第16話(最終話) 願いごと
二十二時四十分発の夜行バスにひとり乗り込んだ。東京は梅雨に入ったのか新宿バスターミナルには小雨が降っていた。バスは定刻で発車し、四列シートに詰め込まれた乗客たちは細かな雨粒で互いが接着されたみたいにじっとしている。冷房を強く効かせるには中途半端な気温のせいで、膝に抱えたバックパックが次第に蒸れてくるのを感じながら、もっと荷物を減らすかバスの荷室に預けるんだったと後悔した。曇りの取れる気配がない窓ガラス越しに、高層ビルが煌々と光をたたえているのを非現実的な新鮮さとともに眺めていた。
私は大学を卒業し少女と呼ばれるには歳をとりすぎたし、社会人一年生として大人と呼ばれるにはまだ未熟すぎた。ただ、そんな中途半端な存在から脱却するために初任給の使い道として旅行を選べるようになったことには、少しは自身の成長を感じないでもない。
大学の四年間、山梨の母の実家に引っ越した私はひとりで旅をすることを覚え、山にも登った。山岳部に所属していたからサークルで登ることもあったけど、どちらかというとひとりで登る方が好きだった。黙々と足を動かし発熱した身体と頭で山頂から見る景色に言いようのない興奮と達成感を覚え、同時に、どこか静かに罪を洗った。その儀式に、仲間の存在は雑音にしかならなかった。サークルの先輩と交際していた期間もあったけど、どこか付き合いは義務的で、最後には向こうから振られた。
「俺じゃなくてもいいんだよな、結局」
年齢なりにはいくつかの失敗をし、代わりにひとりでどこへでも行ける図太さを勝ち得た、そんな今だからわかる。高校生の頃に年下の、しかも盲目の男の子と山登りをしたのは顔から火が出るほど浅はかで、自殺行為に等しい逃避行だったに違いない。
腕時計を見る。針は十一時を示している。まだ眠くなるには早い時間だ。懺悔室のように狭く暗い座席に押し込まれていた私は、苦々しい記憶と共にあの日のことを思い出した。
「
「
夢うつつの間に助け出されたわたしが覚えていたのは、父や
わたしたちは夜の十一時頃に救出された。鍵になったのは念のためweb登録しておいた登山届だった。
下山予定時刻から三時間以上経過すると緊急連絡先のメールアドレスに通知されるようになっていて、それにまず父が反応した。管轄の自治体から登山ボランティアや最寄りの警察へ連絡が行き、夜九時から捜索が開始された。私たちが登った山には複数の登山道があって通常特定が難しいのだそうだが、決め手になったのはなんと現地の警察を訪ねてきた愛さんからの情報だった。
愛さんは蓮くんのスマホにこっそりGPSアプリを入れていて、最後に位置情報を送った地点から登山道が特定されたのだ。最終的に滑落ポイントの目印となったのは蓮くんが地面に突き刺した二本のステッキだった。
低体温と足首を骨折していたわたしは翌日、近隣病院で目を覚ました。あたりは夕方になっていて、症状の軽かった蓮くんはすでに退院した後だった。わたしはよほど衰弱していたのか右腕には点滴が繋がれていた。
「遭難したときのこと、聞かせてもらえるかな」
病室に訪ねてきた女性警官からいくつか質問を受けた。
「・・・じゃあ、あくまで偶発的な事故であって、故意に落ちたわけでもなければ事件性もないんだね」
「はい」
「スマートフォンをそのとき紛失、と」
「はい」
「鈴のついたキーホルダーもそのスマートフォンにつけていたのかな」
「・・えっ?」
「身につけていたんでしょう? 一緒にいた目の見えない男の子からも話聞いたよ。その鈴の音を頼りに近くまで行けたんだって。彼の存在がなかったらあなたの命が危なかったかもしれないんだから、ちゃんとお礼言わないとね。それに――」
わたしは、途中から目眩がして警官のことばは次第におぼろげになっていった。なぜなら、わたしはあの日、キーホルダーを身につけてはいなかったから。フィラメの鈴付きキーホルダーは机の引き出しに仕舞いこんだままだった。じゃあ、蓮くんの聞いた鈴の音とはいったいなんだったんだろう。
