Tea Time
松本貴由
「あいしてる」
目が覚めると、あなたはいつもいない。
隣のシーツがつめたくて、僕は僕の体に縋りつく。
あなたはずるい。
僕の寝顔を見てから眠りに落ちて、僕の寝顔を見ながら目覚めるあなた。
僕とあなたしかいないこのベッドで、僕があなたの夢を見ている間に、あなたは僕の夢を手放して、あなただけの現実へと行ってしまう。
ずるいなあ。
あなたの体温はいつだって僕を置き去りにするくせに、あなたはいつだってここにいる。
肌にしみこんだあなたを吸い込む、それだけで目眩がして、頭がぼうっとして、熱くなる僕。
僕にだって寝顔、たまには見せてくれてもいいのにな。
「ずるいよ」
声に出したいのは、別のことばのはずなのに。
あなたの瞳を見ながら眠りに落ちて、あなたのいない朝を迎える僕。
乱れた髪を指で梳く。
シルクのガウンを羽織って起きる。
ベッドはひとつだ。
南側の窓から吹き抜ける風に、誘われた淡いラベンダーいろのドレープが僕を笑う。
お陽さまはもう高いところまで昇っていて、いつまで寝てるのと僕を刺す。
あいさつするかわりに、僕はあなたがつけた赤いしるしを誇らしげに見せつけるんだ。
いいでしょう、僕はあの人のものなんだよ。
そんなふうに強がってみせる、だって本当は、目を開けられないくらい眩しいんだもの、立っていられないくらい痛いんだもの。
明るい光が僕を責める。
なぜあの人をひとりで行かせるの。
なぜ僕は、なぜ僕たちは、こんなふうに。
***
あなたと僕は生活の時間帯があんまり合わなくて、いっしょにベッドに入るのは、僕が家にいて、あなたが早く帰ってくるときだけ。
最近のあなたはずっと深夜帰宅、ううん、帰ってきているのかもわからない。
お仕事や家の外でのあなたをよく知らない僕は、ただ待ちぼうけて、がまんできずに寝落ちして、あなたのいない次の日にまた寂しくなる、そんなことを繰り返してる。
僕はなんてばかなんだろう。
昨日はちょうどその日だったから、僕はお仕事おわりに寄り道をして帰った。
家に帰って着替えてから、まだ帰ってこないあなたのことを考えてベッドに入って、起きたらやっぱりあなたに抱きしめられたかった。
あなたが帰ってくる前に、張り切ってシャワーを浴びた。
オーガニックの石鹸に、トリートメントはあなたの好きなベルガモットリリーの香り。
コットンとパフで整えた肌にハニーオイルをすべらせて。
おなかは減らしておきたい、だけど眠気にも負けられない、だから鼻をつまんでブラックコーヒーをごくり、ごくり、カフェインを全身にゆき渡らせて、あなたを待つための準備は万端。
そうして日付がかわる少し前、帰ってきたあなたはなにも言わずに僕を押し倒して、真顔で殴った。
なにかいやなことがあったんだ、そういうときのあなたはいつも、僕をうつ伏せにするから。
あなたの指に絡まった僕の髪が抜けてシーツに散らばった、枕の綿の隙間に酸素を探したけれど汗と涎のにおいだけがした。
繰り返されるたびに鈍い痛みが皮膚の下を逆上がりして、鋭い電流が何度も何度も、からだの中をつま先から脳まで駆けていって、窒息感と浮遊感が同時にやってきて。
僕の至るところにあなたが刻みつけられて、僕のいちばん深いところであなたが蠢いた。
そんな夜を、しあわせだと思うのは僕だけ?
だってあなたはそんなこと、僕にしかしないんだよ。
あなたより先に眠るもんかって、僕は必死で身を捩った。
いつも言えないこと、あなたがこんなになってるときだからこそ、言いたかった。
どうしたのってきかない、それが僕の臆病、子守唄も歌えない、そんな僕の未熟、それでも伝えたいなんて、僕は我儘なのかな?
