5. いちばん、あいたい


 ルイサは公園のベンチに座り、待っている。公園を彩る満開の桜の写真は、もう数多く撮った。あとは周一を待つだけだ。


 写真を見せるというのは、ただの口実だった。また彼と一緒に手を繋いで遊歩道を歩き、海を見たいと思っていた。日曜日は曇っていたが、雨ではなかったから一緒に行こうと誘うつもりだった。


 花が咲く前の木々の様子も写真に収めたいと言うと、インターナショナルスクールの友達はみんな笑った。花が咲いてこそきれいな写真が撮れるのにと言い、同意してくれる人はいなかった。でも、周一はルイサに言った。「そういうのもいいかもね」と。それがとてもうれしかった。苦手な辛いものを食べてくれて、代わりにきれいな空色のソーダキャンディをくれたことも。ベンチから手を引いて、海が見える場所に連れていってくれたことも。


「……ツボミ、ハザクラ……」


 インターナショナルスクールの友達に話しかけられてから周一の態度が少し変わったことに、ルイサは気付いていた。友達が日本語交じりのおかしな英語を使っていたからだろうか、日本人はそういうのを気にするのかもしれない、そう思うと胸が少し苦しくなる。ルイサはまだ、日本のことも周一のこともよく知らない。


 博物館入口の大きな時計の長針がかたっと震えながら移動し、「2」の文字を差した。時刻は午後四時を過ぎている。これ以上待っていても会えないかもしれないと諦めのため息をつきながらルイサはベンチを立ち、足を一歩前に進めた。


「……ルイサ!」


 もう一歩を進めようとした時、不意に、会いたい人の声が聞こえた。自分の名を呼ぶ声の方を見ると、周一が走っているのが見えた。


 坂道を走ってきたのか、はあはあと息を切らせ、汗をかく周一がベンチに到着した。「ごめん、ごめん」と、荒い息の中でつぶやいている。


「本当に、ごめん。……ネガ、持ってきた、から」


 息を整えながら、彼は鞄のファスナーを開けてネガフィルムを取り出した。受け取った自分の手が小刻みに震えているのが恥ずかしくて、ルイサは何も言うことができない。


「写真、ありがとう。俺のことも撮ってくれたんだね」


「……はい」


「あの飴……、キャンディも、きれいに撮れてたもんな」


「はい」


「今日も持ってきたよ」


 そう言うと、周一は鞄から飾り気のないビニール袋を取り出した。恥ずかしくてうつむいていたのに、ルイサの目はパステルカラーのキャンディに釘付けになる。


「きれい」


「うん、きれいだよね。これがこの間と同じソーダ、これが梅……プラム、これがみかん……オレンジだよ」


 彼は笑顔でルイサの手にキャンディを持たせる。シャツの袖で汗を拭きながら。


「遅れてごめん……、本当に、ごめん」


 よほど悪いと思っているのだろう、周一はせっかく見せてくれた笑顔を引っ込め、幾度も「ごめん」と言う。何と言えば、彼は謝るのをやめてまた笑ってくれるのだろう。ルイサにはわからない。「No problem」という返答も違う気がする。


「……シュウ、きた、ありがと」


「お礼なんか……、俺が悪かったんだし……ほんと、ごめ」


 それ以上「ごめん」を聞きたくなくて、左手を差し出して周一の右手を取る。突然のルイサの行動に驚いた周一は途中で言葉を切り、押し黙った。


「ごめん、いらない。うみ、みる」


「……そうだね、行こうか」


 そう言いながら彼は笑ったが、何だか泣いているようにも見えた。



 ◇◇



 都合よく晴れた約束の日は、待ち合わせ時刻に遅れはしたものの、周一にきれいな海を見せてくれた。夕方のオレンジがかった光の加減で、前に見た時より少し濃い群青色に見える。


「シュウ、キャンディ、すき?」


「好きだよ。家の近くの店で買うんだ」


「いちばんは?」


「一番好きな味、でいいのかな? うーん……、一番はソーダ味だね」


「わたし、も、ソーダすき。きれいなあじ」


 まだ拙い日本語を、ルイサが懸命に使おうとする。「きれいな」と「あじ」は普通セットでは使わないが、そんなことはどうでもいい。周一には、何となくルイサが言いたいことがわかる。


「うん。きれいで爽やかな味だと、俺も思うよ」


「シュウ、いちばんは?」


「えっ? 一番はソーダ味だよ?」


「いちばん、あいたい。いちばん」


 この三日間でルイサの日本語が上達したのか、まさかそんなことを尋ねられるとは思っていなかった周一は、不意打ちを食らって顔を真っ赤にさせてしまう。


「……一番、会いたい人ってこと?」


「はい」


「他に誰もいないよ」


「ほか? いない……?」


 難しい顔をして考え込むルイサに、周一は「わからなくていいよ」と言う。


「次、また会える?」


「つぎ? つぎ……、あした」


「明日か……。明日までに英語どれだけ覚えられるかな……」


「シュウ、えいご、おぼえる?」


「うん、がんばって覚えるよ。ルイサが友達と英語で話してる時、寂しかったんだ」


「……?」


 わからない単語が多かったのか、ルイサが大きな目で周一を見ながらきょとんとしている。


「わからなくていいんだ、いつかちゃんと伝えるから。……待っててくれてありがとう、ルイサ」


 周一の言葉に、ルイサが笑顔になった。言葉が通じたことにほっとしていると、繋がれた周一の右手がぎゅっと握られる。


「あした、いちじ」


「一時だね、わかった」


「キャンディ、たべる」


「うん」


 握り返した右手に、桜の花びらが一枚、ひらりと落ちる。


「一番会いたいのは、ルイサだよ」


「……はい」


 うつむいたルイサの小さな声を、優しく吹く東風ひがしかぜが周一の耳に届けた。

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丘の上のソーダキャンディ 祐里(猫部) @yukie_miumiu

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