聞きたいことも、話したいこともたくさんあったけど、それと同じくらい迷惑をかけた気まずさもあった。スマホをなくしていたことも言い訳になって、それ以降蓮くんとは連絡をとっていないし、家を訪ねてもいない。わたしたちの物語はそこで終わりを迎えていた。
あれから五年がたった。
室内灯が消された就寝時間のバスの中で、イヤホンをし隣の乗客に配慮しながらスマートフォンの画面をタップした。動画再生サイトのマイページから自分が投稿した動画を選択する。新しい環境に戸惑うたび、人間関係に悩むたび、遠い地元を、そして目の見えない彼を思い出すたびに、今まで何度再生したかわからない。ふたりで作ったその曲に耳を澄ませる。
今はなき、当時のスマホで録音したピアノの伴奏が深く自分に染み入り、指の先が音と直接つながっていた感覚を鮮明に思い出す。ボーカルはボカロソフトの "
ちいさくて弱虫で どうしようもない僕だ
真っ黒な世界で目を覚まし なにも掴めないまま
でも みんなに会えて変わったんだ
白紙の答案を前にしたとき
蛇口の水を飲み干したとき
なにをしてたって見えるよ みんなの笑顔が
きらいだなんて きらいだなんて もう言えない
孤独に慣れたと 強がっていた僕だ
誰も見ていないと足を止め どこへも行けない
でもみんなに会えて変わったんだ
海岸の砂浜の上
誰もいない公園のベンチ
どこにいたって感じるよ 君の気配が
さびしいなんて さびしいなんて もう言えない
綺麗なもの 醜いもの 泣き 笑い
たくさんの音をイヤホンに閉じ込めた
それは僕らの真実 だから忘れないで
遠く離れた君が泣いているとき 吹き飛ばす風になりたい
恐れ 不安 泣きたくなるような暗闇を越えて
泣きたくなるほど きれいな夜明けだ
君の行く場所に 僕の行く場所に正解があるのか
いつか答え合わせしよう
綺麗なもの 醜いもの 泣き 笑い
たくさんの色をカメラに閉じ込めた
それは僕らの真実 だから忘れないで
光をくれた君が泣いているとき 夜道を照らす星になりたい
" れんP-feat 奏多 "『願いごと』
曲をアップロードした三月の中旬にという季節に歌詞が重なって、卒業ソングのリストに入れられることが多くなった。再生数は次第に伸びていって動画に書き込まれた五年分のコメントが、まるで桜の花が横に降ったあの日のように画面を流れている。
卒業おめでとう
またな~
元気にしてるかな
また明日からテストだる ファイト
ここ泣ける わかる
みんな、卒業おめでとう
今なにしてる?
連絡ください
おめでとう
※
夜行バスのカーテン越しに夜明けが近づいていた。終点の戸倉駅には朝の四時十分に到着。ここからさらにバスを乗り換えて目的地である尾瀬ヶ原を目指す。
駅のトイレで鏡を見たわたしは、薄く引いたアイラインが斜めに流れていることに気づいた。泣きながら寝てしまったのかもしれない。と自分を恥じつつ化粧をやり直す。いつもなら独りで山歩きをするときは化粧をほとんどしないのだけど、今日は特別だった。
六時五分、最奥のバス停に到着し、ここからはいよいよ徒歩だ。はつらつとしたご婦人たちの笑い声に続いてバスを降りる。山登りでもないのに緊張していたのにはわけがあった。
「・・! 結さん、おひさしぶりです?」
「なんで疑問形?というか何でわかった!?」
「それは足音で」
バス停のベンチに腰掛けていた青年は蓮くんだった。伸長は五年前とあまりかわらないように見えるけれど、あのころと比べ髪は短く、声は大人びて聞こえる。
「トレッキング用のステッキは持ってきた?」
「うん。それと結さんと繋ぐゴムロープも。これで一蓮托生だね」
ちゃらけて見せるのは照れ隠しなのだろうか。久々すぎて距離感が掴めない。
「とりあえず行こっか」
「うす」
尾瀬ヶ原までの山道。話したいことは山ほどあったはずなのにいざ会ってみるとなかなか声に出ないもどかしさが歩調を遅くする。
「しばらく階段。下り」
「おけー」
「右手、川 転落注意」
「おす。なんかこの感じ、懐かしいね」
「そだね」
同じバスに乗っていた観光客はちいさく見えるほどに遠ざかって、山間にはふたりの歩く音だけが取り残された。
< あのさ >
ふたり、同時に話しかけてしまう。
「あ、どぞ」
「いや蓮くん先に」
