君の青春の一欠片になりたい!
stalker
君の青春の一欠片になりたい!
教室が朱色に染められ、穏やかな風が窓の隙間から吹いてくる。
窓側、一番後ろの席。
古典の教科書やノートがそこには無造作に置かれ、開きっぱなしのノートの字には左に行くにつれて、日本語とは思えないミミズの這ったような字が連なっていた。
そうして俺は机にうつ伏せになり、何の役にも立たないノートに涎を垂らしていた。
頬に当たる少し冷たい感触。
それが暗闇から俺の意識を引き摺り出した。
あくびを噛み殺し寝ぼけた頭で状況を整理しようするが、思わぬ光景に我を忘れる。
金髪の女子生徒が、俺の右隣の席で、先までの自分と同じように机に突っ伏して、すやすやと寝息を立てている。
「ふぁ……起きろよ、青羽」
彼女はむくりと起き上がった。
眠そうな顔をしてはいるが、威圧感を与える目つきと、これから来るであろう罵倒の言葉に俺は少し身構える。
「ははは、六限の古典とか寝てくださいって言っているようなもんだよな」
「ん」
「一人ぐらい俺らを起こしにきてくれる奴がいたって良いのにな」
「……」
「そうだ、この後――」
俺の言葉を遮るように、彼女は立ち上がる。
その顔には鬱屈とした表情が浮かんでいて、俺は彼女の機嫌を損なわぬよう、下手くそな愛想笑いを浮かべる。
「――うるさい」
簡潔だった。
彼女は寝ぼけているのか、俺にそっぽを向きながらも答える言葉に棘は無く、ただただ面倒くさそうに口を開いた。
「ご、ごめん」
――青羽伶奈。
顔は知らずとも、この名を知らぬ者は我が秀明高校には居ないとされている、校内で二番目ぐらいの有名人。
……主に悪い方向で。
元々普通科より偏差値の高い特進科に入学した彼女だが、クラスメイトとの不和や教師との軋轢など、様々な要因によって青羽伶奈が学校に来なくなったのが事の発端だ。
そうして青羽は一年生の最後の段階では進級すら危ぶまれた。
しかし、それでいて青羽の両親は雑誌の表紙を飾るほどビジネスにおいて成功した人物で、私立の名門と言われる秀明高校の中でもトップクラスに「お金持ち」だという事実が事態をややこしくした。
学校側も面子を潰さまいと青羽の扱いに苦労したという。
だから出席日数やその他問題行為に目を瞑る代わりに青羽は、こうやって普通科の、三年に上がった今では俺の右隣の席で、授業なぞまともに受けず居眠りばかりしていると言う経緯だった。
――親の金で自分の悪事を握りつぶす性悪女。
それが秀明高校の生徒間での彼女に対する共通認識である。
そういった背景からか、気に入らないクラスメイトを親の威光を借りて退学させただとか、男好きで大学生の彼氏が何人もいるとか、青羽に対する根も葉もない噂が校内には蔓延している。
それでも今はだいぶマシになった方だった。
「まだ居たのか、お前ら」
「梶原先生……」
青羽は唐突に開かれた扉の向こうを見るなり、即座に鞄を持って教室を出ようとする。
「先生方から聞いたぞ。たくさん寝たなあ、青羽? 追試は余裕すぎて勉強する必要なんてないってか、おい。職員会議が終わるまで待ってくれたんだから、当然追試は受けてくよな」
「ちっ」
若い教師らしい、熱意と年相応の苛立ちの籠った声が静かな教室に響く。
青羽はそれでも梶原の言葉を聞き入れる事はなく、俺を一瞥するとさっさと教室を出て行ってしまった。
「全く……」
梶原はため息をつきながら、先程とは真逆の表情を浮かべる。
椅子に座ったまま呆然としていた俺の前に立つと、梶原は穏やかな声色で語り掛けてきた。
「それにしても珍しいな。普段もこの時間に教室の戸締まりをするんだが、大抵は付き合いたてのカップルが人目を憚ってここでイチャコラしてたりで、俺が無理やり追い出すって言う感じなんだが」
「イチャコラって古いですよ、先生」
「ありゃ、マジか」
人好きの良さそうな笑みを浮かべる目の前の男は、我が三年一組の担任であり担当は体育。
常に赤ジャージで身を包み、竹刀でも持てばそれっぽさは半端じゃない。
それに加えて、彼は熱血教師ドラマに憧れて教師になったと言うのだから、最初は誰もが一歩引いた態度を取ったのは必然だったのかもしれない。だが持ち前の人の良さですっかり今では女子からの黄色い歓声をほしいままにする人気っぷりだ。
「机に教科書出しっぱなしじゃないか。勉強でもしてたのか?」
「いや、六限の古典で余りに眠くて……。そしたら授業が終わるのにも気づかずこんな時間まで」
「な、なんだとお前! ……まぁ、こんな時間だし、俺も学生時代は居眠りでよく怒られてたからな、今日のところは説教は勘弁してやるよ」
「す、すんません」
梶原が不思議そうな顔をする。
「ホームルームで叩き起こされなかったか? ……確か佐藤先生に俺の代役を頼んだはずだが」
佐藤。隣のクラスの担任で、定年間近の老年教師。
「まあ、あの先生だったらさっさと用事済ませてすぐ自分の教室戻ってそうですけど」
「それもそうか」
そこで会話は途切れた。
静かな教室に逆戻り、少し気まずいような。
「……青羽とは仲が良いのか?」
予想外の言葉に、俺は一瞬硬直した。
この問いかけの発信源が同年代の人間なら下衆な勘繰りと思っても仕方がないだろうが、相手はあの梶原だ。
すぐに俺は落ち着きを取り戻す。
「仲が良いって言うよりは、俺が一方的に絡んでるだけですけどね」
「そうか……」
「何でそんなことを?」
「いや、まあその何だ……。色々あいつのこと――」
頬をぽりぽりと掻きながら、言いづらそうに言葉を紡ぐ梶原をよそに、教室の扉が再び開かれた。
「――梶原先生、こんなところにいたんすか!」
✴︎
翌日。
ぽろっと溢れでた呟きは周囲の喧騒に呑まれ、ついぞ教壇に立つ梶原へ届くことはなかった。
「居眠りの罰だ。お前確か推薦決まってたよな?」
「は、はあ」
「じゃあ問題ないよな」
「大ありだよッ!」
騒がしい教室が一瞬の間、物音ひとつ聞こえない静かな世界に様変わりしていた。
恐らく俺が梶原に怒鳴ったことが原因だろう。
周囲からの目が痛い。
「大体俺、運営の仕事なんてやった事ないですし」
「そこら辺は大丈夫だ。欲しいのは動かせる人手で、頭を使う方はやる気溢れる一二年に任せればいい」
「で、でも」
「授業中に居眠りなんて、推薦取り消されても文句は」
「やります! やらせてください!」
「そうかそうか。殊勝な心がけだ。出来た生徒を持てて、俺も嬉しいよ」
「……どの口が言ってんだよ」
「すまん、なんて言ってるか聞こえなかったわ」
「あーもう! 何でもないですよ!」
こうした馬鹿らしいやり取りを続けていると、いつの間にか生徒の数はまばらになり、教室には本当の意味での静寂が訪れようとしていた。
クラスの半分ほどは一月からの入試に向けて予備校に通い詰めていると聞く。
残りの半分は俺と同じで推薦で大学が決まった者達。
会話の内容からして、放課後はカラオケに行ったりで遊び呆けてる奴らが大半を占める。
兎に角、わざわざ今の時期は放課後に居残る物好きな奴なんていないと言うことだ。
それも文化祭シーズンがやって来れば、状況はガラリと変わる訳だが。
「今年は結構訳ありでなあ。昨日教室に押しかけてきた後輩覚えてるだろ? あの茶髪の軽薄そうな奴」
「覚えてますけど、教師がそんな風に言っていいんですか……」
「でな」
無視かよ。
「先方との調整やらなんやらで忙しいらしくてな、あいつが誰でもいいから人手を連れてこいって俺に頼み込んで来てたんだよ。それを俺がすっかり忘れていてな」
「おい、今聞き捨てならない台詞があったように思えたんですが?」
「丁度居眠りしてくれた奴がいてな。ほんと助かったわ!」
憎たらしい笑みを浮かべる梶原を横目に、俺は深いため息をついた。
夏休みが終わり、高校生活もいよいよ終盤に差し掛かってきたというのに、思わぬ面倒事が俺の元へと舞い込んできた。
無性に居眠りしていた昨日の愚かな自分を殴りたくなってくる。
……そんなこと、言うまでもなく物理的に不可能なのだが、思わずそんな事を思ってしまうくらいには、この事態に俺は耐え難い理不尽を感じていた。
こうした現実から逃避するかのように、ふと、何となく、窓側の一番後ろの席――――の黒板から見て左隣に俺は視線を向ける。
しかしと言うべきか、そこには当然の如く、机と椅子があるだけだった。
*
私立秀明高校の校舎は三つの棟に分かれている。
それぞれ北棟、中央棟、南棟と呼ばれ、これらで全校生徒約千人という結構な人数を収容している。
真上から見るとヨの字のように見えるこの校舎は、結論から言うと物凄く金が掛かっている。
十年ほど前の改修工事によって伝統ある、悪く言えば古臭い私立名門校の校舎は、現代的で開放的な空間に様変わり。
ガラスがふんだんに使われた校舎は、見栄えだけは良く、毎年ここへ見学に来る受験生は目を輝かせて必ずここに入学してやると息巻くのだ。
しかし現実は厳しいもので、入学してからは付属上がりの生粋のおぼっちゃま達による苛烈なマウント合戦や彼らのイカれた金銭感覚の犠牲になり、一年も経てばこのイカした校舎を見る彼らの目はさながら死んだ魚の目のよう。
そんな我らが庶民の怨念渦巻く建造物を横目に、どうしてこのような事になったのか、俺は額に大量の汗を浮かべながら思考する。
それも校舎に付随するだだっ広い敷地の端にある倉庫から、自分の身長ほどある木材やテント設営用のパイプやら何やらを運ぶ為に何往復もしている内に、辺りは既に薄暗くなっていたからだ。
――ここの倉庫にあるやつ、全部北棟と中央棟の間にある中庭まで運んどいてくださいっす。あ、今日中ですからね。
――おい後藤! あっちの方から電話があって……。
――今度は何だよ……。ああ先輩、とにかく宜しくっす!
