第2話 胎動2

 光の奔流は地球の内外を問わず全てを包み込み、その表面にある全てを洗い流した——いや、洗い流したというのは実のところ不正確だろう。全てのものが濾過された。


 光はあらゆる生き物の体内を駆け巡り、精査し、その生命の神秘とでも言うべき精密な作りを犯し、血流の代わりとばかりに管を侵し、全ての生き物の在り方を冒した。


 それは僅か数瞬の出来事であり、凄まじい激痛を伴うものであった。

 体の先から先へ無造作に針金を通して玩具のように弄ばれるような悍ましい痛みであり、耳から得体の知れない虫が這いずり、頭の中を駆け巡るような——その極度の痛みに嫌悪、いや何も感じたくないと理性が、本能が叫び声を上げて、在り方を歪めんとする魔の力を前に、全てが死に絶え——


 ——同時、余すことなく目醒め生き換える。



 半ば開いた玄関に蹲るように倒れているのは塞野啓である。

 顔は青褪め、数刻身動ぎも、息さえも止めていたその体は正しく死人のものだ。

 両膝を突き、前のめりに倒れ込む姿はさながら祈りを捧げているように見え、赦しを乞うようにも見える。幼なげな美少年の——少女と誤認されるやもしれない——相貌は苦しみに歪み切り、強張っている。

 それもそのはずだ。塞野の両手は自らを掻き抱くように胸の前で交差しその首を絞めている。指は白み、渾身を以って締め殺さんと縊るその手が、ぴくりと動いた。


「……うっ、がっ」


 気道が潰れ、息が出来ないのだ。


(苦、しい。苦し、い……!)


 喉が奥の方でぴたりと閉じてしまったような感覚に塞野は総毛だつ。

 激しい苦しさに塞野は意識を明瞭とさせ、口を虚に開きながら首を両手で絞めていたことに気付いた。自分の首をへし折らんとばかりに込められた力は両の手を強張らせ、首から離れた後も引き攣りを起こしたように震えている。

 乾いた咳が口から出る度に肺が痛む。


 一体何が起きたのか、どれほどの時間が経ったのか——塞野には皆目検討がつかなかった。ほんの数分の、何時間も、何日も経っていたとしても驚かないほどに体は疲弊し切っていて全身が鈍い痛みを訴えている。


 よろよろと三和土から身を起こして、這いずるように廊下へと身を投げ出す。

 激しく打ち鳴らす心臓が、息をするたびに悲鳴を上げる肺が、筋肉痛のような鈍痛を訴える両の手が、苦痛と共に生を実感させる。

 何かが起きた。何か、恐るべき怪現象によって自分は打ち倒され、昏倒し今覚醒したのだと塞野は考える。


「なに、が……光……そうだ……僕は、何かが落ちるのを——あれは、隕石なんてものじゃなかった——」


 未だ震える指で学生服のポケットから携帯を取り出した。何度付けようとしても、付かない。バッテリーが底を突いているのか、それとも他の要因か塞野には分からない。


 混濁とした感情も廊下に身を横たえて暫くすれば落ち着いてくる。同時、体の不調が徐々に引いていくのを感じた。

 呼吸をし、胸が上下に膨らむたびに体が軽くなっていく。

 それどころではない。寧ろ、凄ぶる調子が良いことに気付く。今なら何処へでも走っていけそうなほどの活力が内から湧き上がってくる。


(隕石。光。その後に何故か分からないけれど気を失って……なんだって僕は自分の首を絞めていたんだ? だのに、今は何でも出来るんじゃないかってくらい体が軽い……気味の悪いことが起こっているのには違いない……)


 ごとり。

 何かが落ちたような音が家の中から響いた。

 思わずひっと息を吸ってから、母に違いないと塞野は気付く。


(卒業式が終わったら、ご飯を食べようって。早めに仕事を切り上げると言っていたっけ……)


 自分と同じように気を失っていて、今し方に気が付いたのだろうと塞野は考えて、兎に角話がしたい。誰かと一緒に居たい。そんな思いから立ち上がろうとして自分が土足であるのに気付いた。

