後編

 旅に出て八日目。

 竜峰に程近い山奥、翼捧よくほうの儀式を行う祭壇へと辿り着きました。

 空へと続くような、迫り出した崖の上。泉で身を清めた私は、旅の間に所々擦れてしまった菫色のドレスから、白い装束へと着替えさせられました。上質で飾りのない布はおそらく、という工夫なのでしょう。


「コウロ様。旅の間、大変お世話になりました」

「仕事ですので」


 私はてっきり、この祭壇に着く前にコウロ様に殺されるものだと思っていました。彼自身が言ったように、この儀式を失敗させようとする勢力がいるなら、人目のないところで襲った方が確実でしょうから。

 けれど、結局何事もなく到着し、つつがなく生贄になろうとしています。

 少し、拍子抜けです。


「騎士よ。ご苦労だった。下がれ」


 顔を布で隠した神官の方がコウロ様を帰らせようとします。


「お待ちください」

「まあ、そう言わず」


 私が咄嗟に上げた声が、コウロ様と重なります。手振りで、どうぞ、と譲り合い、コウロ様から続けました。


「ガキの遣いじゃないんだ。儀式を見届けて、然るべき報告をするところまできっちりやらせてもらわねえと困りますよ」

「私も、コウロ様に見守っていただけると安心です。見てください、この手。まるで怒り狂っている猫のように震えていますでしょう? 脚も生まれたての子鹿より頼りない有様ですの。コウロ様がいないと粗相してしまうかもしれません」


 言っていて情けなくなってきましたが、事実です。

 覚悟していたつもりでしたが、どうしても……死を前にするのは、思っていたより恐ろしいことのようでした。震える手を胸元に握り締めて訴えます。

 そんな私を、コウロ様はどう思ったのでしょうか。甘やかしすぎたと思われていないことを祈ります。


「……いいだろう。邪魔にならぬよう、下がっていよ」

「へいへい。仰せのままに」


 いつものへらりとした笑みで微笑むコウロ様。神官の方が背を向けたところで、こちらに向き直って……手を、取ってくださいました。


「……コウロ様?」

「……申し訳ない」


 何を、と問う暇はありませんでした。強く、痛いほどに握り締められた手は少し熱く感じます。ごつごつした感触は、剣を握り続けた方だからでしょう。瞳には真剣な輝き。無精ひげはいつもの通りですけれど、真剣な表情をすると精悍さがあることに気付きます。

 神官の方が振り向いた頃には手は離れ、コウロ様は飄々とした仕草で遠ざかってしまいます。


(ああ、そうか)


 得心しました。道中ではなく、神官の方がいるここで殺すことで、儀式の失敗をより強く演出するのでしょう。

 そう思うと、震えが止まりました。怖いことは怖いけれど。彼はきっと、竜より優しいはずです。苦しまないようにしてくれるでしょうし、私の命が彼の役に立つのなら悪いことではありません。


「翼に生命を捧げ、偉大なる存在の一鱗となる栄誉を受ける娘。トリエラ・ダントリク、前へ」

「はい」


 崖の先へと歩みます。祭壇は小さな石の寝台という風情で、その周囲は白い花で飾られていました。台に膝をついて座り、胸の前で手を組んで首を垂れます。

 神官の方が笛を吹きました。ヒュゥ、と高い音が空に吸い込まれるように高く鳴ります。何度か笛を鳴らしたところで、強い風が巻き起こりました。


「きゃ」


 崖下から強く吹く風。羽ばたきの音。恐る恐る目を開けると、崖の先に大きな生物が佇んでいました。

 緑色の鱗に、片側だけで私の両腕を伸ばしても足りないくらい大きな翼。長い尻尾。鋭い牙と、小さな黒い瞳。


「竜……」


 初めて見るその姿に、思わずため息をこぼします。獰猛な美しさというべきでしょうか。

 とはいえ、神官の方のお話では、国を守って下さっている竜そのものではないそうです。竜の眷属であり遣いでもある飛竜という種族であり、ゆえに言葉は通じないとか。食べられてしまう前に竜とお話してみたかったので、少し残念ではあります。


「偉大なる存在の眷属よ。我らの感謝と祈りを、翼もて天上へ届け給え」


 神官の方が声を張って、もう一度笛を鳴らしました。

 飛竜が翼を一度打ち、私のそばまで来ました。


 ――怖い。

 ――いやだ。


 そんな感情を飲み込もうと、喉を鳴らした時でした。


「おっと。すまねえな、トカゲくん」


 私の前に立ちはだかる影。

 腰の剣に手をかけているくせに、顔には、いつものへらりとした力ない笑み。


「俺の連れなんだ。勘弁してくださいよ」


 コウロ様を、ぽかんと見上げます。


「な、な、何をしている貴様! 下がらんか!」

「そ、そ、そうですコウロ様! 危ないです!」


 思わず神官の方と一緒に声を上げてしまいました。コウロ様は気にした様子もなく肩をすくめて見せると、すらりと剣を抜き放ちました。

 刃の鈍い輝きを見て、飛竜も彼を邪魔者だと理解したのでしょう。


『シギャア!』


 恐ろしげな声を上げ、鋭い牙を見せつけるようにあぎとを開いて襲い掛かります。

 神話に語られる竜はお城よりも大きいといいます。それと比べれば小さいとはいえ、人と同じくらいの大きさがある飛竜は人の何倍も敏捷で、力強い、竜の眷属。敵うはずがありません。

