ねこの楽園
あいおす
ねこの楽園
今日も天気は雲一つない快晴でした。
起き上がったのはたまたまで、歩き出したのは気まぐれで、それじゃあちょっと遠くまで散歩でもしてみようかと思い立ったのはなんとなくでした。そもそも仕事も義務もないぼくらには、その場の思いつき以外の行動理由なんて無いのでした。
「にゃあ」
隣で寝ていたねこが言うので、ぼくは「みゃあ」と言葉を返しました。
意味なんて特にありません。ただの挨拶です。ぼくは彼の名前を知りませんし、向こうだってそのはずです。特に知りたいとも思わなかったので、彼のことは無視していくことにしました。きっと次にどこかで会ったとしても気付くことはないだろうと思います。
ひとの皆さんの生きる世界のすごく近くに、もしくはとっても遠くに、ぼくたちのいる『ねこの楽園』はあります。天国? どうでしょうか。ひとの言うエデンの園はここのことかもしれませんし、アダムとイブはねこだったかもしれませんが、それはそれとして。ぼくらはとても幸せで、楽園のねこたちは今日も今日とてもふもふしています。
おなかがすいたので「にゃあ」と鳴くと、目の前に虹ねこ色の液体の入ったお皿が現れました。何という食べ物なのかは知りませんし、虹ねこ色という表現が合っているのかもよく分かりません。そんな感じがしただけです。
味の説明ですか? うん、美味しいです。おなかが満たされます。たまぁに食べることのある、寝床に生えている木の実とは違う味がします。
ほしいものはお願いすれば出てくるので、ぼくらはせかせか働く必要がありません。遊ぶものが欲しければほら、鈴の入ったボールがぽんと目の前に落ちてきます。それをけりけりしながら歩いていると、茂みのほうでおなかを突っつき合っていた二匹の白いねこがこちらに気付いたようでした。一匹はすらりとした長くきれいな尻尾をしていて、もう一匹は耳にお花の飾りをつけていました。
「ねぇ、なにしてるの?」
「あら、お散歩かしら?」
二匹はほぼ同時に話しかけてきました。ぼくが散歩するのが好きなように、お喋りが好きなねこも当然います。「そうだよ」とぼくが答えると、「どこまで行くつもりなの?」ときれいな尻尾のねこが更に尋ねてきました。
「うーん、特に決めてないや」
「じゃあ向こうに見えるあの大きな木まではどうかしら」
そう言ったのは耳飾りのねこです。「ああ、いいね」ときれいな尻尾のねこも続きます。二匹の視線の先を見れば、遥か向こうにここからでも存在がわかるほどの大樹が聳えているのがわかりました。
「ぼくらもあそこまでは行ったこと無いんだ。何があるのかな。おいしい木の実でも生ってるかな」
「たしかに気になるかも。行ってみようかな」
ぼくが言うと、耳飾りのねこが微笑みます。
「それがいいわ。なにがあったか、あとでわたしたちにも教えてね」
「あれ、一緒には来ないの?」
二匹は顔を見合わせて、それから同時に頷きました。
「そこまでじゃないかな」
「お話を聞いた方がきっと楽しいわ」
なんとも清々しいまでにねこらしい答えです。
「みゃあ」
「にゃあ」
ぼくは遠くの木を目指してまた歩き始めます。鈴の入ったボールはもういらないので、彼女たちにあげてしまいました。
目的地が決まっているというのは、存外気持ちの良いものです。途中、どこからか漂ってくる花の匂いにつられたり、飛んでいるチョウチョを追っかけたりしつつも足取りは軽やかでした。
挨拶以上の会話をしたのはさっきのが久しぶりだったかもしれません。そういえばぼくにもよくお話をする相手がいたことを、急に思い出しました。名前は、聞いた気がするけれど覚えていません。ぴんと伸びたひげと背中の縞模様がきれいなねこでした。考えてみればいつから姿を見ていないのでしょう。気まぐれなねこのことですから、知らぬ間に寝床を移してしまったのかもしれません。