件の茶髪の二年生、文化祭運営委員会委員長の後藤裕正の人使いは相当に荒い。
見ず知らずの三年生を一瞬の躊躇いもなくこき使うのだから、大物の器量と言うべきか神経が図太いと言うべきか。
どちらにせよ後藤自身もとてつもなく忙しなさそうに動いているので、俺は文句の一つすら言えやしない。
しかしこうした後輩の姿を見ていると、ふと疑問に思うことがある。
後藤をここまで忙しくさせる何かとは?
梶原も今回の文化祭は訳ありだと言っていたが、それ以上の事は口を閉ざして話そうとはしなかった。
文化祭まではあと一か月というそこそこの期間があるというのに、ここまで急ぐ理由は何なのか。
……まぁ、下っ端の俺に知る由はないか。
「よいしょっと」
中庭の空いたスペースに資材を一通り運び終わると、俺は近くのベンチに座る。
去年まではここに運び込まれた資材を見ながら、「今年も文化祭の季節かあ」と呑気に考えていたのに、まさか自分が運ぶ側の人間になるとは思いもしなかった。
「この量を一人で運ばせるとか、後藤まじで怖えよ」
汗だくの額をブレザーの裾で拭い、襟を引っ張って制服の中に新鮮な冷たい空気を送り込む。
ある程度体内から熱が抜けていくと、意味もなくローファーの底でとんとんリズムを鳴らしてみたり、街中で聴こえてくる失恋ソングを鼻歌でカバーしてみたりして。
運動部の掛け声や吹奏楽部の演奏が混じり合い、夕暮れ時の辺り一面が暗くなっていく様子と相まって、何だか俺は無性に切ない気分になる。
三年間帰宅部だった俺にとって、この光景は初めて見るものだったから。
あと数ヶ月もすれば、俺はこの場所とは何も関係がなくなる、いわば部外者になるのだから、少しくらいの感傷は許されて欲しいものだ。
――とりゃっ
凛とした少女の声が俺の背後から発せられると同時に、首筋に何か冷たい物が当てられた。
「冷たッ!」
円柱状の、感触からして金属だろうか、ともかくそれは俺の熱った身体には冷たすぎる代物で、思わず素っ頓狂な声が出てしまう。
後ろから聞こえてくる、くすくすと笑う声は、この際意識の外へ追いやる事にした。
そうして三十秒か、はたまた十秒にも満たないかもしれない。
首から血液を通して、ひんやりとした感覚が全身を支配する。
存外にそれは心地がよくて、俺は今のおかしな状況を受け入れるどころか、湯船に身体を沈めていくジジイのような間の抜けた声を出していた。
すると首にあった冷たい感触は消え去り、俺の眼前には微糖の缶コーヒーが出現する。
それは校内の自販機で、今時珍しい百円というお手軽な値段で買える種類の缶コーヒーだから、俺も愛飲していた。
それに余計なコインを自販機に投入する手間も省けるからな。
「一人で大変そうだったね」
二度目に聞く彼女の声は、酷く愉しげで、何がそんなに面白いのだろう、と俺は不思議に思った。
顔が見えないから何とも言えないけれど、異性からこういった態度を取られたら思わず惚れてしまいそうになる。
いや、割とマジで。
「お見苦しいところを」
俺は差し出された缶コーヒーを手に取る。
ぷしゅっと空気の抜けた音がすると、珈琲の香りが漂ってくるような気がしないでもなかった。
「もうすぐ卒業だと思うと、何だか悲しくなってきちゃって……。だから特に意味もなく校内を散歩してたら、偶然あなたを見かけたの」
「それは奇遇だ、俺も今ちょうどセンチメンタルな気分に浸っていたところだった」
顔は見えない、だけど間近に感じる彼女の気配を背中で一身に受けながら、少しばかり格好つけた言い回しで答えてみる。
けれど言ったそばから恥ずかしくなってきて、これ以上の黒歴史を増やさない為にも、俺は受け取った缶コーヒーで口を塞いだ。
「ここにあるのって、文化祭で使うもの?」
「そうみたいだけど、詳しい事は何も知らないんだ。俺って下っ端の下っ端だから」
「へぇ、そうなんだ」
「そうなんだって、毎年のことだろ。ここが文化祭期間中は物置になってるの」
「私あんまり学校に来られてないから、こういうのよく分からないんだよね」
背後の少女はまさかの不登校児だったらしい。
それも筋金入りの。
話をしている感じから、社交的で活発なクラスの中心にいそうな類の人間なのに、人の抱える闇は深いということか。
「……悩みがあるなら、相談乗るけど」
後頭部にちょっとした衝撃が走る。
デコピンだった。
「人を腫物扱いしない!」
「い、いや……はあ?」
「その、私が学校に来れてなかったのは仕事のせいだから!」
「あ、そうなのか……」
つまり、俺が想像しているよりもずっと大変な思いを彼女はしていたということだろう。ボロアパートで病気がちな母親の代わりにアルバイトをして生活費を稼ぐ健気な少女。さらに彼女には食い盛りの弟もいて、なおさら後には退けぬ状況――
そんな光景を想像し、俺は自分を恥じた。失礼な発言を謝罪しようと首を回すと、その途中で頭をがっちりと掴まれてしまう。
「これはどういう……?」
「なんだか君って小動物みたいだよね」
「え? 俺褒められてるの」
なんだか微妙に嬉しくない……。
「こうさ、子猫や兎がぴょこぴょこしてるのって見てるだけで癒されるでしょ?」
「はあ、その気持ちはわかるけど」
「だから私の正体は今のところ知られるわけにはいかないの。わかるでしょ」
「いえわかりませんけど」
「要するに君の驚く顔が見たいってことだよ」
「うんやっぱりわからない」
この人は一体何を言いたいのだろう。
そうだなあ、と彼女の悩ましげな声が聞こえてくる。
「じゃあ……このまま振り向かなかったら、今度なんでもお願いを聞いてあげる」
「マジで!?」
俺は歓喜する。一生異性とは縁がないと決めつけていたが、ついに我が世の春が……。口にするのも悍ましいピンク色の妄想を脳内で繰り広げていると、
「あ……もうこんな時間……」
「膝枕……胸枕……谷枕……」
「なんか聞き捨てならない言葉が聞こえてきたけど、私もう戻らなきゃいけないみたいだから……さらば下っ端くん――」
そうして、顔も名前も知らない彼女の足音が遠ざかっていく。
――おっぱい、おっぱい、おっぱい!