「あ、うん。結さんが連絡くれて、驚いたけど嬉しかった・・です」
「――それはいいけど、動画のコメントに気づかなかったらどうするつもりだったの? 使い方間違ってるよって以前も言ったよね!」
「結さんのラインつかえなくなってたし。気づかれなかったら ま、そんときはそんときかなって」
「も――」
階段を下りきって谷を抜けると、目の前には尾瀬の湿原が見えてくる。そしてその中央には緑の地に橋を渡したような木道が地平の果てまで続いていた。ああ、これがかつて蓮くんの教えてくれた場所なんだと胸がいっぱいになる。
「本格的に尾瀬っぽくなってきた。ここからはずっと木の歩道だからね。肩幅くらい。二本あって右側通行」
「あい」
こんこん、とん こん、とんとん
ステッキが木道を打つ調子に小鳥のさえずりが応える。視界が開け、半分が緑もう半分が青の世界。次第に見えてきた大小の池に山影と青空が映って天と地の境がなくなっていく。
「正面に大きい山。地図には載ってるけどなんて読むのかわからないや」
「結さん国語の先生になったのでは?」
「そうだけど!読めない漢字もあるんだよ。蓮くんだって一応神父でしょう?日曜日に遊んでていいわけ?」
「正確には牧師見習い。といっても学校通いながら教会を手伝ってお小遣いもらってるだけ。だから問題なしです。雇い主はイエスキリスト、月収二万円」
「はは。いい雇い主じゃん。倒産しなさそうだし。わたしなんて教頭がいやなやつでさー。ことあるごとに " 社会人としてちゃんと "ってうるさくって。お前だって社会出たことないだろーって」
はは。と、ふたり笑った声はあのときのままで、なんだか安心する。弾んだ気持ちのまま気軽に問いかけてみる。
「蓮くんにはさ、浮いた話とかないの?」
「う~ん? 浮いた話?はないけど。好きな人はいる、かな」
口より先に心臓が返事をした。
「・・・へえ。どんなひと?」
「やさしいひと。自分と同じで全盲なんだけど、顔がかわいい。ボク面食いなので」
「よくいうよ」
「そういう結さんはどうなん?」
「わたし? 中学校の仕事が多すぎてそれどころじゃないよ。休日も部活あるし出会いもないしさ。だれか紹介して?」
蓮くんがゆっくりと後ろで立ち止まる。わたしはそのタイミングにドキリとする。
「いい、景色ですね」
蓮くんは言った。何を冗談、と振り返ってはっとした。蓮くんは思いに馳せるように顔を上げている。わたしもその方向を見上げてみると、底の抜けたような青だ。目の届く限り湿原は続き、むせかえる緑の匂いが横たわっている。ときおり吹く爽やかな風がシャワーみたいに山向こうから背後へ駆け抜けていく。
「うん。いい景色だね」と、わたしは返した。
蓮くんはポケットからスマホを取り出すとおずおずと頭上に掲げはじめる。
「なにしてるの?」
「撮っとこうと思って、写真」
「見えないのに?」
「誰かに見せられるじゃないですか。行ってきたよって。これ、遠くまで全体はいってます?」
どれどれ、といいつつ顔を寄せると、カメラは自撮りモードになっていて大真面目な蓮くんの口元を映している。わたしは少し考えて、
「――う~ん、もうちょい上。 もうちょい上。 角度も上。いいね、いいよ、そこでボタンおして」
ちいさくシャッター音。
「それ、わたしにもラインで送って」
「なんで」
「いい写真だから」
「ほんとに?やった!」
その場で送られてきた写真には、
うん、ばっちりだ。
頭上を一筋、飛行機雲が通り抜けた。変わっていく風景を止めることはできないけど、変わらないものがひとつくらいあってもいいはずだ。別々の道を歩きはじめたはずのわたしたちだって、今はまた同じ木道を歩いている。
「蓮くん、道から落ちたら泥だらけだからね、ここ」
「落ちたら結さんが助けてくれるんでしょう?」
「えっ、ぜったいやだし!」
ふたり歩く。緑の小道を。わたしたちはどこまでも世間知らずで、どこまでもちっぽけなあの日のままだった。
シーカーズ・ライン ~ぼくらにしか見えない糸~ 林 草多 @hayashisota
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