おさかなくわえたどら猫

秋犬

おさかなくわえたどら猫

 みゃー

 みゃー

 みゃー

 みゃー


 目の前には4匹の子猫。出産を終えた彼女は生まれたばかりの子猫たちに乳を与えていた。まだ目の開かない子猫たちは必死で乳房に食らいつき、命を繋ごうとしている。


 ああ、なんて可愛い子たちと彼女は子猫たちを舐め回す。乳を吸っては眠りを繰り返す我が子に彼女は目を細める。皆が元気に育ってほしい、と彼女は願う。しかし、人間に飼われているならともかくここは使われていない倉庫の中にあった空のダンボール箱だ。じめじめして変な虫があちこちにいる。暗くて落ち着いてはいるが、あまり良い環境とはいえなかった。


 野良の身分で生まれた子猫たちが全部大人になれるなど彼女は思っていない。様々な最期を遂げた仲間たちを見てきた。ともに生まれた兄弟たちのうち何匹かは大人になる前に冷たくなった。しばらく一緒にいた仲間は毒餌を食べて動かなくなった。この子猫たちの父親は先日車に轢かれた。野良猫の生涯などそんなもんだ。


 それでも、せめてこの子猫たちが幸せであるよう彼女は願う。丹念に舐めてやり、丁寧に世話をする。例えろくでもない死に方をしたとしても、最後の瞬間に母から愛された記憶があれば穏やかに逝けるのではないか、と彼女は思っていた。彼女も自分の母猫から受けた愛情は忘れず、そして子猫を愛しく思う気持ちにかけては何よりも勝っていると信じていた。


 やがて飲まず食わずの体に限界が来た。少しでも子供たちのために乳を出してやらなければならない。彼女はみゃーみゃー鳴く子猫たちを置いて外へ出ていく。悪いものに見つからなければよいのだけど、と彼女は祈ることしか出来なかった。


 フラフラの体を抱えて歩いていくと、魚を焼くいい匂いがする。匂いに釣られて歩いていくと、人間の家の扉が開いていた。不用心だと彼女は思う。そっと中を伺うと、幸い人間の姿は見えない。


 音を立てないように気をつけて彼女は魚を探す。すぐに皿に盛られた焼き魚を彼女は見つける。そして、彼女は目の端にエサ入れと思われる皿が床に置いてあるのを発見した。


 ふん、飼い猫とはいいご身分だと彼女は勝手に憤慨する。この世で憎むべきものは人間と犬と飼い猫だった。小さい頃、彼女はよく飼い猫にいじめられていた。痩せっぽっちの彼女をまるまる太った飼い猫は執拗に追いかけてきた。それ以来、彼女は飼い猫が苦手だった。


 彼女はテーブルに飛び乗ると焼き魚をくわえ、いち早く安全な場に移動しようとした。その時、人間が現れる。彼女は一目散に駆け出す。


「こら泥棒猫、待ちなさーい!」


 鬼のように髪を振り乱した人間が、存外間の抜けた声で追いかけてくる。走りながら彼女は必死で焼き魚をくわえ、どうすれば人間から逃げ切れるかを考える。塀の上に逃げれば楽に逃げられそうだったが、焼き魚が思いのほか重くて飛び上がることが難しい。どこかに細い通路はないかと彼女は走りながら探す。


 既に空腹は限界を通り越し、体は今にも空に飛び上がるのではないかと思うくらい軽くなっていた。そんな限界を超えた状況でも、彼女は足を止める訳にはいかなかった。待っている子猫のために、彼女は倒れそうになるのを堪えて足を前に出し続ける。


 やがて人間は追いかけてくるのを諦めたようだった。彼女は焼き魚をくわえて、とにかく早く子猫たちの元へと急いだ。そして彼女は先程追いかけてきた人間を思い出す。あの人間も同じように子供のためにこの魚を用意したのかもしれない。彼女からすれば憎たらしいだけの人間だったが、同じように子供に情を持っているのかもしれないと思うと急に申し訳なくなってきた。それでも彼女は足を止めるわけにはいかなかった。情や倫理より、何より大事なのは空腹と子供の幸せなのだから。


 巣に戻ると、彼女は子猫たちの熱烈な歓迎を受けた。焼き魚を食べて腹が落ち着いた彼女は、子猫の傍でしばらくウトウトと微睡んだ。やがて子猫の目が開き、狩りを覚えて自分で生きていけるようになるまで、彼女はこの身が滅んでも死ぬわけにはいかないと決意を新たにして、眠りに落ちた。


 その日、彼女は人間に飼われている夢を見た。人間の家族に囲まれて、暖かい部屋で餌をもらって眠る幸せがそこにあった。彼女が目を覚ますと相変わらずじめじめした暗い倉庫であったが、子猫の寝顔で全てが安らいだ。


 母でよかった、と彼女はにゃんと欠伸をした。

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おさかなくわえたどら猫 秋犬 @Anoni

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