第77話

 金曜日の夜、いつもの居酒屋で一人で立ち飲み。


 気分転換に日本酒を頼み、徳利から何杯目か分からなくなってきた酒を注いだころ、氷見さんが遅れてやってきた。


「砺波さん、お待たせ」


 氷見さんは走ってきたのか、隣に来るなり上着にしていたパーカーを脱いで足元に丸めて置いた。


 インナーのTシャツは胸のあたりに変な線が入っているデザイン。


「何のTシャツなの?」


 俺が尋ねると氷見さんはにやりと笑って身体を俺の方に向けた。


 Tシャツの線は胸のあたりに曲線が描かれていて、それが……って胸がでかい!?


 めちゃくちゃに巨乳に見えて思わず固まってしまう。


 そんな俺を見て氷見さんが「ぶふっ」と吹き出した。


「残念でした。これ、目の錯覚」


 氷見さんが胸のあたりを指でなぞりながらそう言った。


「さ、錯覚?」


「そうだよ。目の錯覚で胸が大きく見えるTシャツなんだ」


「何それ……」


「トリックアートだよ。未来がバイトでトリックアートを描いてて、今日見に行ってきたんだ。で、これはそこのトリックアート展のグッズ」


 氷見さんがいくつか写真を見せてくれる。トリックアートで氷見さんが生首だけになっていたり、グネグネしている床をよろめきながら歩いている様子が写っていた。


「うわ……目の錯覚でなってるってこと?」


「そういうこと。じゃないと生首だけでここに来てることになるからね」


 氷見さんが首を掻っ切る物騒なジェスチャーをした。


 つい、目線が首から下に移っていく。氷見さんは着やせするタイプと以前教えてもらったことはあるけれど、目の錯覚も相まってとんでもない巨乳に見える。


「砺波さん」


 氷見さんの低い声がして慌てて視線を上げる。ものすごいジト目で俺を見ながら距離を詰めてきた。


「はっ、はい!?」


「砺波さん」


「こ、声低くない?」


「視線の高さに比例してるからね」


 氷見さんの圧から逃げるように天井を向くと「トナミサン」と裏声で氷見さんが名前を呼んだ。


 さすがに見すぎたか、と反省しながら前を向くと氷見さんがさらに距離を詰めてきていた。


「ち、近くない?」


「ううん。目の錯覚だと思うよ?」


 氷見さんがにやりと笑って密着してくる。


「ま、まだ素面だよね……?」


 氷見さんはにやりと笑い、「未来とゼロ次会をしてきた」と言う。どうやらそれなりに酔っているが故の行動らしい。


 よく見ると口の近くにこれまでなかったほくろのようなものが増えている。


 俺もそれなりに酔っているので見間違えかもしれない。


 氷見さんに近づいて顔をじっと見る。


 氷見さんは「う……」と照れながら顔をそらした。


「ち、近くない? 目の錯覚かな?」


 氷見さんが慌てながらそう言う。


「あ……ううん。ここに何かついてて……」


 自分の顔の対応する場所を指さしながら氷見さんに教えると、氷見さんは自分でその何かを取った。


「……ゴマ?」


 氷見さんは自分の指についた黒ゴマをパクっと食べた。


「えっ、大丈夫なの!?」


「うん。さっき未来とゴマ塩のおにぎり食べてたから。コンビニの」


「会場は公園?」


「ご名答」


「随分と楽しそうなゼロ次会だね……」


「ちょっと寒かったけどね」


 氷見さんは舌をチロッと出して恥ずかしそうにはにかんだ。


 そのまま横目に俺の方を見てきて、首をかしげる。


「どうしたの?」


「ううん。なんか遠いなって」


「目の錯覚……っていうかさっきまでが近すぎただけだよ!?」


「トナッミアートだね」


「『ナッミ』のところすごくいいづらくない?」


「あー、砺波さんから近づいてくるから期待しちゃったなぁ」


 何を期待していたのかは言ってくれない。俺からもトリックアートボケを期待していたってことなんだろうか。


「そんなにトリックアートしたかったの?」


「ふふっ、そういうとこだよ。近づいたり離れたり。砺波さんってトリックアートみたいな人だよね」


「ギリギリ貶されてる?」


「ううん。ほめてる」


 氷見さんはにやにやしながらグラスを口にする。これはいじってきてるな。


 仕返しに顔を近づけると、氷見さんも負けじと近づけてきた。


「ね、砺波さん」と氷見さんが顔を近づけたまま声をかけてきた。


「何?」


「もしどっちかがピノキオだったとして、嘘をついたらこのまま鼻がぶつかっちゃうね」


 氷見さんの目が笑って細くなる。


「ピノキオの鼻ってぐーんって伸びるんじゃないの?」


「ふふっ、そっか。じゃあこの近さを表現するには不適切だね」


「そうだね」


「うーん……おちょこが挟まるくらいの距離、かな」


 氷見さんが今の自分たちの距離を例えるために目だけをカウンターに向けてそれっぽいものを見つけた。


「じゃあトリックアートじゃなくて徳利アートかな?」


 俺がそう言うと氷見さんは「ぶはっ」と吹き出した。飛沫がもろに顔にかかる。


「ちょ!? 何してるの!?」


「ふふふっ……ずるいよ、砺波さん。それは不意打ち」


 氷見さんが腹を抱えて笑いながらお手拭きを差し出してくれる。ただのおやじギャグなのにここまで受けるとは。


「これでそんなに受けるんだ……」


「いやぁ……砺波さんのそういうところ、本当にいいよね」


「鼻、伸びてるよ」


 俺がそう言うと、氷見さんは「おっと」と言いながらにやりと笑い、グーを鼻に当ててピノキオの真似をしてからパントマイムのように鼻を短くした。


「嘘だったんだ……」


「ううん。本当にいいと思ってるよ……ふふっ……」


 徳利アートで思い出し笑いが止まらなくなったらしく、氷見さんはそのままカウンターの下に崩れていった。


 どうもゼロ次会でだいぶ出来上がっていたらしい。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

立ち飲み居酒屋で鈍めのアラサーおじさんの隣にクーデレダウナー系女子大生が来る話 剃り残し@コミカライズ連載開始 @nuttai

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