 異常事態であるのに、そんなことを気にしてしまう自分がなんとなく情けなく感じられて塞野は溜息をついた。


 それが良かったのだろう。


 嗅ぎ慣れない匂いがした。

 得体の知れない生臭ささが家の中から漂ってくる。

 黴のすえたような、何かが腐ったような……。


 思わず、靴を脱ごうとした手を止めて塞野は訝しげに廊下の先を見る。

 台所だろうか、それとも居間か。塞野の逡巡を急かすようにまた再び、何かが動く音を聞いた。


 靴なんて気にしている場合じゃない。何かが起こったのだ。得体の知れない現象が自分に起きたように、母にももしかしたら誰にでも何かが起こったのだ。であるなら母が無事であるかを先ず確認すべきだろう——そんなことに今更気付く自分を毒付いて塞野はゆっくりと廊下を歩く。


 居間から音がする。何かを、ごん、ごんと叩く音が曇りガラスの嵌め込まれたドアの向こうから音がする。


 鼻を突く不愉快な臭いもこの先に違いなく、ドアを開ける手にうっすらと汗が滲む。


 伺うようにゆっくりとドアを押し開いていく。

 部屋は外から入り込んだ光に照らされて明るい。気を失ってからそれほど時間が経っていないのだろう。塞野はゆっくりと部屋に踏み込む。


 床が赤黒く、てらてらとぬめっている。

 悪趣味なカーペットのように広げられた血肉が床に円状に撒かれている。塗れている。

 どうすればこのように肉が潰れるのだろう?

 何か強い力で上から押し潰されたのか。それとも何かが弾けたような——


 ——何かが、居る。

 何か、小柄な生き物がこちらに背を向けている。

 人のような肌であるが、土のように茶色く頭の形が奇妙で扁平に見える。手足は妙に細く、後ろからでも痩せ細っているのが分かる。


 臭い。

 この生き物から、腐敗臭のような、長いこと嗅いでいられない耐え難い臭いが漂ってくる。


 潰れたような耳は少し尖っているように見え——ぐるりと首が回って此方を見た。

 目が合い、塞野は思わず刮目した。


 人のようである。鼻は妙に潰れたような鉤鼻であるし、頭部も扁平であるが、人を模したような生き物がこちらを見ている。


 手足は痩せ細ったようなのに腹だけが妙に大きく、口元からは涎が垂れ落ち、その目はやけに黄ばんでいて山羊のように横長の黒目が睨め付けてくる。


 塞野は思わず後ずさり、距離を取る。悍ましき化け物はそれを見て口から垂れる涎を長く青い舌が舐めとった。


(なんだこの化け物は……まるで、餓鬼かなにかだ……人、じゃない。こんな生き物、僕は知らない……)


 後ずさった塞野を、嬲れる獲物だと理解したように汚らしい哄笑を上げて妙に猫背なその体を揺らしながら塞野へと向かってくる。


 腰が抜けそうになるのを必死に堪えながら、塞野は向かってくる化け物を前に逃げ出したいのを必死に堪えていた。


(母さん……母さんは、何処に……)


 化け物が近寄るにつれて、かがみ込んでいた場所が目に入る。

 赤黒い布の山。

 よく見れば、あれは母の着ていたものじゃないか? あの汚らしい爪が赤く汚れているのは……嫌な予感ばかりが塞野の頭を掠める。


 化け物が不意に右手を上げるのに、塞野は思わずを身を固くした。

 握りしめた手に持っていたそれを顔まで持ってきて、無理やりに引っ掛けてニタニタと笑みを浮かべた。


 ひしゃげて割れた眼鏡。それは間違いなく塞野の母のもので、血に汚れたレンズは最悪を容易に想定させ、目を見開いた塞野の隙を逃すことなく化け物は塞野に飛びかかった。


 手足の細さから想像できない程に俊敏な動きに塞野は巻き込まれるように倒れ込む。


 化け物は塞野の上を取ると汚らしい爪を塞野の顔へと突き出してきた。伸びた爪は血に濡れており、その凶悪さを窺わせる。


「やめろぉ! やめてくれ!」


 伸びた手を互いに掴み合う。塞野はごく普通の高校生だった。人との取っ組み合いなど一度もしたことがなければ、殴り合いの喧嘩なんてもっての外だ。

 嗜虐的に口角を上げるこの化け物をどうすれば押しのけれるのか、何も分からずがむしゃらに体を動かす。


 痩せ細ったような手足からは考えられない力強さに、気味の悪さと恐怖が刻々と増していく。

 目の前に迫る黄色い乱杭歯が噛み付かんと目の前に迫るのを塞野は必死に逸らし続ける。


(嗚呼、嫌だ。……嫌だ。こんなのは、厭だ。なんで、こいつはなんなんだ……怖い……恐ろしい化け物め)


 押し込まれていく手は、そのまま自分の寿命を表しているように塞野には思えた。

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