だけど俺は前方上半身直立の姿勢で、ただ思いつく限りの欲望を九月暮の茜空にぶつけるのだった。
*
「芸能人だと……?」
文化祭実行委員長にして俺の後輩である後藤は、こちらに顔を向けることなく面倒くさそうに答えた。
「そうっすよ。皆んなてんてこ舞いなのはそのせいで、会場のキャパがオーバーしないよう特別な設営を行う為の資材を先輩に運んでもらったっす」
「まだ一月もあるのに、そんなに備える必要あるのか?」
話によると、どうやら文化祭に有名人を呼んで大掛かりなイベントをやるらしい。校内が慌ただしいのはそれが原因だった。
すると文化祭実行委員長様はようやく俺を視界に入れた。
「何を言ってるんですか……もしもの事態に備えるのが俺達の仕事でしょう。後から後悔しないように今できることをするんです!」
「あ、ああ……そうだよな。俺、グラウンドの奴ら手伝ってくるわ」
「助かります。――ってお前ら!? それは体育館に運べって言っただろ!」
「…………」
一個下の後輩の正論をぶちかまされた俺はとぼとぼとその場を立ち去る。
なんだか疎外感が半端じゃない。てか、大半の三年生は文化祭になんか構ってないで各々勝手にやってるわけだけど。思えばこういう行事に俺が積極的に参加したことはなかったし、このなんとも言い難い微妙な感情はそのせいなのかもしれない。少なくとも、一年生や二年生の時にやることやってた奴らはこんな思いをしなかったはずだ。
ただただ後藤の目が痛かった。これじゃ先輩失格だ。
「うお……腰がバキバキ」
またもや重労働を強いられた俺はぼろぼろの身体で教室に戻る。
特に用があったわけじゃない。今日はあいついるかな、とやけに当たってしまう直感がびんびんに働いていたからだ。
「たく……また寝てやがる」
金髪がトレードマークの青羽は頬っぺたに髪の毛を垂らしてすやすやと眠りこけていた。普段の剣呑な雰囲気に比べれば、青羽の寝顔は実に可愛らしいものである。いつもこんな顔をしていれば少しは敵も減るだろうに。
「本当に一体こいつは何と戦ってるんだか」
青羽は印象も評判も最悪だが最近は学校もしっかりと通っている。出席日数の兼ね合いもあるし、留年は流石にやばいと思っているのだろう。
そう考えると、この間会った彼女は学校にもほとんど来ていなかったというし、もしかしたら俺の年上という可能性があったわけだ。
「――お姉さんプレイもいいな……」
そんなことを口走っていたら、むくりと青羽が起き上がってきた。
「変態」
「な! 起きてたのかよ」
「アンタはその空気よりも軽い口をまずなんとかしたら」
絵に描くようなジト目。
「男子高校生のリビドーをなめちゃいかん」
「はあ? 気持ち悪い。帰る」
「待て待て待て! 俺が悪かったから!」
鞄を肩にかけた青羽が足を止める。
幸いにも彼女の瞳に軽蔑の色は見えない。
「……良い加減アンタもさ、あたしみたいな人間と関わるのやめたら。推薦もらったんでしょ」
「推薦って大学のことか? それと青羽のことと何が関係あるんだよ」
「…………」
「お、おい」
「分からないならいい!」
つくづくわからない。女子との会話というものは思っていた以上に難解なのかもしれない。
「とにかく他人に母性を感じるのは勝手だけどその薄汚い欲望をあたしに向けないでくれる」
「だから悪かったよ……」
確かに自分でも「お姉さんプレイもいいなグヘヘ」はなかったなと思う。
うん、やっぱ普通にキモいわ。
俺は話題を強引に変える。
「し、知ってるか? 文化祭に有名人が来るらしいぞ! 誰が来るんだろうな……」
「興味ない」
「相変わらずの無頓着さに敬服するわ。文化祭も俺達にとっちゃ今年で最後なんだぞ」
「そうね。今年で最後だと思うと清々する」
「クソ、こいつ相当に捻くれてやがる……!」
悲しいことに、俺も文化祭自体に良い思い出はない。一緒に回ろうと約束してた友達が音信不通になったと思ったらなんか他校の女子にナンパされてやがったり、屋台で食ったタコ焼きでなぜか俺だけ腹を下す羽目になったり、そうやって気づいたら終わっていた。
今年こそはなんて思えるほどの希望はもう残っちゃいない。三年生は文化祭を機に自由登校が始まる。そうすると授業のほとんどは自習になって、予備校やらなんやらで教室も寂しくなることだろう。
そんな状況で青羽なんか絶対に学校をフケるに決まっている。
「あたし……知ってるよ」
考え込んでいると、青羽が意外にも口を開いた。
「え? なにが?」
「だから文化祭に来る有名人のこと」
「知ってるのか!? 後藤に聞いても全然教えてくれないしさ」
「小耳に挟んだだけ」
「で、誰なんだよ?」
待ってましたとばかりに青羽が胸の前で腕を組む。まるでスーパーヒーローのような風格だが仏頂面は変わらずなので似合っていない。
だが俺は餌を待つ犬のように鼻息荒く青羽の答えを待った。気になるものは気になるのだ。
「教えない」
俺は地面に崩れ落ちた。
「なんだよそれ! 生殺しだ!」
「タダで教えるわけないじゃない。でもそう……なんでも言うこと聞くって言うなら、教えてあげようかな」
……また「なんでも言うこと聞く」お願いかよ。しかも今度は立場が逆だし。なにこれ流行ってんの?
「うん……どうせ文化祭は出席日数的に行かないとヤバいし、そこであたしの退屈を紛らわせてくれたらいいよ」
「けどそれじゃあ意味なくないか。文化祭始まっちゃってるじゃん」
「そのイベントをやるのは文化祭が一般開放される最終日の三日目。これでも、他のヤツらよりは早く知れると思うけど」
落ち着け俺……発想の転換だ。つまりこれって女子と文化祭を回るチャンスじゃないか。
「ま、まあ。しょうがないから受けてたってやるぜ」
「なにそれ生意気……て、アンタに今更なに言ったって無駄か」
それから俺はルンルン気分で家に帰り、溜まっていた疲れも吹き飛んでいた。残り消化試合だった学校も少しは面白くなりそうだ、と一ヶ月後の文化祭に想いを馳せる。
朝起きて顔洗って制服に着替えて、学校に来たら青羽に絡んで、そうやって俺の何気ない日常は過ぎていった。
*
廊下を歩いていると、一際目立つ女子がいた。文化祭を間近に浮き足だった雰囲気が校内には充満しているが、その中でも彼女は周りからの視線を一身に受けていた。
――今日は学校来てるんだ……
――いつ見ても可愛いよなあ、文化祭来るのかな。
――毎年この時期はほとんど学校に来れてなかったみたいだし、それはないだろ。
――だよなあ……下手したら卒業式まで会えないかもって考えると悲しいわ。
その女子の周りだけ空気が違う。やけにキラキラして見えるのだ。普段テレビ越しでしか見ることのない国民的スターの同級生の姿に俺は釘付けになる。
「――っ」
すぐ横を通り過ぎていく瞬間、何故か彼女と目が会ったような気がした。
「……ま、気のせいか」
*
俺と青羽が出会ったのは、三年に上がってすぐの頃。
その頃のあいつは今よりずっと周囲から浮いていて、嫌われていた。教師にはタメ口で授業中に指されても無視するし、それで逆上されて授業が潰れるなんて日常茶飯事だったのだ。そんな傍迷惑な存在に良い印象を持つやつなんていなくて。
だけど俺は日和見を貫いた。正直、最初は青羽に興味なんてなかったんだ。面倒くさいやつがいると思っていただけだった。
きっかけが何だったのかはよく覚えていない。とにかく青羽と話すようになってから、あいつに対する印象は変わった。いつも不機嫌で取っ付きづらいのはそうだが、皆の言うような悪事を働いているような人間だとも思えなかった。
そういう部分を俺はクラスのやつらにも知って欲しかったんだと思う。だから俺は青羽にしつこく話しかけてはその容赦ない物言いに撃沈されるのを繰り返した。そうしていくと徐々に周囲の見る目も良い方向に変化していった。
あいつもあいつでちょっとは丸くなったように感じる。自分が好かれているとは到底思えないが、あの青羽が俺をほんの少しだけ信頼してくれている気がした。それが嬉しくて俺はもっと青羽に構ってしまうのだ。まあ、不良に捨て猫的なアレだ。
こうやって思い出に浸ってしまうのも終わりが近いからなんだろう。日が沈みそうな空の下を俺は文化祭実行委員として練り歩く。ついに明日から文化祭だ。俺の役目は校内に人が残っていないか確認すること。
徹夜でクラスの出し物を完成させようとするもはや手遅れの何者でもない無茶な野郎どもを叩き出し、物陰でひそひそごそごそしているカップルを締め出し、ようやく明日への準備が整ってくる。
と、そこで中庭に人影を見つける。そういえば、あそこは――
「すみません。そろそろ下校時刻なんで」
「え? ああ……ごめんなさい」
ベンチに座っていた女子生徒はきょとんとした顔でこちらを見た。よほど話しかけられるのが意外だったのだろう。
……ていうか、まさかこの人。
「三崎……さん?」
思わず名前を口に出してしまう。
「え? 私のこと知ってるの? ……て、まあ知らないわけないよね」
三崎美夜。その名を聞いたことのない人間は世捨て人ぐらいなものだろう。アイドル兼シンガーとして世間から熱狂的な支持を得ている、いわゆるスター。そして驚くことに、我が校の生徒でもある。
そりゃあいくらアイドルだからって学校には通うだろうが、俺みたいな一般人とあの三崎美夜の生きる世界が交わるなんてどんな確率だよと入学当初は呆れたものだった。しかし結局は三年間彼女と同じクラスになることもなく俺の平凡な人生はつづかなく続いていくという救いのない現実。
「もしかして実行委員の方ですか?」
立ち上がった三崎さんが笑顔で話しかけてくる。やっべえなにこれ。こんな展開予想してなかったんですけど。
「ええまあ、下っ端の下っ端ですけどね」
「ふふっ……おかしい」
「あれ、なんか面白いこと言いました?」
「いや……なんで敬語なのかなって」
初対面の女の子にタメ口はハードルが高すぎる。相手が三崎美夜ときたら尚更だ。
すると何故だか唐突に彼女は慌て出して、
「ほ、ほら、この前三年生の教室の廊下で会ったでしょ。だから同じ学年かなって」
あれは俺の気のせいじゃなかったのか……!
