姉ちゃんとのある日常⑥(姉視点②)


「……モエノさん。ちょっといい?」


職場で来週のミーティングの資料作りのために残業していると、同期のカネコスズネさんに話しかけられた。


「なんでしょうか?」


椅子を彼女の方へ向けて私は聞いた。


「ごめんなさい。ここだと話しづらいことなの。給湯室までいい?」


カネコさんは少し顔を赤らめてもじもじしている。


「えっと、はい」


少し困惑しつつも私は立ちあがった。



「これ、キタハラ係長に渡してくれない……かな」


給湯室に着くとカネコさんは私に手紙らしきものを見せてきた。花柄の綺麗な便せんだった。ラブレターだろうか。


「……キタハラ係長って私の係のキタハラ係長ですよね?」


「う、うん。私、全然違う課だし、直接渡すチャンスがなくて……。だから、お願い」


カネコさんが両手を合わせて私に頭を下げてくる。


「……」


私は状況がつかめず少し混乱した。というのも、キタハラ係長は既婚者だからだ。


「あの、キタハラ係長って……」


「知ってる。結婚してるよね」


「……」


それ以上は何も言わないことにした。不倫を覚悟している人間に、これ不倫ですよ、なんて言っても私が無駄に嫌われるだけで、状況は何も変わらないだろうから。ただなんとなく、自分の心が荒んだような気がした。

カネコさんは無理やり私に手紙を受け取らせると


「ごめんね。お願いね」


と言って去ってしまった。一人取り残された私はどんよりした気持ちで給湯室を出た。



 資料が完成すると椅子に座ったまま軽く伸びをした。午後7時30分。周りを見るともう私しか残っている人はいなかった。するとその時、職場のドアが開いてキタハラ係長が入ってきた。他の部署との会議がちょうど終わったのだろう。


「あれ、サトウはまだ残ってたのか」


キタハラ係長が私の一つ隣の事務机にノートを置く。


「あ、はい。来週のミーティングの資料を作ってました」


「来週?あ、そっか。君、明日休むんだっけ。だから、今日がんばったのか」


「は、はい。……あの、資料できましたので、確認していただけませんか?」


私は立ちあがって資料を印刷し、係長に渡す。係長は一枚ずつ確認したあと、


「いいんじゃないか?それじゃ来週よろしくね」


と言って資料を返された。


「これで今日の仕事はおしまい?」


「はい」


「そっか。おつかれさま。」


係長が優しく微笑む。その顔を見たときにふっとカネコさんのことを思い出した。職場には誰もいない。渡すなら今だ。私はポケットからさっきの手紙を取り出した。


「あの、すいません。これ、私の同期のカネコスズネって子からの手紙なんですが、受け取っていただけませんか?」


係長は手紙を受け取ると、不思議そうに眺めた。


「どこの子?」


「人事の人です」


「ふーん。そっか。君も災難だったね。とりあえず受け取っておくよ。ありがとう」


「は、はい。おつかれさまでした」


頭を下げて、ほっと胸を撫でおろす。やるべきことはやった。私はカバンを持って職場を出た。



 会社を出ると、疲れがどっと溜まっているのを感じた。何だか無性にユウタと話がしたかったが、あえてすぐに家には帰らないことにした。すぐに家に帰ってユウタに愚痴を聞いてもらったら、また勢いでユウタにハグしたりキスしたりしてしまいそうだった。

 

