。ついでに布団本体も日向干ししたら、今日はふかふかのベッドで眠ることができるだろう。私はさっそく動き始めた。


 ユウタと私の分の布団カバーを洗濯機に入れて洗濯を開始する。二枚の布団を持ってベランダの窓を開けた。風がふわっと吹いてきて、レースのカーテンがひらひらと揺れた。外はテレビで言っていた通り、心地よい秋晴れだった。物干し竿に二枚分の布団を掛けて、私はまた家の中に入った。

 

 洗濯が終わるまでの間、私は一人でゲームをした。いつもユウタと一緒にやってるイカトゥーンではなく、一人用のRPGをダウンロードストアで買ってみたのだが、それが思いのほか面白くてあっという間に一時間が過ぎてしまった。洗濯終了のブザー音が聞こえてきたので、布団カバーを取り込んで物干し竿に掛ける。一仕事終えると、私は何だか急に眠くなってきてソファに横になった。こうやって、眠い時に眠れるのはとても良いことだなとうつらうつらしながら思った。

 ユウタは今頃何をしているだろう。あのかわいい女の子と楽しく会話でもしているんだろうか。そう思った瞬間、胸が少し切なくなった。けれど、私は今、やりたいゲームがあるし、外が晴れていれば穏やかな気持ちになれるし、お昼寝ができるだけでこんなに幸せになれる。もし万が一また苦しいことが起きても、お酒を飲んで忘れればいい。だから、大丈夫だ。ユウタがいない世界でも私は楽しく生きていける。まどろんでいく意識の中で私はそんな風に納得しながら眠りについた。



 12時30分に目が覚めた。3時間ぐらい寝ただろうか。ベランダに出てみると、布団カバーがもう乾いていて、布団本体も陽射しをたくさん浴びてぽかぽかしていた。どちらも取り込んで、ユウタと私のベッドにそれぞれ敷きなおした。綺麗になったベッドに軽く寝ころんでみる。布団は太陽の匂いが染み込んでいて、私は思わず顔をうずめた。何だかこのままもう一度眠れそうだった。しばらく横になっているとスマホが鳴って、私は起き上がった。電話は知らない番号からだった。


「もしもし、○○高校の××です。ユウタ君のお姉さんですか?」


電話の主はユウタの通っている高校の担任だった。


「はい。そうですが、ユウタが何かしましたか?」


「ユウタさんが昼休み中に体調不良で倒れまして……」


「え!?」


私は頭が真っ白になった。ユウタが倒れた?なんで?どこか悪かったの?今は大丈夫なの?不安がどんどんと押し寄せてきて、パンクしそうだった。


「落ち着いてください。ただの睡眠不足で、ちゃんと休めばまた体調は良くなるだろうとのことです」


「そ、そうですか」


少しだけほっとする。


「あ、あの、すぐそちらに行きます」


「はい。そうしていただけますか」


はい、と言って通話を切ると私はすぐにユウタの高校に向かった。



 校舎に入り、保健室へ向かう。ドアを開くと保健室の先生がいて、私を見るとすぐに立ち上がった。ユウタは白いベッドに眠っていた。彼のそばに駆け寄り、間近で顔を覗く。何だか泣きそうになってしまう。


「ユウタ……」


と小さく声が漏れた。


「呼吸もちゃんとしてますし、今はただ寝ているだけです。体のどこかに異常があるわけではありませんので大丈夫ですよ」


保健室の先生が優しく私に言った。


「ハギワラさんがユウタ君が倒れてるって教えてくれたんです」


保健室の先生が手を差しだした先に、見覚えのある可愛らしい女の子が立っていた。以前、ユウタにキスをしていた子だ。


「あ、ありがとう……ございます」


とりあえず倒れたユウタを見つけてくれたことに私はお礼を言った。彼女は何か観察するような目で私をじろじろ見た後、


「いえ。お礼を言われるほどのことはしてません」


と返してきた。


「今日は早退させようと思っているのですが、そういった形でよろしいですか?」


と先生が聞いてくる。


「はい」


と言うと


「わかりました。それじゃおうちまで車でお送りしますね」


と先生が言った。情けないが、私は車を運転できないのでお言葉に甘えることにした。私は寝ているユウタを運ぶために、そっと抱きかかえようとする。すると、ハギワラさんが慌てた様子で私に近づいてきて、


「だ、大丈夫ですか?私、手伝いますよ」


と言ってユウタに触ろうとした。とっさに、その手を払いのけてしまう。


「あ」


払いのけた後で、声が出た。私今、なんて失礼なことをしたんだろうか。急に手を弾かれた彼女は驚いた顔で私を見ていた。


「ご、ごめんなさい。でも、私一人で持てるから大丈夫です。……あ、ありがとうね」


精いっぱいの笑顔を彼女に向ける。


「い、いえ。私の方こそすいません」


ハギワラさんはなぜか私に頭を下げた。私はぎこちない笑みを浮かべつつも、ユウタを運び出す作業に移った。

 ユウタを抱えて保健室を出ていくとき、ハギワラさんがぼそっと


「幸せ者め」


と言っているのが聞こえた。一体何の話だろうか。不思議な子だな、と私は思った。




 保健室の先生の車に乗せられて、5分もすると私たちのアパートに到着した。先生にお礼を言って、ユウタを抱えて車を出た。玄関のドアを開けて、ユウタの部屋に入り、ベットにユウタを寝かせた。ユウタが思っていた以上に重くて、運ぶのにかなり体力を使った私は、床に座って、ベッドの側に頭を預けて休んだ。