 だというのに、コウロ様の笑みは変わらず――


「双帝戦争も、コトレッツ退却戦も生き抜いた騎士が」


 剣が閃き。


「トカゲ風情に怯えてるわけにいかねえでしょうよ」


 飛竜が素早く飛び立って避けました。目にも止まらぬような早さだったのに、避けきれなかったのか、脚から血がしぶきます。

 竜の眷属、聖なる遣いを……傷つけたのです。


「なんて、ことを……」


 神官の方が、茫然と呟きました。私も全く同じ気持ちです。

 空からこちらを睥睨する飛竜をひと睨みしてから、コウロ様が私へと向き直り、囁きます。


「儀式を邪魔してすみませんね。そこでしばらく、大人しくしておいてもらえますか、トリエラ様」

「どうして、このような」

「言ったでしょう? 儀式が失敗した方がいい人間も多い。、あんたが生きていた方がいい人間も、ってところで」

「……、コウロ様、後ろ!」

「おおっと」


 混乱しきった私や神官の方と違い、飛竜はコウロ様をしっかりと敵と見定めたようです。高く飛び上がったところから、一気に降下して襲い掛かってきました。

 応じるコウロ様は爪を弾き返し、牙を避け、硬いはずの鱗を切り裂いて反撃します。


「俺は『立派な騎士』らしいんでね……そいつを、嘘にするわけにはいかねえんだ」


 コウロ様も無傷ではいられません。互いに傷つけ合う恐ろしい戦い。それでも、私にもわかるほど、焦っているのは飛竜の方でした。


(どうして? そんなに傷ついてまで、どうして守ってくださるのですか?)


 邪魔にならぬよう口をつぐむ内側で、疑問が渦巻いています。たったひとつわかることは、先ほどの言葉は……どこまでも不器用な、私への気遣いだったということ。

 何やらごまかしていましたが、あのように甘い声で言われて理解しない女などいません。

 でも、ならば、どうして。私を、助けてくださるのか。

 内心の疑問に答えるように、コウロ様が叫びます。それはもしかしたら、彼自身を奮い立たせるために必要な言霊だったのかもしれません。


「騎士なら、守らねえとな。惚れた女――」


 かぁっと頬が赤くなります。


「――の、娘くらいは!」

「ぴぇあ」


 一瞬で落ち着きました。

 なるほど。はい。そういうことですか。ふうん。

 母が私を遺して逝ったのは仕方ないことと受け入れていましたが、これは流石に少々お恨みします、お母様。

 私の内心を知ってか知らずか、コウロ様は鋭く踏み込み、剣を大きく振るいました。全力、だったのでしょう。飛竜は翼を打って避けようとしたようですが、剣の方が一瞬早く届きました。

 ずばん、と恐ろしい音がして、飛竜の首が飛びました。


「ひっ」


 飛び散る血がこちらにまでかかりそうになり、台の上から慌てて後退ります。その声に反応してくださったのか、コウロ様は素早く身を翻してこちらに駆け寄ってくださいました。


「お怪我は」

「な、ないです。コウロ様こそ……たくさん、血が……」

「かすり傷ですよ。立てますか」


 剣を鞘へ収め、こちらへ手を伸ばし……かけて、指先に血がついていることに気付いたのか腰で拭う仕草。その手を私から取って、頼りにして立ち上がりました。

 私を守るためについた血を、どうして避けられましょう。


「き、さま。なんという……ことを。竜の……遣いを……」


 神官の方がよろめき、呻くような声を上げます。無理もありません。真なる竜、偉大なる存在そのものではないとはいえ、その眷属である飛竜を殺してしまったのですから。それも、儀式の場で。

 怒りとも嘆きともつかない声に、コウロ様は答えずに。私の方へ向き直ります。


「選択を」

「はい」

「逃げて、生きますか。生贄となりますか」

「……理由を。どうか、お聞かせください」


 数瞬の間。

 嫌がる沈黙ではなく、覚悟を決めるために必要だったと、表情が物語っていました。ふふ、と思わず笑みがこぼれてしまいました。


「おかしな方。竜を討っておいて、小娘の問いひとつにそんなお顔をなさるなんて」

「……く」


 釣られて、彼も微笑みます。力のない笑みではなく、心底から愉快そうに。


「違いない。……貴女の母親に、随分と世話になったんです、昔。だから、貴女に選択肢を与えたかった。逃げてもいい。生きてもいい。それでも竜に身を捧ぐなら、それもいいでしょう」