思えば彼女は珍しく活動的なねこでした。しょっちゅう色んな場所に足を運んでは、「あそこの水辺のねこは変わった色の石を集めている」とか、「あの木の上には珍しい銀色のねこが住んでいる」とか逐一ぼくに報告しては、またどこかへ出掛けていくのです。あの大樹の下にも彼女は行ったことがあるのだろうな、とぼくはなんとなく確信していますが、確かめるすべは無さそうです。
近づくにつれて、大樹はその迫力を増していきました。大きさはさることながら、それ以上の何かをひしひしと感じるのです。なんだか感じたことのない期待感が胸を包んでいくのがわかりました。ミルクの小川をぴょんと跳び越えれば、その先の小高い丘の頂上に大樹が立っているのがよく見えます。踏み出す前足は澱みなく、ついていく後ろ足は飛び跳ねるよう。じぶんが走っているのにしばらく気付かないほど、ぼくは何かに衝き動かされていました。
ここは文句の付けようのない楽園ですし、不満なんてあるはずもありません。
でもちょっとだけ、本当にちょっとだけ、ぼくは退屈していたのです。ほんの些細なものでも構わないので何か少しの刺激を、ぼくは心のどこかで欲していたのです。
だからぼくは走りました。楽しくて堪りませんでした。いっそ辿り着かなくてもいいと、この興奮がずっと続いていればいいと、そう思うほどに。
一息に丘を駆け上ると、想像以上に青々しく聳える大樹が面前のそこにありました。ぼくの身体の数十倍はありそうな太い幹がどっしりと根を下ろし、丘全体をすっぽり影で覆うほどに広がった枝葉を支えています。それはそれは素晴らしいものでしたが、正直にいえばぼくは少し落胆していました。だって、ここには特筆するべきようなものは何一つありません。根元に何かがあるわけでもなければ、美味しそうな木の実の一つも生っていないのです。何かないかと見上げながらぐるりと一周回ってみるも、ねこの一匹すら見当たりません。
もう諦めて寝床に帰ろうかと視線を落としたそのとき、視界の端に何か違和感があるのを感じました。よく目を凝らすと幹の一部分が窪んでいて、そこを覆い隠すように板状の木が埋め込まれているのです。更に近づいてみれば、埋め込まれた板にはジャンプすれば届きそうな不自然な出っ張りがついているのが分かりました。
そうとわかれば何が隠されているのか俄然興味が湧いてきます。どうにか窪みのなかに身体を滑りこませようとしますが上手くいきません。そこで試しにぐっと力を込めて飛び上がり前足を出っ張りに掛けると、出っ張りはかくんと斜めに下がって、板が少しだけ動きました。なるほど、そういう仕組みだったようです。
広くなった隙間に顔を押し込めば、今度はすんなりと身体が入っていきました。
せいぜい幹の一部が窪んでいるだけだと思っていた内部には、想像していたよりも遥かに大きな空間が広がっていました。開いたところから差し込む光だけでは全体像が見えませんが、その先には緩やかな下り坂が長く続いているようです。不思議なことに躊躇いなく身体が動きました。するすると滑り落ちるように奥へ奥へと前足を運んでいきます。さっき一度途切れた言い得ない興奮の炎が、瞬く間に再燃していくのを強く感じていました。真っ暗だと思っていた道の奥に見たことのない色をした明かりが見えた頃、ぼくは何かがぼくの身体から遠ざかっていく感覚を覚えました。
さあ、光の始発点はもうすぐそこです。見えているものが、かすかな心音さえもが鮮明になっている、そんな気がしていました。
今思えば、それはねこの楽園から遠ざかっていく感覚だったのかもしれません。
***
いつもの通学路を横道に一本逸れると、並木道の外れにこの辺りの子供たちの間では有名な猫屋敷がある。友達の一人が「調査」したところによると家主はかなり高齢のおばあさんだそうで、身体が悪いのか姿を見たことは、少なくとも僕は一度もない。そんな様子なので子猫も含めて数十匹の猫がほとんど放し飼いのようになっていて、近所の大人の間ではどうしたものかと問題視されているとかいないとか。