 とりあえず駅前の大きなスーパーに寄ってみる。私は特に意味もなく3階の洋服コーナーを歩いてながめた。秋物のコート、カーディガン、ニット、バッグ、パンツ、スカートなどなど。並んでいる商品を順番になんとなく触って鏡で合わせてみる。けれど、私には服の良し悪しがよくわからないので、見ていても首を傾げることしかできなかった。少しは気分転換になるかと思ったのだが、やっぱり駄目なようだ。どうしたものかと考えていると、すぐ隣のメンズコーナーが目に入った。そこには紺のマフラーを巻いているマネキンがいた。かわいい。一目見てそう思った。ユウタにとても似合いそうなマフラーだ。ユウタは小学生の頃、クリスマスに両親からプレゼントされたマフラーを未だに使っている。そのマフラーももうボロボロの状態だ。このマフラーを買ってあげたら喜ぶだろうか。でも、いきなり何の脈絡もなくプレゼントされても困惑するだけかもしれない。それじゃ今日は買うのをやめて、クリスマスにプレゼントしようか。

 

 そこまで考えてはっとした。そうだ、一人でいるときはユウタのことは考えないって決めたんだった。私は今、自分に課したルールを破っている。私はしばらくうつむいて、洋服コーナーを出ていくかどうか悩んだ。


「……まあ、いっか」


と呟く。今日だけ、ユウタのことを考えるのを許そうと私は思った。いったん自分の中でそう決めると、私は吸い込まれるようにメンズコーナーへと足を運んだ。そのまま、気の向くままユウタに似合いそうな服や、ユウタが好きそうな服を手に取って眺める。しばらく男性服を手に取って楽しんでいると、女性の店員さんがやってきてニコニコしながら


「彼氏さんへのプレゼントですか?」


と聞いてきた。彼氏という単語に驚きつつも


「い、いえ。違います」


とすぐに否定した。


「それじゃ、これから彼氏さんになる人へのプレゼントですかね?」


店員さんがクスクスと笑う。


「ど、どうして、彼氏だと決めつけるんですか?」


と私は聞いた。


「だって、服を手に取っている時、本当に幸せそうな顔をしていましたから。それに、こんなこと言うのは失礼かもしれませんが、彼氏って言葉を聞いた瞬間にお顔が真っ赤になりましたし」


女性店員はいたずらっぽい笑みを浮かべながらも温かい目でこちらを見ていた。



 午後9時にスーパーを出た。結局何も買わなかったがそれなりに気分は明るくなった気がした。ユウタに心配かけると良くないのでそろそろ帰らないといけないだろう。私は暗い夜道をゆっくりと歩きはじめた。

 

 歩きはじめてしばらくした頃に急にスマホが鳴った。キタハラ係長からだった。何か仕事でミスをしてしまっただろうか。出るかどうかかなり迷ったが、結局私は電話に出た。


「あー、もしもし、夜分遅くに申し訳ない。キタハラです」


「はい、サトウです。どうされましたか」


「今日、君に資料のまとめを頼んだ○○社の企画書なんだけど……」


身に覚えのない話で私は戸惑った。けれど、私の戸惑いをよそに話がどんどん進んでいくので、勇気を出して言葉を遮った。


「あ、あの。すいません。多分ですが、その案件は別の方の担当ではないかと思います」


「あれ?そうだっけ?ちょ、ちょっと待ってね」


電話口からガサゴソと音が聞こえる。


「あー。ホントだ。ごめんごめん」


係長が苦笑する。


「用件はそちらだけですか?」


「あー、それとさ。今日は手紙ありがとうね」


カネコさんの手紙のことだろうか。ありがとうと言われるのは何だかちょっと違和感があるがとりあえず聞き流すことにして


「いえ」


とあいまいに返事をした。


「手紙を出された時、一瞬、君からのものかと思って少し焦ったよ」


「……」


私は言葉に詰まってしまった。これ、なんと返答するのが正解なんだろうか。けれど、無言の私にお構いなしでキタハラ係長は話を続けた。


「というか、君からの手紙だったらなって俺は思ってた。……ねえ、良かったら今度二人で夕食でも食べに行かない?すごくおいしいレストランを知ってるんだ。君に紹介するよ」