 助けたいでも、守りたいでもなく、選択肢をと彼は言いました。その心遣いが、私の胸を焦がします。

 優しさに喜ぶ心と。

 求めてほしいという浅ましい心とがぶつかって、苦しい。


「……なぜ、道中で問うてくれなかったのですか?」

「俺が竜を殺せると言っても、説得力ってやつがないでしょう」


 自嘲する笑みに、なるほど、と頷きます。最初、猫背気味で迫力がないと思ったのを思い出してしまいました。

 今はしっかりと背筋を伸ばし、周囲に気を配っているのがはっきりわかります。血と鋼を纏い、戦いに赴く騎士の姿。


「貴方は、どうなるのですか」

「さて。お尋ね者、で済めばいいが」

「…………わかりました」


 手を握ったまま、私は少しだけ考えます。彼の願い。私の想い。

 ――考えるまでもありませんでした。

 御者台で寝ると決めた時のように、はっきりと告げます。


「コウロ様」

「はい」

「貴方とならば、共に生きたいと思います」

「……あー……そいつは……」


 流石に、はぐらかしはしなかったものの。コウロ様が明らかに困った表情をします。困っている理由のひとつを、神官の方がご丁寧に叫んでくださいました。


「何を言っている、その男は大罪人だ! 遣いたる飛竜を、弑するなど……!」


 そういうことです。コウロ様は自分が罪を被るつもりだったのでしょう。わざわざ儀式を邪魔するなどという派手な行いをしたのもそのため。

 さて、どうしましょう。

 私の選択肢はすでに定まりました。あとは、その選択肢を正しいものとするだけ。


(折角、生贄に選ばれたのですから……それらしいことをしてみましょうか)


「神官様」

「こっちへ、早く来なさい!」

「私はこの方と参ります」


 さりげなく、腕など絡めてみました。


「愚かな! 生贄が、叛逆するなど」

「叛逆など、とんでもありません」


 首を振り、空いた方の手で飛竜の亡骸を示します。


「翼あるもの、偉大なる存在の御遣い。いかな歴戦の騎士といえど、儀式の場で戦い、勝つことができる相手ではありません」


 本当に、飛竜と戦って勝ってしまう人がいるなんて。まるで、英雄譚の騎士のようではないですか。

 ならば。


「私が生きていることこそ、答えです。この結末は、


 竜にも、コウロ様にも申し訳ないですけれど。私だけ生き延びて、コウロ様がお尋ね者などというのは我慢できません。


「何を、馬鹿な!?」

「生贄を食うか食わぬかは竜のみが定めること。それは今日、この場ではなかった。ならば私は、竜に召されるまで待ちましょう。そして竜以外の何者にも害されぬよう、コウロ様に引き続き護衛をお願いいたします」


 神官の方は絶句して、口を開いては閉じ、を繰り返すばかり。咄嗟に考えたにしては、なかなかの文句だったようです。

 手を強く握られた感触。コウロ様を見上げると、優しくも、眩しいものを見るような、不思議な笑顔を浮かべていました。


「……いかがでしょうか」

「光栄、です」

「大いに誇ってください、私の騎士」

「……は、は。敵いませんね、貴女には……貴女の、むぐ」


 いかに親とはいえ、今この時に他の女の存在を口に出させるほど、私は寛容ではありませんでした。人差し指でコウロ様の唇を封じ、微笑みます。


「ところで、か弱い私はそろそろ限界です。恐怖と緊張と安堵で今にも卒倒しそうです。コウロ様、どうか抱き上げてくださいませんか」

「的確なご説明、どうも。それじゃ失礼して」


 ひょい、という音が似合いそうな軽い仕草で、気付けば横向きに抱き上げられていました。絵本の中でお姫様がされる、あの姿勢です。咄嗟に抱き着いた腕は自然と彼の首へ。何てこと、本当にこうなるのですね。

 血の匂いがするのが少々残念ではありますが、騎士としては栄誉と思えば我慢できます。


「とんだ役得だ」

「あら、どちらにとって?」


 微笑んで問いますが、答えはありませんでした。

 つれない方。

 そのまま神官の方の制止を振り切り、儀式の場を後にします。今後のことは……万事抜け目のないコウロ様のことですから、色々考えてくださっているでしょう。


 ともあれ。

 こうして、生贄としての短い旅は終わり。


 彼の花嫁になるための、長い旅路が始まったのでした。


〈お終い〉

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

生贄令嬢の短い旅 橙山 カカオ @chocola1828

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