初めての着物
増田朋美
初めての着物
その日はよく晴れて良い天気であった、こんな良い天気みたいに、全部の人が晴れ晴れしてくれればいいのだが、人というのはなかなかそうも行かない。どんなに良い天気であっても、心は落ち込んだままという人が、大勢いるのだと思う。
そんな中、浜島咲が女性を一人連れて製鉄所を訪ねてきた。と言っても、鉄を作るところではなく、居場所のない女性たちが、勉強や仕事をするための、部屋を貸し出すだけの福祉施設である。現在の利用者は3名で、三人とも、通信制の学校へ通っている。
「ああはまじさん。こんないい天気なのに、そんな暗い顔をしてどうしたんだ?」
杉ちゃんがそう言うと、水穂さんも布団の上に起きて、
「なにかあったんですか?」
と、聞いた。
「また叱られちゃったのよ。彼女は、今月から家の教室に通ってきてくれている方で、お名前は。」
と咲が言うと、隣に座っていた、その女性が、
「あたしまゆちゃん。」
と言った。そのような言い方をするということは、もしかしたら、発達障害とか、そういうものがあるのかもしれない。
「正式には、鈴木まゆ子ちゃんです。今日初めて、着物を着てお教室に来てくださいました。それなのに、苑子さんと来たら、お琴教室に化繊の着物なんて許しませんよですって。散々怒られてきたわ。」
咲がそう説明する。杉ちゃんは彼女の着物を見た。確かに着物ではあるが、正絹の着物ではないことが、光らないことでわかった。
「ふむふむなるほどね。つまり化繊の着物を着て、苑子さんに叱られたか。まあ確かに化繊の着物は、お琴教室には、ふさわしくないな。」
杉ちゃんは直ぐに言った。
「でもね、あたしがね、いくら新しいの買おうって言っても、これがいいんだって、こだわりがあるようで、嫌がるのよ。だから相談にこさせてもらったの。」
咲は大きなため息をついて言った。
「はあ、そうですか。こだわりというと、僕が黒大島しか着ないのと同じようなものかな。じゃあ、まず、お前さんに聞いてみよう。お前さんが一番好きな色は何かな?」
杉ちゃんがそうきくと、
「赤です。」
まゆ子さんは即答した。
「なるほど、赤が好きなのね。それで、」
杉ちゃんがそう言うと、
「でも、咲さんといっしょに行った着物屋さんでは、赤が見つからなかったんです。みんな青とか、緑とか、そういう色ばっかりで。」
直ぐにまゆ子さんは答えた。
「まあ確かに、今はくすみ色とか、そういうものが流行ってますからねえ。」
水穂さんがそう言うと、
「そういうのは私は嫌いです。ピンクもグリーンも青も好きじゃない。赤がいいです。」
とまゆ子さんは言った。
「どこの着物屋さんに連れて行ったんですか?」
水穂さんが聞くと、
「はい。あの、アピタに入っている呉服屋さん。初めてだから、そういうところが良いと思って。」
と咲が小さくなって言った。
「でも、リサイクルでも、良いものは売ってますよね。」
水穂さんが言うと、
「初めての着物購入だから、ただ着物がおいてあるだけのリサイクルではわからなくなってしまうかなと思ったのよ。リサイクルだと、格の説明とか、そういうことあまりしてくれないでしょ。まゆ子ちゃん、そういうこと何も知らないって言うから、ちゃんと教えてくれる着物屋に行ったほうが良いと思って。」
と、咲が言った。
「まあ確かに、そうかも知れないけど、教えてくれるリサイクルの着物屋もあるよ。それに、古典柄とか、格の高い柄を求めるなら、新品よりリサイクルのほうが、かえっててに入りやすいこともある。もちろん、状態の良いものはそれなりの値段するけど、でも、通常価格よりはかなりお安いんじゃないの?」
杉ちゃんがそう言うと、
「そのお店はどこにあるんですか?」
まゆ子さんが聞いた。
「えーと、富士と富士宮に、あると思うけどね。値段は大体3000円くらいからあるし、ひどい場合は1000円で買えることもあるよ。」
杉ちゃんが答えると、
「そこだったら、赤い着物で、苑子さんがいう、鮫小紋とか、御所解模様とか、そういうきちんとした着物が売っているのかしら?」
と、咲が言った。
「多分、勘定しきれないくらい品数が多い店だからあると思う。」
杉ちゃんが言うと、
「それなら、着物を、買うことができるんですね。じゃあ、私、そこへ行ってみようかな。どうせ、呉服屋さんに行っても、新品の着物は、プレタ着物しか買えないし。」
と、まゆ子さんは言った。
「ちゃんと着物の格のこととか、そういうことも説明してくれるかしら?」
咲がそう言うと、
