第3話 胎動3

 上を取られ、噛みつこうとする口から涎が飛び散るのを嫌悪する余裕もなく、無我夢中に振り解こうと力を入れた手が宙を切る。

 化け物が力を抜いたのだと気付いた時には塞野の細首は化け物の両の手によって締め上げられた。先の尖った爪は容易く肌を突き破り激痛が走る。


「いっ、やだ……死に、たく……」


 互いに怪我をするような喧嘩も、流血するような怪我もすることなく塞野は生きてきた。

 それは、別段特別なことではないだろう。誰かとぶつかるなら妥協して、事故の類や重い病気に罹ることなく生きてきた。この時代において、それは決して珍しいことではなかった。


 顔色を窺って生きてこれたのだ。

 安全を、安心をそれと思わずとも享受し生きてこれたのだ。


 それもかつての話だ。世界は変わった。変わろうとしている。まだ、世界は変わりきっていない。まだ生まれてさえいないと言ってもいい。大きな変化の波は波濤となってこれから押し寄せることになる。


 波乱の時代を前に、塞野は既にある種の選別を超えたといえる。

 塞野にしろ、現時点において——これからも——推測さえ出来ないことではあるが、半分近くの人類はその在り方を損なった。

 それは人類種に留まらず、動植物全体に言えることだが、あの光を超えてなお自分を維持している生命体は幸運であり、同時に不幸と言えた。


 適性が無ければ生き残れない。

 今の塞野のように悪意を向けられて、退けることが叶わないのであれば死ぬほかないのだ。


 首を抉るように突き立った爪から、血が溢れていくのを首が濡れていく感覚に塞野はどんどんと心が弱くなっていく。


 もう無理だ。跳ね除けるほどの力もない。怖くてたまらない。恐ろしい。死にたくない……。そんな感情が塞野の胸中へじわりと広がっていく。


 目の前に迫る醜悪な顔は悍ましく、涙が溢れてくる。情けない。なんて情けないのだろう僕はと自らの怯懦さに、反抗の意思がへし折れていくのを塞野は感じた。


 もう、嫌だ。とても抗えやしない。死にたくない、死にたくないようと涙で目の前が霞んでいく中で、顔に硬質なものがぶつかり落ちた。


 母の眼鏡。血に塗れた、眼鏡。

 死んだのだろうか。襲われて、逃げ延びたのかも知れない。

 だとしたら、ひどく出血しているに違いない。

 こんな、訳のわからない何かのせいで死ぬことになるなんて、許されていいのだろうか?


 塞野は、心の裡に怯懦を前に燻る感情があるのを感じた。それは怒りであり、恐らくは初めて抱いた害意であり敵意であり、悪意だ。

 相手を殺してでも生き残りたい。

 現代社会において、抱くことがないであろう感情を塞野は受け入れた。

 母が死んだかも知れない。そこまでいかずとも、害されたのだろう。そして今塞野自身も害され、殺されかけようとしている。


 首を絞める両の手を引き離そうと掴んでいた自らの手に塞野は再び力を入れる。

 心持ち一つで何かが変わるとしたら、世界はきっとより良いものになるだろう。それは今であっても変わらない。だが、そうならないのが世界だ。


 変わりはしないが、世界は光に包まれて在り方を変えた。

 今まで通りであったことが何一つないと考えるべきなのだ。

 強大な光の如き隕石が何を齎したのか。

 それは誰しもが命を賭さねばならない、文字通りの生存競争であり、塞野にとっては力の発露である。


 死にたくないから、こいつを殺さなければならない。

 そして、それが出来るだろうという確信に基づいて塞野は自分の首を絞めるその手を強く握りしめた。


『いいね』


 適当に丸めた紙を潰すぐらい容易に化け物の手首が潰れ、握りしめただけで引き千切れた。


 自分の成した異常に戸惑うこともない。耳を掠めた声。鈴の音のような、声が今したのだ。それが何処からのものか塞野には分からない。辺りには自分と化け物だけだ。


 化け物が甲高い叫び声を上げて腕を抱え込んで自分の上から転げ落ちたのを前にして、塞野は邪魔だとばかりに片手で突き飛ばした。


『そうだ、それでいい』


 数メートル、宙を舞って壁に叩きつけられて化け物はぐったりと動きを止めた。


 昂る気を、深呼吸とともに押さえつける。心臓が煩いくらいに鼓動している。生き残った、その実感以上に自分に語りかけるこの声は何か。


『死んでしまえば良い。そう思っていたのだけど、思ったよりも気概がある』


 全身を血が駆け巡る。熱い。血が茹るほどに熱く沸き立つのを塞野は感じた。

 この声だ。この声は毒だ。あまりに心地よく耳朶をうち、まるで旧友のように心に入り込んでくる——


『それはそうだよ。私は、まあ君の家族と言ってもいい』

「誰だ!」


 思わず飛び出した声は裏返っていて、怯えが滲むものだ。訳もわからず親しげに語りかける者がマトモなわけがない。それが危害を齎さないとは何の保証もない。化け物が現れる世界において信用などおけるだろうか。


