わたしの黒歴史(家庭教師編)

長崎

家庭教師のおもいで

 もう随分前になるが、私の学生時代の話である。当時の私の主な収入源は家庭教師だった。時給2000円、1日2時間と、一般的なアルバイトよりは実入りが良く、業務内容も楽なのでありがたかった。複数人の生徒を受けもって、週に4、5日埋めると無理なく生活できたものだった。


 生徒のS子さんは小学校6年生。お父様はお医者様、お母様はおっとりとして優しげな美人。理想を絵に描いたようなご家庭だった。二人姉妹で、お姉さんは医大受験勉強中だ。ステータスの高い男は美人を娶って、母に似て美しく父に似て賢い子孫を残すんだなあ、と実感するような教え子のS子さん。利発な上に人懐こい彼女の授業は何も思い煩う事無いほどに楽だった。私を慕ってくれて、ある休日にはぶどう狩りに誘われたりもした。

 

 S子さんの授業では毎回、休憩時間にお母様がおやつを勉強部屋に運んで来て下さった。ケーキやドーナツ、サンドイッチなどの軽食にお茶やジュースを添えて。家族を飽きさせない細やかな心遣いが伝わるおもてなしだったと、お母様の年頃に近づきしみじみ思う。

 休憩中はおやつを頂きながらSさんと歓談をした。お互いの学校のこと、好きな漫画やアニメのことなど他愛のない話をした。

 ある日お母様お手製のおやつを頂きながら、S子さんの本棚に「美味しんぼ」が何冊か置いてあるのが目に留まる。

「へえ、『美味しんぼ』読んでるんだ」

「うん」

「面白いよね」

「うん」

「でもさ、私読んでて海原雄山って腹が立ってくるよ」

 念のために書くと海原雄山は主人公の父でありライバルでもある、美食界のラスボス的存在である。

「どうして?」

「アフリカには飢えた人がたくさんいるのに、こいつときたらちょっと味に不満があるだけで「こんなものが食えるか!」って」

 私がアニメの海原雄山の口調を真似しながら力説し出した直後、突如部屋のドアが開けられた。


「お、お、お口に合いませんでしたか…?」


 お母様がオロオロした様子で尋ねられてきたのだ。どうやら「こんなものが食えるか!」が耳に入った…らしい?

 私は生まれて初めて頭の中が真っ白になった。あとはどんな振舞をしたのかはあまり記憶にない。「美味しいです!美味しいです!」と首をブンブン縦に振って強調していたような気がする。気が付いたら自宅にワープしていたような気もする。

 あまりにも恥ずかしかった。自分が傲慢な人間だと思われたみたいで気まずかったし、何よりあんなに美味しいおやつで毎回もてなして下さってたお母様に、悲しい思いをさせてしまった自分が情けなかった。


 後日、いつものようにお母様はおやつを出して下さった。

 あれ以来「実はあの時『美味しんぼ』って漫画の偉そうなキャラクターの真似をしていたら…」ってお母様に誤解を解くタイミングを逸してしまい、一人モヤモヤを抱えてしまっていた。あの時不器用だった私はS子さんに後でうまいこと釈明して欲しいと、お願いすることもできずじまいだった。

 S子さんの小学校卒業とともに家庭教師も卒業した。最終日は何度も感謝を述べられ、給料袋にもお母様のご丁寧な労いのメッセージがしたためられてあった。誤解はうやむやの状態ではあったが、私の事を嫌っていたわけではないのは伝わり、なんだか救われたような気になった。


 昔の思い出の品をまとめたクリアファイルの中には、あの時のぶどう狩りで貰った葉っぱが一枚挟まれている。葉っぱを見るたびに決まって思い出すのはこの苦くて青い一件である。お母様ごめんなさい。

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わたしの黒歴史(家庭教師編) 長崎 @nukopin

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