「ふー」


と息を吐く。するとユウタが目を覚まして起き上がった。


「あれ……」


彼は状況が上手くつかめてないのか周りをきょろきょろしている。


「ユウタ、目が覚めたの?」


私がそう聞くと、ユウタがこっちを向いた。私は返事も聞かずに彼に抱きつく。


「私、言ったよね?具合悪いときはちゃんと言えって。なんで黙ってたの?隠さないでよ」


「か、隠してたわけじゃ……」


そこで言葉を止めて、ユウタは私の肩を押した。


「ねえ、そういう姉ちゃんは、俺に何か隠してない?」


「……え?」


ユウタの問いの意味がわからず、私は首を傾げた。でも次の一言でその疑問はすぐに解けた。


「……何で姉ちゃんは、俺にキスしてくれなくなったの?」


私は目を見開いた。ユウタは私にキスされないことを気にしていたということなんだろうか。ずっと私だけが我慢しているんだと思っていた。……でも、ユウタには今好きな人がいるはずで、それなのに私にキスを求めるのはちょっとどうなんだ、とも思ってしまう。ぐるぐると頭の中でいろいろ考えていると、


「俺のせいなの?俺が何かしちゃったの?」


とユウタが思いつめた顔でこちらを見てきた。正解と言えば正解だ。けど、ユウタに好きな人ができたみたいだからキスするのをやめたの、なんて言う度胸はなく、私は言葉に詰まった。


「……俺のこと、嫌いになっちゃった?」


ユウタが目に涙をためて震えた声で聞いてくる。ああ、まずい。と私は思った。このままだとすべてが無駄になってしまう。せっかく、ユウタがいなくなっても大丈夫なように何回も何回も覚悟を決めて、予防線を張ってきたのに。これ以上迫られたら、またユウタから離れられなくなる。また、ユウタがいなくなるのが許せなくなってしまう。


「お、俺、何でもするよ。本当に何でも。嫌いなところがあるなら言ってよ。直すから。姉ちゃんのためならいくらでも自分を変えられるよ。だから嫌いにならないでよ」


ユウタの言葉のせいで、私はついに我慢ができなくなってしまった。ずっとずっとせき止めていた思いが溢れて出ていって、もう止まらなかった。ユウタの手を握って、そのままユウタの唇に自分の唇を押し付ける。


ユウタ。ユウタ。どこにも行かないで。ずっと私のそばにいて。私を置いていかないで。一人は寂しいよ。


息が続くまでキスをした後、私はユウタがいなくならないようにぎゅっと抱きしめた。明日も、明後日も、ユウタは学校であの子と会うんだろうか。私よりあの子の方が大切になった時、私はユウタに捨てられてしまうんだろうか。私にはやっぱりそんなの耐えられる気がしなかった。一度、自分の本当の気持ちを自覚してしまうと、涙が出てきて止まらなくなった。


「ねえ、ユウタ。お願い。もう学校に行かないで」


泣きながら、私はユウタに懇願した。


「え?」


ユウタが戸惑ったように声を出した。


「そ、それはさすがに無理だよ。姉ちゃん」


「そ、そうだよね」


ユウタは当たり前の返答をしただけなのに私はひどく傷ついていた。体を離すと、ユウタは何とも言えない顔でこちらをじっと見つめてきた。


「姉ちゃんは、どうして学校に行ってほしくないの?」


「そ、それは……」


何と答えるか迷った末に、もうどうにでもなれという気持ちで私は洗いざらい話した。


「ユウタが他の女の子と仲良くなって、そのうち彼女とか作るんじゃないかって思うとすごく怖いの」


ユウタが目をぱちくりさせる。


「俺に彼女ができるのが嫌なの?」


「うん。……私やっぱり頭おかしいかも。変なこと言ってごめん」


「ぜ、全然変じゃないよ!」


急に大きな声を出して、ユウタは否定した。


「俺、彼女作らないようにするね」


と言って、今度はユウタが私を抱きしめた。耳元でへへ、と変な笑い方をするのが聞こえた。これはユウタが本当に嬉しいときに出る笑い声だ。


「ねえ、姉ちゃん」


ユウタが耳元で呟く。


「俺、彼女絶対に作らないから、だから、ずっと俺と一緒にいてね」


私もユウタの背中に手を回す。


「うん。ユウタこそ私のそばからいなくならないでね」


約束だよ。約束だからね。と私たちはお互いに言い合って、そのまましばらく抱き合ったままでいた。このまま体の境界がなくなって、一つになれたらいいのに、なんて私は思った。そしたらもう、二度と私たちに別れは訪れないのに、なんて。

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優しい姉ちゃんと二人ぼっち 秋桜空間 @utyusaito

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