狼と狐の密約

冬野 暉

狼と狐の密約

「ここはね、檻の中なのよ」


 彼女のことを思い返すと、決まって乾いた笑みを含んだ呟きがよみがえる。

 ぽつりと落ちた雨垂れのような声は、十年の月日が流れても耳にこびりついて離れない。

 彼女は何者だったのか。わたしたちの関係を形容するにふさわしい言葉をずっと掴めずにいる。教え子というにはほど遠く、友人というには奇妙で、仇敵というには親しすぎた。

 最も腑に落ちるのは『共犯者』かもしれない。

 彼女は、故国が長らく敵対し続けていた隣国の王妃だった。

 故国において王の伯母という立場にあったわたしは、冷戦下の人質を務めていた。

 灰色の王城の片隅に幽閉され、氷の茨に搦め捕られたような日々。故国に残してきた夫や甥夫婦、ようやく膨らみはじめていた甥の妻の腹――この手で抱けなかった嬰児みどりごを想うときだけ、ひっそりと胸の裡で泣することができた。

 ある日、じわじわとわたしを絞め殺そうとしていた氷の茨はあっさり焼き払われた。

 唖然とするわたしの前に現れたのは、燃えるような緋色のドレスに身を包んだ女だった。

 豊かな栗色の巻き毛を結い上げ、清艶なくちびるで悪童じみた笑みを描いている。火矢のごときまなざしが心臓を射抜いた。

 深紅の毛皮を纏った、美しく獰猛な牝狼がそこにいた。

「お初お目にかかるわ、〈トゥスタの牝狐〉殿。さっそくだけれど、わたしの暇潰しに付き合ってちょうだい」

「は?」

 われに返って事態を把握したときには、わたしの身柄は後宮の奥殿に移され、王妃付きの家庭教師ガヴァネスという肩書きが用意されていた。

 どういうつもりなのかと問えば、彼女はあっけらかんと言い放った。

「退屈で仕方ないのよ。身籠ってからというものの、陛下のご命令で奥殿の外に出ることも叶わない。わたしに何かあろうものなら首を刎ねられるからと側付きの者どもは腫れ物扱い。まったく気が狂いそうだわ」

 彼女は王の無二のつまであり寵姫だった。結婚当初より夫婦仲は冷えこんでいたようだが、王の足が王妃の閨から遠退くことはなく彼女は懐妊した。

 しかし、夫について語るときの彼女の目は昏かった。愛も憎しみもなく、ただただ絶望が曠野あれののごとく広がっていた。

 その空虚な暗澹を、わたしは知っていた。

「家庭教師と申しましても、いったい何をお教えしろと?」

 迷惑だと隠さず態度で示してみせれば、彼女はたちまち愉しそうな笑顔になった。

「あなたのご高名はかねがね耳にしているわ。〈雷帝〉と謳われた先王の腹心として腐りきっていた政道を正し、今上の治世に至るまで多大な貢献を果たしたトゥスタの『国母』。その辣腕は名宰相として知られる夫君にも劣らぬ、能吏の中の能吏だと」

 われながら大した評判である。

 わたしはいちど死した身だ。

 母は寵愛を失って久しい王妾のひとりに過ぎず、娘に後ろ盾らしい後ろ盾も残さずあっさり儚くなってしまった。たまたま体のいい政略結婚の手駒の選ばれたものの、わたしのはらは役立たずだった。

 王家からも婚家からも見放されて毒を飲むしかなくなったわたしを、「とことん有効活用してやる」と言って拾い上げたのが王太子であった異腹の兄だ。

 それまでの王家や宮廷の在り方を心底憎悪していた兄は、血腥い政争を制して玉座に就くと破壊という名の改革を実行した。

 よくぞ故国が滅びなかったものだといまでも思う。夫を筆頭に、有能な臣下が兄を見限らずに支え続けてくれたからだろう。

 わたしはがむしゃらに兄に食らいつき、その尻拭いに明け暮れていたに過ぎない。

 偏屈な兄は晩年になってようやく愛する女性とめぐり逢えたものの、息子と引き替えに妻を喪ってしまった。兄の悲哀は埋まらぬ溝となって父子のあいだに横たわり、甥はわたしと夫の手で育てたようなものだ。