となりに倒れこんだあなたの睫毛が、呼吸にあわせてゆっくりと重力に委ねられる、だけど再びゆっくりと、重力に逆らっていく。
翡翠の光を透かしたような鳶色の瞳いっぱいに映る僕の、瞳はおなじ鳶色で、翡翠の奥にあなたを映してる。
他に誰の血も混じらない、僕たちはふたりだけ。
おたがい他に誰もいない、たったひとりの相手。
ああ、なんてしあわせなんだろう、でも。
あなたが先に眠らないのは、そのたったひとりが僕だから。
僕のせいで、あなたはこんな風になった。
小さな声で呼んだだけで、あなたの目尻が力をなくした。
抱き寄せられて言葉を飲み込む、それきり僕はあなたの顔が見えなくなった。
つん、と、あなたと僕のからだの内側のにおいがして、強がる自分がいやになった。
あなたの胸のおだやかな鼓動に、僕はやっぱり寝かしつけられた。
シュガーのしずくはアイスティーには溶け切らなくて、きらきらと底に溜まっていく。
甘くない、だから僕はもっともっと足してしまう。
あなたが熱い熱いミルクを注いだら、ぬるいグラスは粉々に割れて、僕は溺れて死ぬんだ。
それでいいって思ってる。
それがいいなんて思ってる。
自分のことばっかり、僕はばかだ。
あなたのことしか考えたくないのに。
言いたいことは、言えないまま。
***
僕の裸足はガウンの裾を引きずりながら、殺風景な廊下をとぼとぼダイニングキッチンに向かう。
ドアを開けると、窓のない部屋には昨日の夜に飲んだコーヒーの香りがまだ残っていて、僕を僕の現実へと手招きする。
コンロにはアンティークのケトル、ティーセットと純白の砂時計、揃えて置いたたくさんの茶葉の瓶たち、アールグレイには新品のパッケージリボンがかけられたままで、それだけしかないキッチンカウンター。
そう、あなたのいない家に僕はひとり。
からだが重い、腰が痛い、脚がだるい、おなかの奥が、なんとなく気持ち悪い。
間接照明をつける気にはなれなかった。
ミネラルウォーターとアプリコットジャムの小瓶しか入ってない冷蔵庫のまんなかで、ホールのシフォンケーキがラッピングをされたまま居心地悪そうに縮こまっている。
表通りのパティスリーには、ショーケースに色とりどりのカットケーキがきらめいていたから。
逃げるようにはいった路地裏で、みつけたちいさな焼き菓子やさん。
無難にスコーンやマフィンでも良かったけど、アールグレイに合わせるのがオススメだよって教えてもらった、直径十五センチのバニラシフォン。
よっつに切ってふた切れずつ食べようか、それとも豪快にこのまま齧る?
そんな会話もできないまま、あなたはきっと今日も帰りが遅い。
あのきらびやかなケーキだったなら、今頃あなたに食べてもらえていたのかな?