『ぬるい世界だ。本当に、ぬるくなってしまった。我らがこの星を支配していた時はこうも弱くはなかった。久々の目覚めである。けれど、まあそう長くは起きては居られない。故に、君には理解してもらう必要がある』


 不意に、腕が痛み塞野は気付く。

 両腕が、指先から肘まで真赤に染まっている。血の赤だ。もし雑巾のように絞ったら血がだらだらと垂れ出すだろう。そう思えるほどに、赤い。


 塞野が見るのは色ではなかった。赤い腕のその表面。薄っすらと生える毛も肌の皺も、無くなってそこにあまりに柔らかで、薄くてあり得ないからこそ気付きにくい異常を塞野は捉えていた。


 鱗。そう鱗だ。赤く染まった腕を血が巡るたびに、鱗が浮かんだように見える。


『それこそが、君と私を繋ぐ形だ。何年が経ったのか最早正確には分からないが、畢竟というやつだね。負けるのなんてくだらないだろう?』


 ころころと笑いを含んだ声が、頭を揺らす。

 声を聞くたびに、何かが変わっていくのを塞野は感じる。それが何であるのかは分からない。分からないが、決して悪いものではないと直感する。


(……なんだこれ。力が湧き上がってくる……こんなの普通じゃない。真っ赤に手が、痛くはない。ただ、熱い。でもきっとこれは高揚感だ……)


 困惑する塞野を面白がるような気配が感じられる。近くに居る、そう確信するが何処にも見つけられない。きょろきょろとする塞野をより面白がるような風情がある。


『さてだ、取り敢えずのところあれを仕留めたまえ』


 赤く染まった手から目を離す。壁に凭れ掛かるようにして立ちあがろうとする化け物を塞野は見やる。


(……殺す。そう、殺すしかない。生き物を、殺す。それって凄く怖いことじゃないか。でも、また襲われたら堪ったものじゃない。……昔、爺ちゃんの家で見た鶏の屠殺はあんなにも恐ろしかったのに、今の僕は……ああ、躊躇がない。なんだろう。心にあったそういう物事の良し悪しとかを決める物差しが今まさに壊れつつある……)


『ああ、違うよ君。壊れていくんじゃない。適応しているんだ。生きるというのは適応していくということだからね』


 塞野が近づくと、化け物はびくりと体を震わせた。つい先刻の鳴りは顰め今では怯えを孕んでいるその視線に、塞野は憐れみさえ感じた。

 生き物を殺し得る力を偶々に振われる側に立っただけで、振える側に立っただけで生き死ににが決せられる世界を思い、塞野はぶるりと身を震わせた。


 恐怖に体を強張らせる化け物の頭を塞野は撫でるように触れて、そのまま捻った。本当に何の気もなく。子供の頭を撫でるように優しげなくらい穏やかに。ただそれだけ、化け物の首はぐるりと一回転して捻じ切れた。


 恐ろしい力。慄くべき力である。

 自分のものであっても他者のものであっても、それを直視して塞野は自分の心が慄かないことに疑念を感じる。凄まじい力だ。塞野のろくに鍛えもしていない細腕で掴むだけで人を殺しうる怪力が放たれる。普通であるはずがない。


 尋常ならざる今の自分が、今までの自分以上にあまりにもしっくりくる。それが当たり前だと感じてしまう。自分の体に起きている異変は気掛かりで、向き合わなければならないことに違いない。


 躊躇や身につけた社会規範が、自分の中から無くなっていく。

 それは恐ろしいことだ。社会から存在そのものが逸脱していくようなものだが、もうその社会も存在しない。


 これはきっと、かつての社会にあった塞野の最後の感傷だ。


「……母さん」

『ん? ああ、居ないよ。ここに居るのは君だけだ』


 その声が正しいのだろう。それでもと母さんを探さなくてはいけないと、塞野は家の中を探して、声を張り上げて。誰一人、家の中には居ないことを受け入れた。

 血肉に汚れた居間で塞野は自分自身の思考が明瞭になったのを感じた。


『為すべきを為すのに躊躇いは要らないだろう?』


 変わると、露わになるのでは違う。塞野の情動はなんの隔たりも持ち得ない。剥き身の感情は何一つを隠さず、ただ塞野を表すだろう。


 それを自覚すると同時に強い目眩を感じて塞野は居間のソファーに座り込む。


『さて、先ずは——と言いたいがまあ、後でかな』


 ぐらぐらと視界が揺れ動く。

 あまりにも——眠い。

 塞野は気絶するようにソファーに倒れ込んだ。


『おやすみ。恐らくは、もう安寧は訪れないのだからゆっくり眠るといい』

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骸層宮 遥か昔のエピローグ 由甫 啓 @Yuhukei

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