けれど。ここの猫は人に慣れていてよく懐いてくれるので、大人にナイショでこっそりと遊びに来る猫好きの子供も、じつはたくさんいる。僕もその一人で、早めに起きられた日はこうして少し遠回りをして、朝の会の時間ギリギリまで猫たちと遊ぶのが恒例になっていた。
猫屋敷に遊びに来る子供たちには、それぞれお目当ての子が必ずいる。ユキトは毛並みの綺麗な黒猫が好きだし、ミサキちゃんは生まれたばかりの子猫にご執心。タイチに至ってはぶち模様のぽっちゃりした猫に「タンタ」という名前を勝手に付けて可愛がっている。
僕のお目当てはというと、塀の上におすまし顔でちょんと座った白猫の彼女だ。透き通るような毛並みは尻尾の先に至るまで綺麗に整い、理想的な曲線美を描くスレンダーな体型は何をしていてもその麗しさを損なうことはない。尻尾をしゃなりとしならせて歩く姿は、さながら気品あるお嬢様だ。
彼女は他の猫と違って愛想が良くない。撫でようとしても寄ってきてくれないし、おやつを見せても基本的には反応を示さない。かといってこちらを警戒しているのかというとそういうわけでもなく、彼女の気分が乗るときは自分から近寄っては来ないまでも無抵抗に撫でられてくれる日もある。そこもまた彼女の良いところだ。
餌の匂いを嗅ぎつけて近寄ってきた猫たちに家からくすねてきたチーズをちぎって渡しつつ、塀の上の彼女を見上げる。と、お腹が減っていたのか珍しくこちらへ降りてきた。とはいえそれ以上近づいてきてはくれないらしいので、僕は視線を低くしたまま近づいて、他の子のより一回り大きくちぎったチーズを差し出す。彼女なりのお礼なのか大人しくひと撫でだけさせてくれたあと、ひょいとチーズを咥えてまた定位置に戻ってしまった。
ねぇ。貴方には、自分がねこだった頃の記憶はあるでしょうか。
きっと多くのひとが「無い」と答えるでしょう。質問の意図が分からないと言われてしまうかもしれません。それとも、口には出さないだけで覚えているひとは案外たくさんいたりするのでしょうか。いずれにしても、貴方がもしあの頃の記憶を僅かなりとも残しているとしたら、ぼくと貴方は仲間です。同じ秘密を知る仲間です。
白猫の彼女を見ていると、ぼくはあの頃の記憶を思い出さずにはいられないのです。あの日ぼくが見たものは何だったのか、あそこにいたひとは誰だったのか。記憶のなかに幽かに残っているそれは逆光のようになっていて確かではありません。ただなんとなく分かるのは、あれはぼくらの『飼い主』だったのだということと、それは純粋なねこは知ってはいけないものだったということ。それだけです。
あの日、楽園のねことしてのぼくは死んでしまいました。この記憶が頭の奥底にでもある限り、きっと、ぼくがあの場所に戻ることはありません。それは楽園のねこたちからすれば計り知れない苦痛で、不幸なことなのでしょう。楽園を追放されたぼくたちは、ひととして生きていかなければいけないのですから。
お淑やかにチーズをついばむ姿に見惚れていたら、学校のチャイムの音が聞こえてきた。朝休みの終わりから朝の会までは十分。ギリギリだけど走ったらなんとか間に合いそうだ。
こちらの世界にいる猫はというと、どうやら楽園に戻る前段階なのだそう。実際に見たことは無いので、正しいのかはわからない。けれど白猫の彼女を見ていると、なんとなく納得がいってしまう。彼女はとてもねこらしい猫なので、いつか楽園に戻る日もそう遠くないのかもしれない。そうなったらしばらくはお別れだ。
僕はひとの子供だから、学校には行かなきゃいけない。日がな一日寝転がってはいられないし、決められた時間までに寝床に戻らなければ怒られてしまう。それは窮屈なことだし、ここは楽園ではないけれど、当分、退屈することだけはなさそうだ。
楽園のねことどっちが幸せかはわからない。きっと知らない方がいいんだろうなと思いつつ、僕は前足を大きく蹴り出した。
ねこの楽園 あいおす @reruray2
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