ならば少しでも格好をつけるために俺は咳払いをし臨戦体制に入る。
「……よく覚えてたな。記憶の限りじゃ、ただすれ違っただけだった気がするけど」
「私って人の顔覚えるの得意なんだ。芸能界ってそういうの大事だし」
お、大人って感じがする。やはり彼女と俺じゃあ見ている景色が違うのだろう。彼女にとって俺はただのガキでしかないのだ。そう考えると男の何か大事なモノが急激に萎んでいく。
「三崎さんはこんなところで何をしてたんだ?」
そう訊くと、彼女は考え込む表情を見せた。何か事情があったのかと俺は慌てる。世間に隠れて禁断の恋……みたいなパターンもなくはないだろう。ここには週刊誌の記者だって入り込めない。しかしだとしたらあの三崎美夜に待ちぼうけを食らわせる男は一体何者なんだろうか。クソ、その立場羨ましすぎる。
「ごめん。興味本位で不躾だった。全然無視してもらっても大丈夫だから」
「違うの……ただなんとなくっていうか。強いていうなら、卒業も近いし学校を一度ちゃんと見ておきたかったの」
そう言って彼女は少し笑った。
「そっか。三崎さんは色々忙しいものな」
「大変だと思ったことはないけど、本当にこのままでいいのかーって最近は考えるようになっちゃって」
「その気持ちは……わかるよ。三崎さんでもそう思うのか」
何者でもない自分。けどこの時期になれば先も現実も見えてくる。刻々と過ぎ行く時間は俺の限界を告げ、成す術もなくその背中を見送るしかない。
彼女は違う。誰もが羨む大きな舞台に立って、彼女にしか出来ないことを成し遂げている。正直、彼女の言葉に共感してはいけないような気がした。
「でしょ。私って案外普通なんだよ」
「君が言うと嫌味に聞こえないな」
「本当のことだから。みんなが思う私ってすごく綺麗で現実離れしていて……そんなのありえないのよ。私を同じ人間だと思っていないから、平気でブスとかネットに書いちゃうんだ」
「そういうの気にするんだな」
「当たり前! 傷つくものは傷つくの!」
そうか。俺が思っていたより彼女は「普通」だったんだな。
「馬鹿みたいに思った? 些細なことで怒って」
「いや、正当な怒りだと思う。我慢することでもない」
「そうなのかな……あーあ、こんなこと話すつもりじゃなかったんだけどな」
「俺は、そうやって自分ことを話してくれたのは素直に嬉しいと思ったけどな。初対面も同然だけどさ、だからこそ話せることってのもあると思うんだよ」
なんだか口説いているみたいで気恥ずかしい。まあ俺みたいなのが相手にされるわけがないのだから気にする必要もないだろう。
すると突然、背後から声がした。
「――美夜! こんなところにいたのか!」
バレちゃった、と彼女は舌を出す。呆気に取られた俺は声のもとへ駆け出す彼女の後ろ姿を黙って眺めていることしかできない。だがそれで終わりではなかった。彼女は途中で振り返って、
「――今度会ったら、その時は私の話を聞いてね……実行委員さん」
俺はその時、確かに三崎美夜に見惚れていたのだ。作り物じゃない、本当の彼女に。
*
文化祭の当日はどこもかしこも人で賑わっていた。各教室ではクラスの出し物として喫茶店やらお化け屋敷など定番どころから、理系選択のクラスではなかなか凝ったゲームを楽しむことができた。
ところが一緒に回った青羽は満足していないようで、テラスで休んでいる間も口を尖らせていた。
「何が不満なんだよ」
「全部」
「相変わらずの辛口評価をありがとうな」
この女を満足させるには生半可なことをしていては駄目なんだろう。かといって普通に文化祭を回って普通に文化祭を楽しむぐらいのことしか俺には思いつかない。こいつは存在自体が特殊みたいなもんだし、逆に良い塩梅になるかと思ったんだが肝心の青羽はそう単純ではなかったという安直すぎるオチだった。もはや打つ手なし。
「前々から思ってたけど、アンタって絶対モテないよね」
「は、はあ……!? どうして俺がモテないなんて話になるんだよ」
大体……俺が「そういう」話をしたっていつも興味ないの一点張りだったくせに。
「俺だって女子から告白されたことあるんだぞ!」
「ふん……幼稚園の頃の話?」
「ちげーよ。中学時代!」
「意外、そいつ見る目ないね」
「……否定はできない。その娘とは仲が良かったから喜んでオーケーしたけど、一ヶ月後にはやっぱり友達でいようって振られたからな。理由聞いても、思ってたのとなんか違ったって、今思い出すだけでも泣きそうだわ」
「……なにそれ……ふふふっ」
腹を抑えて青羽は机に突っ伏した。少々はしたない仕草だが、頬にかかる髪が妙に色っぽくて俺は目を逸らしてしまう。デジャブを感じた。そういえば俺が文化祭の実行委員なんてやる羽目になったのも、こいつの寝顔を見たのが始まりだった。あの時の毒の抜けた表情と、今の青羽は少し重なって見えた。俺の失恋も無駄ではなかったのかもしれない。
「ふふっ……アンタは『友達』が一番似合う男だよ」
「うるせえ。じゃあ青羽はどうなんだよ」
「あたし……? さあ、まあ、ぼちぼち」
「どうせお前も一ヶ月ぐらいしか続いたことないんだろ! 無愛想だし――って痛!?」
机の下で脛を思いきり蹴られる。
「いきなりなにすんだよ」
「馬鹿なこと言うから。ていうか死ね」
「そこまで怒らなくてもいいだろ……」
痛みに悶える。これは痣ができるレベルだ。
「じゃあ逆に聞くけど、俺はどうすれば青羽を喜ばせられたんだ」
「そんなの自分で考えれば?」
「うわ、出たよ理不尽」
退屈を紛らわすといっても、青羽は常に何事にもつまんなそうな顔してるやつだから不可能な気がしてきた。
双方の気持ちが同じ方向に向かなければ、いくら女の子との文化祭デートだとしても苦痛を伴うだろう。空回っている自覚はあった。無理にそうしようとすればするほど、今までの自然体を忘れてしまう。
助け舟を出してくれたのは意外にも青羽の方だった。
「なんでも頼みを聞くってお願い……内容を少し変えたいんだけど」
「……? 別に良いけど」
「その……アンタも……」
「口ごもってどうしたんだよ」
「とにかく今日のアンタは気色悪かったから明日はそういうのやめて」
青葉が勢いよく立ち上がる。
「おいどこに行くんだよ!?」
「あたしこれから予定あるから」
「聞いてない! それと明日ってなに!?」
俺の問いかけは無視され、空気に掻き消えた。
「たく……」
どうやら明日へと持ち越されたらしい俺のチャレンジのために、もう一度校内を回る。一日で回れるほどの量ではないし、ネタ切れは回避できる。あいつが喜びそうなものというよりは、今度は俺の興味の向きそうな出し物をチェックすることにした。
結局のところ青羽の気を引いて得られるのは文化祭に来るという芸能人の情報だけ。後藤をはじめとした文化祭運営のもとで厳重に情報統制されているらしいその情報をなぜ青羽が知っているのかはよく分からないが、あいつがこんなことで嘘をつくタイプでもないことは俺もよく知っている。
「あ、先輩」
廊下で後藤とすれ違った。
「順調そうだな」
「そうっすね。山場は一般開放される明後日なんで。今日は平和なものですよ」
それは何よりだ。ちなみに俺は三年生特権で一日目と二日目の文化祭実行委員の仕事を免除されている。というか三年生の実行委員が俺だけなのである。
「思えば先輩には助けられましたね」
「ははっ、あまり褒めるなよ」
「実働部隊の三年生ってなかなかいないじゃないすか。どうせあと半年したらいなくなってるから後腐れなく存分にコキ使えるのすごくありがたかったっすよ」
「……なかなかお前には経営者の才能があるらしい。その調子で頑張れよ……」
「うっす」
本当に将来有望なやつだな。
「ま、先輩としては頼りないかもしれないけど、泥臭いことは俺の領分だ。土下座でもなんでもするから、困った時は頼ってくれよ」
「もちろんっす。それじゃあ行きますね」
後藤と別れ、明日の予定を大方決めてのんびりしていると、一日目の文化祭の終わりを告げるチャイムが鳴る。その頃には空も暗くなっていて、なんとなくあの学校にほとんど来ていないという謎に満ちた苦学生と出会ったベンチに足を運んだ。
そこには誰もおらず昼間の喧騒が嘘のようだった。俺はベンチに座り、冷たい空気を吸い込む。その瞬間もっと冷たい物が首筋に当てられた。丸い、金属の感触。
「――うわ冷たい!?」
「相変わらず良い驚きっぷりだね」
「……あんたか。心臓に悪いからやめてくれ」
