4. halation
日曜日は朝から雲が多く、気温が上がらない日になった。ジャケットを着ていても体の脇を吹き抜ける風が、周一の身をぶるりと震わせる。
「もう来てるかな」
時刻はまだ二時五分前だ。公園のベンチに到着した周一が辺りを見回すと、遊歩道の方からルイサが走ってくるのが見えた。
「Hello, シュウ! しゃしん、ある!」
「ああ、ルイサ、持ってきてくれたんだね」
「みてください」
そう言ってベンチに座ると、ルイサは紙でできた横長の袋を取り出し、写真を見せてくれた。
「うわ、すごくきれいに撮れてるね。芸術は全然わからないけど、俺は好きだよ」
「すき? ほんとう?」
「うん。……あ、これ……」
写真をめくっていくと、ソーダ味の飴が接写された一枚を見つけた。周一があげたものだろう。桜のつぼみの隣で、ルイサの指が誇らしげに飴を掲げている。飴の水色と背景の青空がよく合っていて、とても美しい。
「おいしいキャンディ」
「気に入った? 今日も持ってるから、あとであげるね」
「おかね、はらう」
「いらないよ。明太子のおにぎりと同じくらいだから」
周一がそう言うと、ルイサはにこりと笑って「ありがと」と言った。日曜日だからか、辺りには人が多く歩いている。何となく気恥ずかしさを感じ、周一はルイサから視線を外した。
「Luisa!」
突然、遠くから声がした。ルイサの方を見ながら、同じフィリピン人と思われる少女が走ってくる。
「Oh, good! Luisa, could you give me ジュウエン!?」(よかった! ルイサ、十円くれない!?)
「ジュウエン? What’s up? Are you callin'?」(十円? どうしたの? 電話するの?)
「Yeah. ……Thanks a lot!」(うん。……どうもありがとう!)
走り寄ってきた少女との早口の英会話が展開され、周一は「ジュウエン」の部分しかわからなかった。ルイサが少女に十円玉を渡していたため「十円ちょうだい」という意味だったと推測できるが、周一には全くついていけない話だ。
「ともだち。インターナショナルスクール」
「そうなんだ」
平気なふりをして答える周一を、孤独が襲う。あの時と同じ孤独。二人の少女の早口の英会話は、多すぎる光量でハレーションを起こし、自分をぼやけさせたように感じた。
「……ルイサ、そのネガ、貸してくれないか」
「ネガフィルム?」
「そう。俺もその写真、現像に出したいんだ」
「……はい」
ルイサは少々疑問を持ったようだったが、写真を鞄に入れ、ネガフィルムだけが入った紙袋を周一に差し出した。
「次に来る時に持ってくるよ」
「つぎ、いつ?」
「……水曜日、一時に」
「はい。すいようび、くる」
うなずくルイサに貼り付けた笑みを見せ、周一はベンチを立った。
「またね」
「……はい……、すいようび、いちじ」
雲を通して薄く届く太陽の光は、やっと開き始めた桜の花を白く見せている。寒い、苦しいと心が訴えるが、そんなの仕方ないだろうと周一は自分を叱り飛ばす。
振り返った周一の視界に入ったルイサは、柔らかく微笑んで小さく手を振った。
◇◇
月曜日に学校の修了式を終えてからどこにも出かける用事などない周一は、何をするともなく自分の部屋でだらだらと怠惰な時間を過ごした。預かったネガフィルムは写真屋に持っていき、現像してもらっている。
あのネガフィルムを、周一は欲しいと思った。『貸してほしい』ではなく、『欲しい』と。写真を入手したかったわけではない。見せてもらうだけで十分だと思っていた。ルイサが写真を撮るのが好きだということは、十分わかっている。ネガフィルムを大事にしているであろうことも。
水曜日の朝、周一は現像を依頼した写真屋へ行き、代金を払って写真とネガフィルムを受け取った。写真が欲しいわけでもないのに何をやっているのかと自分に問うが、有効な答えなど返ってこない。いつもそうだ、いつも答えなんか見つけられない、そう思うと情けない自分がますます嫌になる。