「カールさんだったらわかると思う。それに、まゆ子さんが、カールさんに、こういうのがほしいと言っても、何も嫌がることはない。」
と、杉ちゃんは即答した。その間に、水穂さんが、スマートフォンで増田呉服店の住所と電話番号を調べてくれた。まゆ子さんは、意外に近いんですねと、驚いた様子だった。
「それでは、行ってみますか。こういうことは善は急げだわ。直ぐに行ったほうが良いわね。」
咲は直ぐに、製鉄所の玄関へ向かった。まゆ子さんが、どうもありがとうございますと言って、製鉄所を出ていった。杉ちゃんたちは、いや、お礼を言われるほどでもないよと言っておいた。
まゆ子さんは咲の運転する軽自動車に乗って、増田呉服店に向かった。確かに、車で10分程度しかかからないところにあった。近くの有料駐車場に車を止め、店の玄関ドアを開けると、店に設置されているザフィアチャイムがカランコロンとなった。
「はい、いらっしゃいませ。なにかご入用ですか?」
店に入ると、店主の増田カールさんが出迎えた。まゆ子さんは頭を一つ下げて、
「はじめまして。私、鈴木まゆ子です。お琴教室に通い始めたので、着物がほしいです。特に赤い着物がほしい。お願いできませんか?」
と、カールさんに聞いた。
「赤い着物と行っても色々ありますな。訪問着とか、小紋とか、いろんな種類があるんですよ。例えば、振袖なんかも着物の一つだけど、それはわかるよね。成人式とか、結婚式とか、そういうときに使うやつだよ。」
カールさんがそう言うと、
「すみません。わかりません。私、成人式は出られなかったんです。ちょうどその時、鬱になってしまって、何年か入院を強いられてましたから。だから、成人式は出ませんでした。なので、振袖という着物も着たことがありません。」
と、まゆ子さんは答えた。
「なるほど、わかりました。振袖は、一言で言ってしまえば、袖丈が長くて、足首まであるのを本振袖、膝までのものを中振袖、腰までの短い振袖を小振袖といいます。小振袖なんかは今人気のある着物として有名だよ。こんなふうにね。」
カールさんは、三枚の着物を広げてみせた。本振袖、中振袖、小振袖。どれも若い人の礼装として使えそうな着物だ。もちろん着用者は、若い人というか、未婚者に限られるけれど。
「じゃあ、振袖の次に格のある着物をお見せしましょうか。これは色無地。柄を入れないで、黒あるいは白以外の一色で染めた着物。ただし、全く柄がないわけではなく、布を織ったときに発生する地紋はあるから、それの大きさや内容で着物の格が変わる。まったくないものは、弔事に使ったりすることもある。簡単に見えるけど、実は難しい着物でね。お琴教室などでは、これの着用が義務付けられることもあるかな?」
と、カールさんは真っ赤な色無地を売り台に出した。ちなみにその色無地は、小さな桜の花が地紋として所々に入っていた。地紋をいれると、それだけ着物の格が上がる。そうなると、礼装用として使うことも可能になる。
「そして、こちらが江戸小紋。小さな柄を隙間なくびっしり入れてある着物のことを言う。中には、地色がわからなくなるくらい、ぎっちり柄を詰め込んで、遠目では無地に見えるという着物もある。そうなると、高度な技術の染め物として、やはり礼装として使うこともあるよ。中には鮫小紋とか、行儀小紋など、非常に格式ある柄の江戸小紋もあるけど、これはお年寄り向きかな?」
カールさんは赤い鮫小紋の着物を出した。
「だいたいね、お琴教室であれば、楽器に鳴ってもらうと解釈することが多いから、色無地や江戸小紋などの、割と地味な着物を着ることが多いんじゃないかな。」
「そうですそうです。江戸小紋、苑子先生がよく言ってました。そういう着物を買ってみないと、やる気があるって認めないって。」
まゆ子さんは、直ぐに言った。
「なるほど。昔ながらの雰囲気があるお教室なんだね。今でもそういう風習がある教室もあるんだあ。おじさん、お琴教室のことはあまり詳しくないけど、茶道なんかでも、器に敬意を表して色無地を着ることもあるよね。」
と、カールさんが言った。
「じゃあ、ついでに他の江戸小紋も見てみようか。一枚だけでは困るでしょ。例えばこちらの桜の花がらの江戸小紋もあるし、マーガレットの花がらの江戸小紋もあるよ。」
カールさんが売り台から江戸小紋を二枚取り出して、まゆ子さんに見せてくれたが、
「私、最初の鮫小紋が良いです。」
と、まゆ子さんは言った。
「なんで?鮫小紋なんて、お年寄りが着る着物よ。」
咲が驚いてそれを止めるが、
「でも、お稽古に行くときはちゃんと制服のような感じで、きちんと着たほうが良いと思います。」