地味なシフォンが悪いんじゃない、無言のままのあなたが悪いんじゃない。
悪いのは、あなたを抱きしめられない僕だ。
「……ばかみたい」
「だれが?」
あれ、ひとりごとに返事がかえってきた。
あれ、ひとりごとって返事するんだっけ。
顔を上げたら、ダイニングの向こう扉からマグカップ片手にあなたが出てきた。
反射的に冷蔵庫の扉を閉めたら、思いがけず大きな音が出てしまって、なにか言わなきゃと焦る。
「ゆ、ゆうれ……」
「失礼すぎんだろ」
「え、ごめんなさ、えっ、な、なんでいるの」
「おまえ、そんなに俺が邪魔かあ」
「ちがうっ、ちがうけど、でも」
「じゃその顔はなんだよ」
あなたは歯を見せて顎を上げる。
あなたの鳶色の瞳に映る僕、口を半開きにしたまま、あなたと同じ色の目をまんまるにしてる、なんて間抜けなんだろう。
僕のことならなんでも知ってる、知ってて僕をからかうあなた。
はっとする。まさかケーキの存在までばれてしまっているのだろうか。
僕の視線が冷蔵庫に泳いだのを見て、あなたはまた可笑しそうに肩を竦める。
「……中、見た?」
「見てない見てない。食え食え、ホール丸ごと食って太っちまえー」
「ちが、一緒に食べようと思ったんだもん!」
いじわるなあなたは目を細める。
「おまえ、俺の好き嫌いは知ってんだろ」
声のトーンが、やさしく、ひとつ落ちた。
マグカップから漂う最後のカフェインが、僕を諭してから、あなたの口内へと消えていく。
その喉仏の動きにさえ、ぞくぞくしてしまう僕。
わかってるよ、あなたは甘いものを食べない。
「うん、だからこのケーキにしたんだ」
言いながらあなたの指に触れると、思ったよりあっさりと絡めてくれて、どきりとする。
カウンターに手放されたマグカップはちょっぴり寂しそう、ごめんね。
苦い苦いブラックコーヒーの出番は、なにがなんでも起きていたいときだけ。
あなたのお仕事が昼前に終わることはほとんど無い、だから今日はイレギュラーなお休み。
そうまでして、あなたがここに立ってる理由。
わかってるよ、あなたにとっては、コーヒーもケーキも、手段なんだってこと。
「兄さんが好きなもの、ちゃんと知ってるよ」
まっすぐ見つめたあなたの瞳、なんてきれいなんだろう。
繋いだ手がじわりと湿る。
あなたは眉を寄せて目を閉じ、天井を仰いだ。
やっぱり眠たいのかな、それなら僕にはなにができる?
だけどあなたは僕を見て、やわらかく唇を解した。
「やっぱり、ばかだな」
俯いてしまいそうで、でも決して俯かない。
笑いながら、叫んでる。
ああきっと、これが、僕の寝顔を見つめるあなたの顔なんだ。
そんな直感がどうしようもなく嬉しくて、笑おうとしたらなぜかだか涙がこぼれた。
「うん、ばかだよ」
目元を拭って僕が背伸びをする前に、あなたの視線は僕を外れて、あなたの指も僕を離れて、カウンターの砂時計を引き寄せた。
ことり、と、逆さまに置き直したあなたの指先、促されるままさらさらと落ちていく砂の粒。
アールグレイの、金いろの蓋の縁を撫でるあなたの指先、ゆっくりと解かれていく赤いリボン。
ずるいよ、こんなことしておいて、僕を見ないなんて、あなたはずるい。
僕の、たったひとりのだいじなひと。
僕はあなたのもの。
「兄さん」
続きを遮るように抱きしめられた。
昨日より強いちからで、昨日よりも弱いあなた。
「言わなくていい」
絞り出すような耳元の声に応えるように、僕はあなたの背に腕を回す。
麻酔みたいに僕の全身を侵す、鎖みたいにあなたの全身を這う、大きく、はやく、脈打つ胸の音。
ティーポットに残った最後の一滴は、渋くて苦くて、どうにもできなくて。
それでも飲み干さなきゃ終われない、僕たちのティータイム。
あなたがすべて隠すのは、ひとりになるのは、あなたが僕の兄さんだから。
こんなにも苦しくて、こんなにも愛しい。
それは、僕たちがきょうだいだからだよ。
僕たち、いつの間にかこんなになっちゃったね。
ううん、あなたをこうしたのは僕だ。
ねえ、あなたは僕のもの。
だから、あなたをひとりになんかさせないよ。
あなたに逆らおうと吸い込んだ僕の決意は、言葉になる前にあなたの唇が食べてしまった。
やっぱりずるい。いじわるだ。
僕たちはふたりで呼吸をした。
カウンターにしなだれ掛かったはずみで、砂時計が床を転がって、銀の砂は落ちきる前に混ざりあった。
Tea Time 松本貴由 @se_13
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