目の前にぶら下がっているのは微糖の缶コーヒーだ。あの時と同じ展開にあって気づかないほど俺は鈍くない。背後のいたずら好きがしてやったりとにやにやしているだろうことは見なくてもわかる。
「久しぶり。元気してた?」
「けっこう大変だったよ。人使いの荒い上司様がいたからな」
「そうなんだ。お疲れさまだね、下っ端実行委員くん」
悪戯っぽい声は間違いなくあの子のもの。会うのは一月ぶりぐらいか。俺的には気心の知れた友達と話す気分だ。顔も名前も知らないけど……。
「そろそろ……振り返ってもいいか?」
俺は無意識にそう告げていた。普通に話してみたいと思っていたのだろう。
「いいよ」
「う、えらくあっさりだな。逆に緊張する」
「そんな気構えなくてもいいよ」
「そう言われたって……」
「いいからいいから。見たらわかるよ」
恐る恐る、俺は顔を後ろに向けた。
そこにあったのは――。
「って――マスクに帽子に挙げ句サングラスは流石に予想の範疇を超えてる!?」
声的に女子であることは分かりきっていたが、制服にスカートという情報以上のものは何も得らない。なにせ顔面は覆い隠され、さながら平安貴族のような奥ゆかしさである。しかしその姿で校内を歩く強かさはそれとは対極の心臓に毛が生えたような図太さ。
彼女はとてとてと俺の横まで来て、何事もなかったかのようにベンチに座った。視線が不意に下がる。すらっとした手足はスタイルが良いんだろうなと思わせる。もしかしたら肉体労働系のバイトをしていて鍛えられているのかもしれない。ちゃんと学校に来てたら男からさぞかし人気だっただろう。
「で、なんだよその格好は」
「あ、これ? 似合ってるでしょ」
「似合ってるも何も普通に不審者だから。よくそれで誰にも止められなかったな。まっ……まさか、この前会ったときもその格好だったのか!?」
「はははっ、バレたか」
いや待て待て。割とショッキングな真実に俺は沈黙する。背後に立つ覆面女……。
すると唐突に彼女は真剣な声で、
「あのね、私、こう見えて重度の人見知りなんだ……」
「え……」
「人からの視線にすごく敏感になっちゃうんだ。見られるわけにはいかないから、こうして隠してるの」
対人恐怖症ってやつだろうか。俺は自分を恥じた。そんな事情があったなんて、考えもしなかった。
「けど、それじゃあ仕事はどうしてるんだよ。その格好でアルバイトなんか行ったら即クビだろ」
「えっ……仕事だとスイッチが入ってなんか平気になるというか」
「そっか……生活かかってるもんな……」
ふう、と彼女は溜息をついた。色々苦労も絶えないんだろう。それでも今日ここにいるってことは、文化祭で少しは息抜きすることができたのかもしれない。
だが俺は妥協しない。約束は約束だ。きっちり対価は支払ってもらおう。
「…………」
やばい。どう切り出せばいいか分からない。というか何をお願いすれば良いのかすら分からなくなってきた。
なんでもお願いを聞いてくれるという彼女の言葉。当然のように邪な男子高校生的衝動をぶつけようと思ったのだが、よくよく考えたらそれって犯罪じゃね?
――ていうか……。
俺はそっと横を見た。季節が変わり、自販機に売られている缶コーヒーはアイスからホットへ、赤い表示が目立つ頃合い。俺の首筋に当てられ、今彼女の手に握られているそれは凍えるような外気に曝され続けたみたいに冷え切っていた。
彼女の指先は細く赤みがかっていた。そして、少し震えている。マスクとサングラスの下に隠された顔は、果たして笑っているのだろうか。それとも……いや、それは俺が首を突っ込んでいいようなものじゃないだろう。
「――膝枕、してあげよっか?」
「え?」
「前、してほしいって言ってたじゃない。なんでもお願い聞いてあげるって話。でも、さすがにこっちは無理だけど……」
そう言って、彼女は胸のあたりに手を当てた。
おい、なんだこの微妙な空気は。そして俺はどうして赤面してあさっての方向を向いているのだ。
「わ、忘れてくれ! やっぱなし!」
「どうして? 私もけっこう楽しみにしてたんだけどな。膝枕するの」
「もしかして変態!?」
「違うよ! ああもう焦ったいなあ――!」
突然、視界が九十度回転する。頭を掴まれ、引っ張られたのだ。俺の頭部が着地した先には柔らかい感触。すぐ後ろに呼吸の動きを感じる。
太ももだ。スカートの上に俺は横たわっているのだ。
すぐに起きあがろうとするが頭を抑えてつけられて動けない。
「なんのつもりだ……?」
「約束は守るよ。こんなこと、誰にでもするわけじゃないから」
「はあ」
「私は嫌じゃないよ。君は嫌だった?」
「そんなわけないけど、傍から見たらひどい絵面だ」
上から笑い声が聞こえる。俺は必死に意識しないよう遠くの景色を見ていた。
「私の顔は隠れてるからセーフ」
「その理屈だと俺は全然セーフじゃないんだが?」
これが「重度の人見知り」のすることかよ。こいつもしかして……嘘ついてないか?
「なあ……って冷たっ」
彼女の手が耳に触れ思わず声が出る。
「ご、ごめん」
「寒いのか?」
「ちょっとだけね……けっこう外にいたから」
すると俺の首筋に彼女の手がそっと添えられる。今度は驚かなかった。緊張に火照っていた身体にその冷たさが染み渡る。
「人様の体で暖をとるんじゃない」
「ごめん……でも、もうちょっとだけ」
その声があまりに悲しそうだったから。
俺は柄にもないことを言ってしまう。
「やっぱり、なんか辛そうだな」
「ど、どういうこと……?」
「話したいことがあるなら、俺が聞くぞ」
「っ――――」
「あいにく俺は君の名前すら知らないんだ。そんな男になに話したってバチは当たらないと思う」
大きな溜息の音。なんだろうかと上を見ようとすると額にデコピンをくらう。
「ばーか! 心臓に悪いからそういうのやめて。正直、気持ち悪かったから」
「酷くない!? え、俺そんなにだった?」
うう、だから慣れないことはするもんじゃない……。いつもふざけた調子でいる方が性に合ってるんだ、俺は。
よし、と意気込むように彼女は話し始めた。
「ええとね……私、友達に嫌われちゃったんだ。ほら、私ってほとんど学校に来てなかったから、その子とは今日久しぶりに会ったんだけど」
「どうしてそんなことに?」
「小中学校と一緒だったんだ。気まずいのって嫌だったし、昔のように話しかけたら今更なにって怒られて、私も頭に血が昇って言い返して、最後は喧嘩別れ。馬鹿みたいだよね。私もあの子もあの時から時間が止まったまま」
幼馴染というやつか。卒業する度、進学する度に人間関係がまっさらに漂白されてきた俺にとっては未知のものだ。喧嘩できるならどうとでもなるような気がするけど、ヤケになってお互い口も聞かないなんて話になったら関係の修復も望めないだろう。残る時間はそう多くないのだ。
かといって俺にできることがあるかと言われれば首を横に振るしかない。青羽なら蹴り飛ばしてでも前を向かせただろう。あいつはそういうやつだ。あの三崎美夜なら、その天性の才能で遍く人々に笑顔をもたらすのだろう。そして、観客のひとりでしかない俺たちを絶望から救ってくれる。
だからこういうことって、理屈じゃないんだろうな。ようやく気づけた。もちろん気遣いとか準備は大事だ。けど人と付き合う上ではそれだけじゃ駄目だったんだ。お互いが分かりあうには決定的に足りない何か。今日の青羽はそんなことを言いたかったんだと思う。
「――これだけは言えることがある」
俺はすごく真面目な顔をする。
「う、うん……」
深呼吸。彼女はおどおどし始めた。けど俺の言うことは変わらない。
「――この膝枕、すっげえ寝心地良いんだよな。柔らかくて弾力があって、瑞々しいし……あと正直に言ってこのシチュエーションが興奮を掻き立ててなおよし」
「なにを言ってるのかちょっとよくわからないよ……」
「ふん、だからその喧嘩相手に同じことしてやったら仲直りなんてすぐだろって話だよ」
「いやよりわからないって……私達女の子同士なんですけど」
「なおさら良いな……そのシチュエーション……想像するだけでやばい」
頭をべしりと叩かれる。
「清々しいほどに欲望がダダ漏れだね」
「けど、こっちの方がよっぽど馬鹿らしいと思うだろ? 友達との仲直りなんてそんなもんなんだよ。大抵のことは時間が解決してくれる。その時間がないんだったら、馬鹿みたいに真っ直ぐぶつかっていくしかないんだ」
説教くさい言葉が俺のキメ顔からお経のように流れていく。膝枕されなかったら、もうちょっと格好もついたんだろうけど。