友達がいたらこんなことも気軽に相談できるのだろうか、そもそも友達がいたらこんなことで悩んだりしないのだろうか、その問いにも、答えが返ることはない。
午後一時、ルイサと約束した時刻に、周一は公園へは行かないことに決めた。ルイサに会ったら、ネガフィルムを返さなければいけない。このネガフィルムが欲しい、どうしても欲しいと思う自分の気持ちを、裏切ることができないでいるのだ。
「……もう、一時過ぎたか……」
ルイサは今頃あのベンチ付近で待っているのかもしれないと思うと、何故か安心する。ひどい奴だと自分でも思う。
自室の机でうなだれていると、ふとまだ写真を全部見ていないことに気付き、周一は写真屋で受け取った袋から写真を取り出した。
一枚、また一枚とめくりながら見る。大体が、桜の木が立ち並ぶ様子や花などを接写したものだ。その中に、自分が写っている写真を見つけた。海が見える遊歩道で、遠くを行く船をぼんやりと見ていた時。午後だったため西側からの光を受けて、周一の姿が真ん中に写っている。後ろ姿ではあるが、それは周囲の桜の木や遠くの海に溶け込み、とてもくっきりと、美しく見えた。何故だか姿勢もよく見える写真の中の自分は、今の周一には衝撃的だった。こんなにきれいではない、心の中は汚いものでいっぱいなのにと、ずきずきと胸が痛み出す。
「周一、電話よー!」
「えっ?」
「えーっと、野崎くんって人」
母親の大きな声に呼ばれ、戸惑いながら電話の受話器を受け取る。
「あ、十和田? 悪いな、何かしてたか?」
「いや、別に何も」
緊張してしまう。声が固くなる。野崎は何の用事で――
「あのさ、その、この間の……俺が誘ったのに……無神経だった。ごめん」
「え……」
「俺、またおまえと一緒に坂道上りたいんだ。……許して、くれないか」
「……ええと……、わかった。いいんだ、気にしてない。俺も、その……、寂しかったんだ。ごめん」
野崎は周一の言葉をどう捉えたのか、黙ってしまった。わざわざ電話をくれたと思うと固まっていた気持ちも声もゆるんでいくのがわかるが、正解が見つからない。「寂しかったんだ」などと言ってしまったのは間違いだったかと、少し不安になる。
「……そうだよな。寂しかったなんて、ちょっと考えればわかったはずなのに……悪かった」
野崎が低い声で、ためらいがちに話し始めた。わかってもらえた、「寂しかった」と言ってよかったのだと、うれしさが湧き上がってくる。
「気にしてないって。四月から、野崎が言うところの遠足がまた始まるな」
冗談めかして言うと、電話口から「ふはっ」と軽く笑う声が聞こえた。
「弁当持って友達と一緒に山登りだもんなぁ」
「うん。……電話、ありがとな」
礼を言い、その後いくつか言葉を交わして電話を切る。母親の「女の子じゃなかった……」という言葉を無視して、周一は部屋に戻った。
「……行かなくちゃ」
部屋の隅に置かれている鞄に駄菓子屋で買った飴が入っていることを確認すると、ネガフィルムと写真を入れ、周一は部屋を飛び出した。母親の「えっ、周一出かけるの? 晩ご飯は?」という声に「あとで電話する」とだけ返し、どたばたと家を出る。
バス停でバスを待つ間、周一はもう一度自分に問いかけた。どうしてネガフィルムを欲しいと思ったのか。その答えはすぐに返ってきた。『ルイサが大事に思っているものだから』だ。寂しさからくる独占欲というものだろう。わかっていたのだ、本当は。そんな強い欲望が自分にあると思いたくなくて、目を逸らしていた。
時刻は午後三時半だ。今から公園に行くことが正解なのかはわからない。
でも、と、周一は軽くなった気持ちであの写真を思い返す。多すぎる光量でハレーションが起こるとぼやけてしまう写真の中の対象物とは違う、真ん中にきれいに写った自分。遅れても公園に行きたい、少しでも彼女に会える可能性があるなら行きたいと、今でははっきりと思う。
バスが広い道路に出ると、西側から太陽の光が差し込んでくる。ルイサはまだ待っているだろうか、ごめん、ごめんと心の中で謝り続け、周一はバスに揺られ続けた。
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