と、まゆ子さんは言った。
「お話はわかりました。ただ、こちらの鮫小紋は、袖の形が元禄袖ではありません。元禄袖であれば若い人でも着れるんですけど、それなら、袖を縫い直してもらう必要があります。」
カールさんがそう言うと、まゆ子さんはじゃあ辞めるとかそういうことは一切言わず、
「誰かに袖直しを頼めば良いのですか?」
と聞いた。
「そうですね。お和裁屋さんへ持っていって、元禄袖に直してもらってください。そうしないと、対象年齢が合わないと批判してくる着物ポリスの方もいるかも知れませんよ。」
カールさんはそういった。
「身近な人で和裁をしている人が居れば良いのですが、それがない場合は、インターネットで和裁をやっている人を探すこともできますからね。ちゃんと対象年齢が合わないので、元禄袖になおしてくださいといえばやってくれると思います。」
「それは杉ちゃんにやってもらえば良いわ。直ぐやってくれるから。」
咲は、直ぐに言った。今頃杉ちゃん、でっかいくしゃみをしているんだろうなと咲は思った。
「そうなんですね。杉ちゃんという方は、和裁屋さんって言ってましたものね。頼めば直してくださるんですね。」
と、復唱するようにいうまゆ子さんは、やはりどこか発達障害とか、そういうものがあるのかなとわかる言い方だった。なにかそういうものを持っている人の言い方というのは独特なものがある。それはどこか機械的と言うか、そう言ってしまうとちょっと変なところもあるが、普通の人が話すのとはちょっと違う気がする。
「それでは、着物をかわれるということは、同時に帯もご入用ですかな?」
と、カールさんが言った。
「帯をあわせるには、着物の種類によってまた変わってくるのですが、こちらのお着物は鮫小紋ですから、普段着として、半幅帯を使うこともできますし、袋帯をつけて礼装にすることもできます。もし、結ぶのが難しいとおっしゃるのであれば、こちらのように、結び目をあらかじめ作った作り帯もありますから、それでもよろしいかと思います。」
「そうなんですか。作り帯という、結び目を作った帯びもあるのですね。それがあれば、あたしも一人で着物を着られるようになりますかね。帯にもやっぱり年齢制限ってあるんでしょう?それはどうなっているのですか?」
まゆ子さんはカールさんに聞いた。
「はい。帯の年齢制限というか、格付けは、半幅帯が比較的カジュアルで、名古屋帯も比較的カジュアル。そして袋帯がフォーマルになります。」
カールさんがそう答えると、
「わかりました。それでは、お琴教室に使うのであれば、何の帯を使えば良いのですか?」
まゆ子さんはそう聞いた。
「はい。基本的に、お客さんはまだ若い女性ですから、そう言うことなら、袋帯から作った作り帯を締めれば良いのではないでしょうか。まだ年齢がお若いような方なので、袋帯の作り帯と言っても、二重太鼓は難しく、それなら、文庫結びか立て矢結びなどがよろしいでしょう。例えばこれかこれですね。」
カールさんは、文庫結びを形作った作り帯と、立て矢結びを形作った作り帯を見せてくれた。とてもきらきらして、とても美しい帯であった。金の糸で刺繍などが入っているということは、間違いなく礼装用として作られたものである。
「そうですか。文庫結びと立て矢結びとではどちらが格が高いですか?」
まゆ子さんが聞いた。普通の人であれば、呉服屋さんを質問攻めにするなと思ってしまうに違いないが、カールさんはいつまでもニコニコしながら、答えてくれるのであった。
「ええ、どちらも順位にさはありません。同格です。どちらも、振袖から、訪問着、色無地、江戸小紋など礼装系のお着物に使うことができます。あとは、本人の好み次第だと思います。」
そういうカールさんに、まゆ子さんは困った顔をした。咲がまゆ子さんどうしたの?と聞いてみるが、こんなこと言って良いのかなと言う顔をして咲の方を見た。
「ああ、どんなことでも言ってしまって結構ですよ。着物は、わからないことだらけという女性が今はほとんどですからね。それは、気にしないでいいです。本当にこんなこと聞いたら怒るのではないかということでもなんでも聞いて下さい。」
カールさんが親切にそう言うと、まゆ子さんは、そうですねと小さい声で言って、
「私、同格という言葉が、よくわからないんですよ。お金を勘定するときもそうなんですけど、例えば千円札一枚と、五百円玉2枚が同じっていうことがどうしても理解できないんです。千円札と同じように使えるって言ってもダメなんです。どちらか違うものとして見てくれないと、私、混乱してしまうんです。」