しかしこれは前座でしかない。口先だけの言葉なんて悩んでいる人間には響かないだろう。というか彼女だって絶対に鬱陶しく思っている。だから、俺は。
「つまりだな――」「やっぱりそうだよね!」
互いの声が重なった。俺は困惑する。
「私どこかで上手くやろうとしてた。でもそんな風に考えてたら何も進まないよね。君の言う通りだった」
「お、おう……」
やけに物分かりいいな、こいつ。
「自分が何すればいいかわかった気がする! うん、そうだよね!」
なにこの子、純粋すぎる。俺が首を突っ込むまでもなかったじゃないか。
機嫌が良くなったのか、彼女は俺の髪を撫で始めた。そっか、俺、膝枕されてるもんな……。
「あ、明日さ……ちょっとだけ時間とれそうなんだ」
「え?」
「本当は今日も忙しくて、文化祭ほとんど見れなかったの。だから――」
これは誘われているのだろうか。しかし俺には青羽との約束がある。
俺は彼女の膝から起き上がった。誠意を持ってはっきりと無理だと言わなければならないからだ。
「本当にすごく短い時間だけなんだけど、それで、それで……」
彼女は何を身構えているのか、やけにきびきびとした挙動で立ち上がると、
「明日、お昼ここで会えないかな。もちろん実行委員の仕事で忙しいとは思うんだけど」
「お、おい」
「来れたらでいいから。それじゃ……」
そう告げて、ずんずんと去っていく彼女。
ベンチに忘れられた缶コーヒーを俺は手に取った。
「なんだ……?」
胸に突っかかる違和感。俺はその正体をおぼろげながら掴み始めていた。
*
「朝からアンタの鬱陶しい顔なんてなんで見ないといけないのよ」
青羽はすこぶる機嫌が悪そうだった。文化祭も二日目に差し掛かり、廊下は幸福を周囲にばら撒きまくるカップルの存在が目立つようになってきたが、俺と青羽の間にそんな甘ったるい空気は当然なくて。
「そんな倦怠期のカップルみたいなこと言わなくてもいいだろ」
「誰がカップルだ! 誰が倦怠期だ!」
威勢よく吠える青羽。
「じゃあなんでそんな不機嫌なんだよ」
「アンタには関係ないでしょ」
「友達と喧嘩でもしたか? まあ、お前に友達と呼べるような関係性の人間がいるとは思えないが」
「決めた。アンタのことを殺す」
突如、首が圧迫される。背後に感じる柔らかい感触と首に回された腕。青羽は女子にしては身長が高いからこんな芸当が出来てしまう。息ができなくて俺はギブギブ言いながら胸を叩く。
「……っはあ。手加減というものを知らないのかよ」
「知らなかったらアンタの首の骨は今頃真っ二つ」
「恐ろしいことをいうな……ていうか、いつまで抱きついてるつもりだ」
「はあ、抱きついてるんじゃなくてホールドしてるのよ」
「どっちも同じだ、バカ」
昨日今日で周囲の俺に対する距離が近すぎるんだが。身体は勝手に反応するものだから、困る。幸いにも青羽はすぐに離れてくれた。
「それであたしはどこへ向かっているの」
「生物部の部室だ」
「つまんなそう」
「そう言うな。けっこう珍しい生き物とかいるんだぞ」
廊下を歩きながら、青羽はぶつくさ文句を垂れる。生物部の展示は他の場所と比べて閑散としているが、だからといってつまらないわけじゃない。
生物部に足を踏み入れると、眼鏡をかけ白衣を纏った男子生徒が俺に話しかけてくる。
「よう沢寺」
「先輩! どうもです」
青羽が俺を小突いて「知り合い?」と訊いてくる。
「いや、昨日あの後仲良くなったんだよ」
「それにしてはやけに懐いてない」
すると沢寺が目を輝かせ、
「本当に彼女さんを連れてきてくれるとは思わなかったですよ」
「昨日言った通りだろ? 集客には貢献しなきゃだからな」
俺たちの会話に青羽は固まった。
「……どこの誰が彼女だって?」
「ははは、こんなやつだけどデレると可愛いんだぜ」
「殺す――」
「ってお前!? それはやばいって!?」
何があったかは割愛させていただこう。数分後、沢寺はとあるケージの前まで俺たちを連れていった。
「蛇……」
「そうです。部活で飼ってるんですけど、結構な大きさでしょう? 他にも爬虫類系やハムスターなんかもいますけど、彼女さんには蛇が似合うと先輩がおっしゃられてたので」
「ふうん、あと次に彼女つったらアンタもただじゃおかないから」
青羽がきっと睨みつけ、哀れな後輩は顔を青ざめる。沢寺はケージから蛇を取り出した。
「……なんで出してんの?」
「大丈夫です。毒とかはありませんから」
そういう問題じゃないと青羽の顔が告げていた。蛇を抱えたまま寺沢が青羽に近づくと、青羽は後ずさった。
「どうでしょう? この艶のあるボディーラインは! 脱皮してたのほやほやですよ!」
「ちょ、まってって……」
「もっと近くで見てみてください! 昨日は先輩もすごく喜んでくれましたよ!」
俺も狂気に染まったマッドサイエンティストのような口振りに最初は驚いたが、寺沢の爬虫類に対する愛は本物だ。その偏愛とも呼ぶべきフェティシズムについて小一時間は語りあった仲だが……寺沢の存在がこの人足の少なさの一翼を担っているという可能性は否めない。
「あ、どこに行くんだハニー!?」
「――な、なにこれ!?」
寺沢の手を抜け出した蛇が青羽の首に巻き付くように前進する。うねうねと日常では味わえない絶妙な感触を肌で味わっていることだろう。
正直、これは予想してなかったが青羽の慌てふためく姿を見れたのは収穫だ。
「ハニー! 戻ってくるんだハニー!」
「は、離せ……!」
中々に混沌とした様相を呈している。しょうがないので俺も手伝い、蛇を元に戻すことに成功した。
そして生物部の部室を出た後、青羽は口も聞いてくれなかった。
「……いつまで怒ってるんだよ。けっこうスリリングだっただろ」
「そんなんだから女に振られてばかりいるのよ」
「それは、関係ないだろ」
俺は苦し紛れに答える。青葉の指摘は的を射ていた。中学時代、俺に告白してきてくれた女の子のことを俺は恋愛的な意味での興味を持っているわけじゃなかった。だから、最初は戸惑った。
付き合うようになって、彼女とどう接すれば良いのかわからなかったのだ。そして俺は決定的な間違いを犯した。友達のままでいようと言ってくれたのは彼女の優しさだった。俺は定まらない心に見ないふりをして、俺を好きでいてくれた女の子を傷つけた。
「わかってるさ……俺が無神経でどうしようもない男だってことぐらいは」
青羽はようやく俺の顔を見てくれた。
「けど……けど、嫌いじゃないよ。釣り餌をぶら下げたのはあたしだけど、昨日よりはマシ。あんな焦ったいのは反吐が出る。蛇の分はいつか百倍にして返してやるから」
「ははは……そりゃ怖い」
なぜ俺はこんな後ろ向きなことを言ってしまったのだろう。余計、雰囲気が重くなるだけなのに。
顔が熱い。クソ、なんなんだ!
――そうだ、昼の話をしないと……。
口を開こうとした瞬間、クラスメイトの女子が俺たちを呼び止めた。
「青羽さん! 悪いけどウチの人で足りないから臨時でシフト頼めない?」
「なんであたし……?」
「だってせっかく可愛いんだからお客さんに見せないと損でしょ……もしかしてお邪魔だった?」
「全然そんなことない!」
青羽は反射的にそう答えた。「青羽さん借りてくねー」とお調子者の女子は俺に手をひらひら振る。青羽も諦めたようでそっとため息をついた。
そうだよな。クラスのことで首を横に振るわけにはいかないだろう。俺にとっても好都合だ。あの覆面女との約束が果たせることになる。
「おう、頑張ってこい」
「ちっ」
謎の舌打ちを受けながら、俺は踵を返す。すると耳元に誰かの吐息を感じた。青羽だ。
――三崎美夜。
「え?」
「釣り餌の正体だよ――」
文化祭に来るという有名人はまさかのウチの学校の生徒だったのだ。考えてみれば簡単に予想できたことだった。なんだか騙された気がしてならない。
*
それから少し歩き、約束の場所の中庭に向かっていると異変に気づく。人の数がやけに多いし、なにやら盛り上がっている様子だ。近くの顔見知りの男子に訊く。
「なにがあったんだ?」
「ああ……三崎さんが来てるみたいで、収拾つかなくなってんだよ。今の一年は事情も飲み込めてないだろうし物珍しさが勝ってんだろう」
「あの人混みの中に三崎さんがいるってことか!? 俺らの時にこんなことなかったよな?」
これでは覆面女の居場所がわからない。そうしている間にも人が続々と集まってくる。早めになんとかしないと。
「ちょっと俺行ってくるわ」
ポケットに突っ込んであった実行委員のワッペンを腕に嵌め、人混みをかき分けていく。
――実行委員でーす! どいてくださーい!
