最終回:「その前」の記録4

 もし、彼がずっと私に暴力をふるい続けるような人だったら、どうだった? そっちの方が楽だったのかもしれない。そういう人として愛そうって、思えたから。けれども彼はずるかった。だから私の「愛」に自信が揺らぐのだ。

 気が付けば大学にも行けなくなっていた。大学からの電話も全部、非通知にしてもう落単、だということは分かっていたから退学届を出しに行った。その代わり店への出勤を週三にあげた。


 それでも、クラブで会う彼はとても好きだった。店中を煌めくシャンデリアとその輝きを吸い込むように浴びる彼がとても好きだったのだ。

 彼のバースデー、私は三〇〇万使って彼にシャンパンタワーを贈り、この月、初めて彼はナンバーワンに輝いた。

 もうこの頃には風呂屋で稼いだお金で遊んでいるのか、遊ぶために働いているのかさえ分からなくなっていた。もはや一緒だと思っていたし、それを判断するほどの頭もなかった。


 彼以外は妹としか定期的に会ってはいなかった。親からはもう着拒にしていたし、妹から私宛の仕送りはもう辞めた、という話は聞いていた。けれども妹はどこか別だった。妹だけが私の肉親だと本気で思っていたし、今だってそうだ。もしかしたらそう思わなければ何かがおかしくなっていたからそうしたのかもしれない。


 その日は何度目、何十度目かの愛と反動の後のことだった。

「……これ」

「本当? 高くなかった?」

「別にいいよ。こんぐらい」

「うん。一生大事にするよ」

 彼は食事が落ち着いたころ、私にネックレスを贈ってくれた。

「ほら。今日二周年じゃん」

 確かに今日は私が告白してから二年の記念日だった。忘れてなどいなかった。


 だから私はベッドの中泣いてしまった。嬉しくて泣いただけではない。これからに絶望したのだ。今彼は私のことを愛してくれている。けれど明日になっても私を愛してくれる、という保証が何も無かったから。いや、きっと無いということがはっきり分かっていた。手を繋ぎ眠る夜、私は彼への愛が最もぐらついた。そしてそれを証明する手段がもう一つしか残っていなかった。それをすれば私は彼を本当に愛することが証明できるだろう。


 翌日、予想通りといえば予想通りだったが――彼はすっかり愛の反動の姿をしていた。二、三日でその波を繰り返すことも少しずつ増えていた。だから私はその選択、というより選択肢そのものが無いのだから、その道を歩くことにした。身体には昨日重ねた記憶だけ、かつての綺麗な記憶だけ残して、私は彼の部屋を出て行った。一度だけ振り向いて、少しだけ笑ってしまった。


 私は奢るから、と妹を近くのレストランで少し遅めの夕食に誘った。お金自体は結構あったからそれぐらいどうってこともない。ただラストオーダー一〇分前だったということには少し焦ってしまった。

「大学はどう?」

「もう夏休み入ってるよ。お姉さんはお仕事大丈夫そう?」

「なんとかやってられてるよ。相変わらずキモい客もいるよ。仕事終われば説教するやつもいるし」

「それは単純にキモい」

 妹はそれを聞いて吹き出していた。死ぬ間際に何を話しているんだろう、と一瞬馬鹿らしくなった。けれどもそっちの方がかえって楽だった。最期まで、同じことを。いつまでも妹にはそんな姿を。結局最期まで変わろうとしなかったのは私だったのかもしれない、とその時思った。

「これこれ。彼氏から貰ったんだー。ネックレス」

「可愛いじゃん」

「でしょー?」

 私は気づけば笑っていた。笑えていた。それがとても嬉しくて、悲しかったのだ。私が彼を愛していることは変わらない。そして彼を愛した私の人生は選べた未来の中で最高だったと思っている。けれども別の選択肢があったような気がするのだ。それは今の人生より劣っていたとしても何か本当はその道を歩けたのかもしれない。


 私は夜だというのにあまりの暑さに参ってしまい、ネカフェに寄ることにした。といっても長居はきっとしない。ここで遺書を留めておこうと思ったからだった。喉を通るドリンクに私は何か幸せを感じた。もしかしたらあの時感じた選択肢で掴む幸せというものの正体がこれかもしれない、そう思った。

 私はどんな存在だろうか、遺伝的に見ればきっと父と母の半分クローン、というような存在だろう。だからきっと私の幸福観は私の人生を最悪だと言っていそうな気がする。けれども私は私に愛を向けてくれた人をずっと好きでいられた。ずっと愛していられた。だからそう思えば最高の人生なのだ、と思う。だから遺書には短く「私は人間として最悪の人生だったが、女としては最高の人生だった」と綴った。それだけで総括になる気がした。


 私は何とも反応に困る料金を支払い、ネカフェを出て行った。外は完全に暗くなっており、ビル街が光の島のように顔を出している。今からすること、それに対しての覚悟は元からできていた。だから私は熱帯夜の中、歌舞伎町をゆっくりと歩く。


 初めてここに来た時、私はその威容さに驚嘆した。今なら少し、あの絶交した友人の感覚が分かる気がする。けれどもそれでも最期の景色がここなら、何かそれはそれで良い気もする。

 友人は私と彼について否定した。だから、本当はもう思い出したくもない存在なのに、謝るべきことが無いはずなのに、電話でもいいから謝罪したいと思った。けれどももう電話番号をこっちから削除してしまったし、もういいや、とすぐに諦めてしまった。もう今になればどうでも良いことなのだ。

 いつからだろうか、私が彼に本当に求めていたのは愛してくれることも愛されないこともない、ということに考えついてしまったのは。気づけば愛を求めることが一番怖くなっていた。でもその時間が本当の「愛」であれば、と少し考えてしまった。それは少し高さのある階段のせいで踊り場で休憩を繰り返してしまったからなのだろう。


 七階建てのその屋上、私はもともと荷物が無かったから靴を脱ぐぐらいしかなかった。今から私は死ぬんだ、というそのままの事実が私を捉えて離さない。でも今からすることは、私なりの愛の証明だった。それしか考えられなかった。私にとってそれは愛の証明をするだけだ。だから彼に死んでくれ、だとか呪ってやる、なんていう感情は無い。いや多少はあるのかもしれないが、けれども折角ここで終われるのに、これ以上罪を重ねる必要もないのだ、と逆に清々しい気持ちだった。

「ごめんね」

 私は最期謝ることにした。私にはこの方法しか考えられなかった。もっと頭が良ければ何か違う解決ができたのかもしれない、と思った。でも最善は尽くしたのだ。その時私が一番できる選択をした。私は頑張った、と今になれば褒めてあげたい、とまで思うのだ。


 そして私は灰の、角張った空へ飛び立った。美しい景色、それはまるでこれから散ることを知っている満開の桜のような、そんな景色であった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

堕楽 かけふら @kakefura

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