と、自分の個性をかたった。
「そうですか、それでは、それと着物の格のことで、なにかわからないことがありましたか?」
と、カールさんは優しく聞いた。まゆ子さんは、大変困った顔をしている。そういうことはもしかしたら、親とか、支援員さんとか、そういう人に言ってもらうようにしていたのかもしれない。まあそれは日本の福祉なので、悪いことではないけれど、でも、そうではなくて、自分にできることとできないことはちゃんと言ったほうが良いのではないかと咲は思った。なので、まゆ子さんの背中をそっと押してくれるような方に転んでくれればと願いながら、
「何を困っていて何を悩んでいるのかちゃんと話したほうが良いわよ。それは、あなたが車椅子に乗っているのを説明するようなものよ。障害があることを目に見えて誰が見てもわかるというようなものでもないんだったら、ちゃんと口に出して話をすることが必要ね。そして、周りの人にどういうふうに接してほしいのか、どういうふうに支援してほしいのか、あなたがあなた自身の言葉で説明することが必要よ。」
とまゆ子さんに言った。まゆ子さんは、どうしたら良いのかと考えながら、しばらく緊張した状態が続いた。でも、なにか決断してくれたらしい。それではという顔をして、こういい始めた。
「ごめんなさい。どうしても、同格ということがわかりません。それよりも、どちらかが順位が上で、どちらかが順位がしたであるというふうに説明してください。お願いします。」
「はあそうですか。わかりました。」
カールさんは、本来立て矢と文庫は、順位がつくものではなくて、どちらも同じ着物にあわせても問題はないというのが彼女には理解できないということを噛み締めながら、こういった。
「そういうことならですね。文庫は比較的蝶結びに近いかたちをしていますよね。だから日常的に使いやすい結び方なのか、カジュアル着物にあわせる方が多い印象があります。それに比べて立て矢は豪華でボリュームがある雰囲気がありますから、振袖や訪問着などの礼装にあわせる傾向がありますな。」
「そうなんですか!立て矢は礼装系に、文庫はカジュアルにあわせることが多いのですか!」
まゆ子さんはそう復唱した。
「じゃあ、お琴教室はどっちを使ったらいいでしょう。」
「そうですね。お琴教室というと、先生と一対一で行う教室ですか?それともサークルのような感じで、何人かの生徒さんに講師が一人という感じで行うのでしょうか?それによっても敬意の度が変わってきますよ。」
カールさんは、直ぐに説明した。着物では、ほんの少しの敬意の違いでも、着るものが違ってしまうことがある。それは、着物に根付いている厳格な決まりである。
「そうですね。私と先生と、あと、尺八代わりにフルート吹いてくれてお手伝いしてくれる咲さんと一緒です。」
まゆ子さんは直ぐ答えた。
「そうですか。そういうことでしたら、それでは、一対一に近いということになりますな。だったら、よりフォーマルなものが良いではないでしょうか。それに、お琴を習うのは初めてのようですし、それならより敬意を示したほうが良いと思うので、立て矢をおすすめします。」
と、カールさんは言った。ちなみに立て矢とは、文庫を斜めに結び、肩からリボン結びの先が見えるような結び方である。
「わかりました。ありがとうございます。それなら、いまだしてくれた立て矢の作り帯と一緒に持っていきます。」
まゆ子さんはにこやかな顔でいった。
「おいくらですか?」
「はい。着物が1000円で、帯が2000円、合計3000円でございます。」
カールさんは、まゆ子さんが指定した着物を、紙袋に詰めながらそういった。まゆ子さんは、ありがとうございますと言って、三千円をお財布から出して、カールさんに渡した。
「はい、ありがとうございます。領収書はいりますか?必要なら名前を伺ってもよろしいですか?」
「持っていきます。私の名前は鈴木まゆ子です。」
カールさんは、まゆ子さんに領収書を書いて彼女に渡した。
「どうもありがとうございました!」
まゆ子さんは、それと品物を受け取って、頭を下げ、店を出ていった。咲もありがとうございましたと言って店を出た。二人の姿を店に設置されているザフィアチャイムがカランコロンと音を立てて見送った。
初めての着物 増田朋美 @masubuchi4996
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