三崎美夜の姿は見つけられた。まるで信徒に囲まれた聖像のように、三崎さんのいる場所だけ空間ができていた。だが揉みくちゃにされるのも時間の問題だろう。俺は素早く彼女の手を取り、群衆の隙間を縫って脱出する。
物陰に隠れて様子を窺うが落ち込んだ様子の彼らはすぐに散らばっていった。
「大丈夫?」
「…………」
返答がなかった。
「あの……やっぱりどこか調子悪い?」
もう一度問いかけると深い息が聞こえた。
「……ごめんなさい私、こんなことになるとは思わなくて」
「三崎さん……?」
とりあえず本部まで三崎さんを連れていくべきだ。そこで後藤に彼女を引き渡せばひとまずなんとかなる。
「話は後だ。とりあえず一息つける場所に連れていくから、なるべく下を向いててくれよ」
こくりと三崎さんは頷いた。
廊下を歩くが下を向いているせいで三崎さんの足取りが見ていて危なっかしい。今にも通行人にぶつかりそうなのをぎりぎりで回避している。
「三崎さん、もう少し俺に近寄れるか?」
しかし、彼女は何も言わず首を横に振った。この速度のまま歩いていたら昼が終わってしまうが急かすわけにもいかないし……。
「あ、梶原先生」
俺に文化祭実行委員なんてものを押し付けた張本人の姿が視界に入る。
「おう、頑張っているようだな」
「居眠りの罰とは思えないほどハードなんですけどね。主に後藤のせいで」
「諦めろ。あいつはそういうやつだ」
梶原の視線が横にずれる。
「……ああと、そっちは? ……もしかして三咲か」
「そうです。ちょっとしたトラブルがあって本部まで送り届けようと思いまして」
「それは正しい判断だな」
「……?」
引っかかるような物言いに首を傾げる。
「ほら、急げよ。そしたらちっとは後藤も先輩らしくお前を敬ってくれるかもしれんぞ」
背中を押され、訳もわからず俺は三崎美夜を引き連れ相変わらずの距離感のまま西棟の本部まで向かう。
運営本部に到着すると後藤が出迎えてくれ、なぜかとても感謝された。どうやら運営が三崎美夜の行方を探していたらしい。打ち合わせ中の合間時間の隙に外へ出ていったきり姿をくらませたというのだ。
この学校は広いし、三崎さんが一年坊主どもに囲まれて身動きできなかったとしてもすぐには情報が伝わらなかったのだろう。そういった経緯を説明すると、後藤も納得したようだった。
「だから、誰の落ち度でもないと思うぞ。三崎さんは周囲に迷惑をかけてすごく落ち込んでいたようだが……それにしても、打ち合わせってなんの打ち合わせだったんだ」
「ああ……それは明日、三崎美夜のライブをすることになってるんすよ」
「え、どこで?」
「体育館で、有志発表のトリっす」
「そりゃあ前のやつら全部霞んじまうぜ」
そういうことか。しかし明日は大変だろうなあ。仮病で休もうかな……。
「それにしても良かったっす。これで無事に明日を迎えられそうっすから」
そう言葉を残して、後藤は三崎美夜のもとへ戻っていった。
――そうだ、早く戻らないと!
大して時間は経ってないはずだし、まだ会えるはずだ。連絡先を交換しておけばよかったのだが、その前に彼女は立ち去ってしまったから最悪すれ違いもあり得る。
中庭に着き、彼女の姿を探す。けれどいくら探しても見つからない。
「どこにいるんだ……」
このまま終わってしまうなんて後味の悪い展開だ。少なくとも、彼女の方から歩み寄ろうとしてくれたのだから、知らぬふりなんてしたくない。
「あの、実行委員の方ですか」
「ええ……」
すると、声をかけられる。どうやら落とし物を届け出てくれたらしい。それを受け取ると俺はすぐに気づいた。
――これ、覆面女の帽子だよな……。
結局その日、彼女とは会うことができなかった。
*
文化祭最終日。
一般開放され、校内は父兄や中学生でごった返している。雰囲気も少し外行きになり、より文化祭は活気付いていた。
俺は道案内だったり行列の整理など忙しなく働いていた。ようやくやってきた休憩時間に俺は自販機で買ったミネラルウォーターを身体に流し込む。
「生き返る……」
「お疲れさん」
「先生は呑気なもんですね」
本部で休んでいると、梶原が話しかけてきた。
「小難しいことは生徒に任せて俺は高みの見物だ」
「先生と呼ぶのを躊躇うんでそんなこと言わないでください」
まったくこの人は変わらない。
「聞きましたよ。三崎美夜が今日ライブするって」
「生徒にとっちゃ、とんだサプライズだろ?」
「そうですけど、一般の人達をきちんと制御できますかね」
「そこらへんは後藤たちがなんとかするよ。リスクをとらなきゃ勝負とは言えないさ。まあもちろん責任の所在は俺たち大人にあるけどな」
所詮、俺みたいな下っ端は難しいことは考えず手と足を動かすだけだ。
「三崎さんはどこにいるんです?」
「午前中はテレビの収録で、午後からこっちに来るらしい」
「息つく暇もないって感じですね……」
「まあ、大人気アイドルだからな。俺も教師なんてやってなかったらサイン貰いにいってるよ。あとチェキもな」
「チェキ……ってなんですか?」
「あ、いやなんでもない」
梶原はなぜか落ち込んだ様子で部屋を出ていった。
それからしばらくは終わりのない地獄の労働が俺を苦しめた。だが同時にやりがいみたいなのも感じていた。忙しければ忙しいほど、大したことはなにもしていないのに達成感が胸の奥底から湧いて出てくる。
これがブラックな職場に順応していく過程なのだろう。将来の俺は社会に飼われる豚がお似合いなんだ……。
だが、それでも何事もなく進んでいく時間。
事態が急変したのはちょうど四時に差し掛かる頃だった。三崎美夜のライブが予定されている三十分前。運営本部で後藤が真っ青な顔を晒している。
聞けば軽音部の発表中に機材が故障したらしい。詳しい状況はわからないが復旧にかかる時間を考えると予定時間を過ぎてしまうのは確実だということだった。
「向こうだって分刻みのスケジュールで動いているんですよ! それを今更遅らせてくれって……どの面下げて言えばいいんですか! ただでさえ色々譲歩してもらっているのに!」
三崎美夜やそのバックバンドはすでにステージ裏で待機している。芸能プロダクションの社員も今はここにいないようだ。
「終わりだ……」
がたりと椅子にへたり込む後藤。こいつが誰よりも文化祭を成功させたいと思っていたのは俺たちが一番よく知っているだろう。こんなことで、という後藤の表情が痛々しかった。
「おい、諦めるのはまだ早いんじゃないか」
「な、なんですか先輩」
「俺の言った言葉を忘れたか。ひとまずスケジュール通りにいかないことを相手方にいち早く伝えに行くぞ。直接、な」
「ちょ、せ、先輩!?」
後藤の肩を押しながら、体育館へ向かう。
「三崎美夜がステージに立ったら、多分今までにないぐらい盛り上がるぞ」
「そ、そうでしょうけど」
「お前だってこれが一番盛り上がると思って熱入れてたんだろ」
後藤は押し黙った。
「土下座……ですか」
「おう、物分かりの良い後輩は嫌いじゃないぞ」
「やりたくないですよ……そんなこと」
「そうだろうな。誰だってそうだ」
さらに強く後藤の肩を押す。
「う、うわ、転びますって先輩!」
「やらかしたときはな、ポーズが大事なんだよ!」
「ぽ、ポーズ?」
「走れ、後藤!」
「え、なんすかまじで!?」
「着いてこなきゃお前が先方にお前が全部悪いって言いふらすからな! 嫌だったら着いてこい!」
「いやおい待ってって!?」
俺は全速力で走り出した。すると後藤も必死で食らいついてきた。
「土下座をする前はなあ!」
「はい!?」
「こうやって全力で息を切らしてさも自分たちにとって重大であるかを相手に見せつけるんだよ!」
「ガキでもそんな単純なことしねえよ!?」
「シンプルイズベストだ!」
さらに速力を上げる。今の俺は百万馬力だ。
「おい! 一旦外出るぞ! こっちの方が近道だ!」
「待って靴は履き替えないんですか!?」
「知るかボケ!」
上履きのまま外へ飛び出して体育館の脇まで直走る。後藤もそのまま着いてきた。
ようやく体育館にたどり着く。裏口から舞台袖に登り、機材トラブルでガヤガヤとしている体育館に俺の謝罪が響き渡った。
「すいまっせんしたあ――――ッ!」
正座上半身九十度前傾の華麗な土下座は、純白のドレスに身を包んだ三崎美夜の前で行われた。
遅れて後藤も俺の隣で土下座をする。
「す、すみませんでした!」
俺たちは盛大に息を切らしながら、今にも死にそうな声で謝り倒した。三崎さんはその光景を前におろおろとしている。というか引いていた。
「ど、どうしたの……?」
「こちらの不手際で進行が滞っていて、それで、それで……! ――げ、げほおッ」
「だ、大丈夫!?」
「は、はい……! 大変申し訳ありませんでしたっ!」
「わかったから、とりあえず二人とも土下座はやめて……」
後藤の迫真の演技に俺は感動する。だがちらりと横を見ると、彼の顔は真っ青だった。
俺は平然と立ち上がると化け物を見るかのような目で後藤に見られた。三崎さんはスーツ姿の男の人になにやら相談している。
「――大丈夫ですよね」
「――ええ、この後はなにも予定は入っていませんから、貴方次第です」
ぼそぼそとした会話が聞こえてくる。内容からして大丈夫そうだろう。三崎さんはこちらに向き直った。
「私はステージに立てるんですよね?」
「はい……! それは必ず!」
「だったら待ちます。ここでは三崎美夜も演者のひとりでしかないんですから」
後藤は何度も頭を下げた。
すると機材トラブルで戻ってきた軽音部の面々が俺のそばにやってきて、
「流石にオレたちには荷が重いぜ。今年は諦めるよ」
肩を叩いて去っていった。
彼らの文化祭にかけてきた想いのためにも、復旧を急がなければならない。
*
三崎美夜がステージに上がった。
体育館中に大歓声が響く。
三崎美夜の時に楽しげで時に悲しそうな歌声が観衆の感情を揺さぶる。
俺はそんな光景を舞台袖のすぐそばで見ている。そんなことが無性に嬉しかった。
外はすっかり暗くなっているだろう。だが帰るやつなんてひとりもいなかった。みんな三崎美夜しか見えていない。
彼女の歌声が止まると、これまでにないぐらい会場は盛り上がった。
*
文化祭は無事終了し、生徒は帰途に着き始めている。
熱った身体を冷ますために、もはや俺のベストポジションと化していた中庭のベンチで外の空気を浴びていると、声がした。
「ねえ、隣いいかな?」
三崎美夜が腕を後ろに回して、俺の顔を覗き込んでいた。
「もちろん。あと、お疲れ様」
「ははは、それにしてもあの土下座は驚いたよ」
「後輩が悲観的になっていたんで、姿勢で示そうと」
「変なの」
「まあ、三崎さんに助けられたよ」
「なんだか、そういう特別扱いは感心しないなあ」
彼女は頬を膨らませた。
「……そういう顔もするんだな」
「え?」
「ああいや、前会った時とはちょっとイメージが違うなって」
前の彼女は正真正銘のアイドルって雰囲気だったが、今はどちらかというとちょっと幼い感じがする。この感じ、どこかで――。
「そうかな? はいこれ、差し入れです」
差し出されたのは微糖の缶コーヒー。
「そんな、いいのに……ってあれ? このラベルって――」
俺は三崎さんと手元の缶コーヒーに視線を行ったり来たりさせる。
「どうしたの?」
「え、いや……違うよな」
「なにが?」
「もしかして三崎さんが重度の人見知りの苦学生だったりしないかなあって、ははは……」
「もしそうだったらどうするの?」
汗が止まらない。流石に俺の勘違いだよな……?