これはデートの誘いだろうか?仮にそうじゃなかったとしても、既婚者の男性が新卒の女性と二人きりで夕食ってどうなんだろう。私が奥さんだったら絶対に嫌だ。


「……あの、こういうのって奥さんが嫌な気持ちになったりするんじゃないでしょうか」


私の質問に係長が笑った。


「あはは。変なこと気にするんだね。わかった。俺とサトウさんだけの秘密ってことでどうかな?」


係長の発言に私は少し悲しくなった。


「……私はそんなことを気にしてるんじゃないです」


と私が言うと、少しの沈黙の後に電話口から「ふーん」と声が聞こえてきた。


「なんで君がうちの奥さんのことなんか気にするの?」


なんで、と問われると返答に困った。ただ、今日のカネコさんやキタハラ係長を見ていると世の中ってそんなものなのだろうかと、悲しくなったのだ。恋愛というものが何だか汚く思えてきて嫌いになりそうだった。


「係長は奥さんのことが好きで結婚したんじゃないんですか?」


「昔は好きだったけど、今は別にそうでもないな」


「……そうですか」


「結婚なんてそんなもんだよ。一人の人をずっと好きでいるなんて無理だ。若い君にはまだわからないのかもしれないけどね」


係長がさも当たり前のことのように言い切る。その言葉は冷めきっていて、よくわからないけど、私は傷ついていた。


「まあ、夫婦円満のためにも君みたいなかわいい子と遊ぶ時間は大切なんだよ。君もあんま深く考えずにさ、軽く遊んでみない?」


「……すいません。誘っていただいて申し訳ないんですが、私はやめておきます」


「そっか……。ばかだねえ。我慢せずに少し遊んでみたらいいのに。そうやって良い子を演じていても、良いことなんて何も起こらないんだよ?」


私はひどく寂しくなった。私は良い子を演じてるわけでも我慢をしているわけでもないのに。頑張って会話をしてるのに、係長と私はずっと何かがずれている気がした。なんだかまるで、宇宙人と会話してるみたいだ。……それとも宇宙人なのは私の方なんだろうか。


「あの、具合が悪くなってきたので、電話を切ってもよろしいでしょうか」


立ってるのが辛くなった私はその場にしゃがみこんだ。


「ああ。わかったよ。とりあえず、もう誘ったりはしないから安心してくれ。それじゃあね」


電話が切れる。私はしゃがんだまま、しばらく深呼吸をした。今日はひどい一日だな、と私は思った。



 それから私は気持ちを落ち着けるためにコンビニで度数の高い350mlの焼酎を買って、家の近くの公園のベンチに座っていた。本当なら今すぐにでもユウタのもとへと走っていきたかったけれど、我慢した。だって、ここでユウタに頼ったら訓練にならないから。きっとこれから先、今日よりひどい一日が何度も訪れると思う。次、ひどいことが起きたときにユウタはもう私のそばにいないかもしれないのだ。だから、これぐらいの苦しみは一人で何とかできるようにならないと。

 

 焼酎に口をつける。ごくっと少量飲み込むと、喉や食道や胃の中がじんわりと温かくなった。次第に体全体がポカポカしてくる。さっきまで冷たかった夜風がだんだん心地よくなってきた。頭の中の雑念が一つ一つ消えて、ぼんやりしてくるのがわかった。その感覚は悪くなかった。また一口お酒を飲む。さらに頭がぼんやりしてくる。もう一口お酒を飲む。もっともっと頭がぼんやりしてくる。重要だったいろんなことがどうでもよくなってきて、心が陽気になっていく。


(なんだ。苦しみを忘れるのなんて案外簡単じゃん)


と心の中で呟いた。お酒を飲みほすと、私はふらふらした足取りで自分の家に向かった。心は晴れやかで、今ならユウタに会っても大丈夫な気がした。壁に手を当てて歩いていくと見慣れた玄関ドアが見えてくる。ああ、やっと帰れる、と思った。今日は一日が本当に長かった。ドアに手を掛けて、開いた。


「たらいま~」


いつもの家の匂いがして、気が抜けてしまった私は、そこで意識を失ってしまった。

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