「――美夜、いい加減長いんだけど」
突然、背後に別人の声。
「あ、青羽!? どうしてここに……?」
「やっほー伶奈ちゃん」
な、なんなんだよこれ!
「お二人ともお知り合いだったんですね……?」
俺の声は哀れなぐらい震えていた。
「なにその口調、まあいいけどね。美夜は小中学校がずっと一緒だった昔馴染みよ」
「そう、私達って実は大の親友なんだ」
「は? 初耳なんだけど……まあだから、美夜が今日文化祭に来るって知ってたのもそういう理由。アンタ、遊ばれてたんだよ、こいつに」
俺の脳内はもはやオーバーヒートを起こしていた。
「本当にあの覆面女と三崎美夜が同一人物だってこと!?」
「そうだよ。びっくりした?」
「う、嘘だ……」
俺はショックで崩れ落ちる。あの大スター三崎美夜に馬鹿とか気持ち悪いって言われていたんですか、俺。
「美夜の方も、アンタとあたしが一緒なのを目撃して落ち込んでたし、お互いアレだけどね」
「ま、待って!? それは言わない約束でしょ!」
「言っとくけど、あたしは美夜を許したつもりはないから」
二人の間にいったい何があったのだろうか。
「ははは……君にはなにも話してなかったね。私が仕事で忙しくなって、だから伶奈ちゃんと疎遠になっちゃって。私が芸能界に飛び込むこと、伶奈ちゃんにはなにも相談しなかったから」
だから青羽は怒ったのだという。
「そうなのか?」
「ま、まあ……ありていに言えば、そうよ」
なんともおかしな話だ。あれほど周囲の人間を遠ざけていたやつが、これくらいのことで怒り心頭になるのだ。
だが、納得もできた。
「つまり、三崎さんは青羽と仲直りするために俺に変装してまで近づいてきたのか!」
ようやく点と点が結ばれた。なんだ、そういうことかよ。
「……なに二人とも、俺をそんな目で見るなって」
なぜだか視線が痛かった。
「わかったでしょ、美夜。こいつはどうしようないやつ」
「そうかな。彼らしいと思うけど」
「……勝手にすれば」
「思ってもないこと、言わないでくれるかな」
ライブをした後なのに、三崎美夜は疲れを感じさせないほど鋭い声音で言った。
「彼が言ったんだ。友達と仲直りするなら、馬鹿みたいにやるしかないって。でもあなたはきっと意地になって絶対に首を縦に振らない。だからここに呼んだのはそういう理由。彼の前ではあなただって我儘でいられないでしょ」
「知ったようことを言うのね」
「当たり前でしょ!? 大切な親友のことなんだから」
「…………」
青羽は沈黙した。正直、俺には会話の内容がよく理解できない。それだけ長い付き合いなんだろうなと思う。俺がいることで二人の関係にどんな影響を与えたのか。大して変わらなかったような気もする。ただまあ会話の内容から察するに二人を繋げる役割は果たせたのかもしれない。
「……わかった。美夜があたしにどう接しようが構わない。だからもう、いいでしょ」
「うん。ありがとう」
「先、帰る」
仲直り成立、なのだろうか。青羽は背を向けた。
「お、おい青羽! お前……文化祭が終わっても学校来るのか?」
「なに、来ないで欲しいの」
「そんなこと言ってない! ただ、俺も友達が減るのは寂しいからな」
「はあ、まあ考えといてあげる」
「前向きに?」
「後ろ向きに」
手をひらひらと振って青羽は去っていく。最後まで良い加減なやつだった。
三崎さんと目が合う。
「この一ヶ月、色々長かった」
「そう? でも楽しそうだったよ。私はこの時間がすごく短かった」
「見てたのか?」
「たまにね。学校に用事があった日は、頑張ってるかなあって君の姿を探してたんだ」
「恥ずかしいな……」
やけに校内が騒がしかったときがあったのはそのせいか。
「もう時間も遅いから、送ってくよ」
「うん。ありがとう。裏門の近くに車が停まってるから」
「もしかして黒塗りの高級車ってやつか?」
「うーん、そうなのかな。それっぽい感じの」
「うわあ、さすが有名人」
歩き出すと、三崎さんは足を引きずるような仕草をした。
「その足、どうしたんだ」
「ちょっと捻っちゃって。そんなに痛くないんだけどね」
「ええと、それって仕事は大丈夫なのか?」
すごく重大な話を聞いてしまったように思うが、疲れていて頭が働かない。もういいんだ、と彼女はぽつりとこぼした。
「なら、三崎さんのこと背負って運ぶよ」
「ええ!? ……お願いしようかな」
裏門までの道なら人通りも滅多にないし、大丈夫だろう。俺は屈んで彼女の身体を受け止める。彼女はとても軽かった。ぐいっと腰を上げ、楽々と持ち上げる。
「どうですかお乗り心地は」
「うん、最高」
熱に浮かされているっていう自覚はある。けど、こんな時間がいつまでも続けばいいのに、と思ってしまう自分もいた。
「次会ったら、私の話をしようって言ったよね」
「ああ……」
「私ほとんど学校に来なかったんだ」
「仕事があったんだろ」
「うん。でも、来ようと思えばもっと学校にいられる時間は増えたんだと思う」
その声には後悔が滲んでいた。
「学校が嫌だったのか?」
「そうだったのかも。この学校なら芸能活動をしていても融通が効くからって大人の人達に勧められるまま進学を決めて……私には自由がないんだっていじけてた。私が本当に望むものはここにはないんだって決めつけてたの」
彼女の吐息が首にかかる。
「私、ドラマや映画みたいな青春に憧れてた。キラキラしてて、友情があって、恋をして……」
「三崎さんほどキラキラしている人はいないと思うけど」
「そういうのじゃないんだ。もっと純粋なもの――だから、無理にでももっと学校に来ていればよかったって思うの。だって私が本当に欲しかったものは手が届く場所にあったんだから」
彼女の口が俺の耳に寄せられる。
そして、彼女が告げたのは。
――君の青春の一欠片になりたい
*
朝、食卓で飯を食っていると親父がニュースを見ながら言った。
「……俺、実は三崎美夜の大ファンなんだ。サイン貰ってきてくれないか?」
「嫌だよ。父親がアイドル好きだって知ってしまった子供の気持ちを考えてくれよ。俺、今割と超ショッキングなんだが?」
「背に腹はかえられん」
「父親としての方向性が間違いすぎてる!?」
俺たちの会話に呆れた母親が、テレビのチャンネルを変える。
飛び出してきた見出しに、俺は目を疑う。
――三崎美夜、学業を理由に活動休止か!?
君の青春の一欠片になりたい! stalker @sskkss
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