 結局、甥と和解らしい和解もできないまま兄は亡くなった。

 兄が眠る棺の前でいつまでもうなだれていた甥の背中に、わたしはどんな苦難や悲劇からもあの子を――あの子の大切なものを守ろうと決めたのだ。

 だれの母親にもなれなかった女の、悪足掻きのような意地だった。

「わたしの身の上話など、とうてい慰みになどなりますまい」

「あら、このレイシアにひとりとしていない女性官吏というだけでじゅうぶん興味深いわ。わたしの子どものころの夢はね、陛下の右腕と呼ばれるような王佐になることだったのよ」

 彼女は軽やかに笑った。

 隣国における女性の社会的な地位は極めて低い。

 かつての故国でそうだったように、女の義務は家政に尽くし、健やかな子を産み育てることだと考えられている。ましてや施政に携わるなど、王妃であっても許されるはずがない。

「この国のぼんくらどもが牝狐と忌み嫌い、畏怖するほどの女傑の冒険譚ほど心躍るものはないわ。あなただって味気ない牢屋暮らしに飽き飽きしていたでしょう? ただで相手をしろとは言わないわ。叶う限りの報酬は用意してあげられる。わたしが欲しいと申し上げれば、おやさしい陛下はなんだって恵んでくださるのよ」

 つまり、敵国からの人質であるわたしが王妃の退屈しのぎの玩具になれたのも、寵姫のわがままを王が叶えた結果だということだ。彼女の本当の望みは捨て置かれたまま。

 同情とも共感とも呼べない、あやふやな動機だった。

 けれど、灰色の王城に射しこむ夕陽よりも鮮烈な光に、わたしの目はとうに眩んでいた。

「では、筆記帳を用意していただけますか?」

 彼女はきょとんと濃褐色ビスタの瞳を瞬かせた。

 思いがけずあどけない仕草に頬がゆるむ。

「お互いを知ることからはじめましょう。まずは交換日記から」

「交換日記……」

 夫との再婚は兄の命による政略的なものだった。

 愛も安らぎも必要ないと割り切ったふりをしていたわたしに、やさしいあのひとはなんとか近づこうと努力してくれた。

 交換日記は苦くも甘い思い出のひとつだ。人間とは不思議なもので、面と向かって伝えられない文句も泣き言も感謝も紙の上では素直に綴れたりする。

 ぷは、と彼女は小さく噴きたした。

「あなたって面白いひとね、セヴィエラ!」

 屈託のない、陽だまりに響き渡るような笑い声だった。

 これ以来、彼女はわたしをただのセヴィエラと呼ぶようになる。わたしもまた、ふたりきりのときは彼女をただのアニエスタと呼んだ。

 付き合ってみれば、彼女は実に深い知識と教養の持ち主だった。政治や経済、歴史、軍事に至るまで、わたしたちは思いついた話題をなんでも語り合い、激しく討論した。

 ボードゲームや札遊びに延々と興じたときもあったし、得意な楽器で合奏したときもあった。

 交換日記は何冊も溜まって、いっしょになって読み返しては互いにからかった。口汚い喧嘩も数えきれぬほどくり返した。

 贅を凝らした檻の中で、ひたすら無情な現実を忘れて濃密な時間を過ごした。

 獣が傷を舐め合う姿に似ていたと、いまなら思う。

 彼女のそばにあることで、必然的に王との距離も近くなった。甥よりもいくぶんか年嵩の、戦場では〈武王〉と畏怖される男。

 もしも視線だけで人間を焼き殺すことができたら、わたしの命は両手の指の数ではとうてい足りなくなってしまっただろう。

「すいぶんとあれに気に入られたようだな」

 ある夕べ、彼女の許へ渡る王と入れ違いになった。

 王はわざわざわたしの前で立ち止まり、威嚇のように腰に佩いた長剣の鍔を鳴らした。

「どうやら、余はあれの機嫌をひどく損ねてしまっているらしい。いったいどのような手管であれの懐に潜りこんだのか、ぜひ聞いてみたいものだ」

 彼女を所有物のごとく『あれ』呼ばわりするたび、氷色の瞳の奥に仄暗い炎がちろちろと揺らめいていた。おぞましさとともに苛立ちを覚え、恋に狂った男を睨めつける。

「わたしは王妃陛下の望まれるものを、持ちうる限り分かち合っているだけにございます」

 渾身の皮肉は予想以上の効果をもたらしたようだった。王の顔から表情が抜け落ちたと思った刹那、鞘走りの音が鋭く響いた。

 遠巻きに様子を窺っていた女官たちが悲鳴を上げる。

 首筋に添えられた銀の刃がひやりと光った。

「あれは余のものだ」

「存じております。されど、老体から申し上げるとすれば、寵愛は支配でしかありません」

 王は黙したまま刃を納めた。

 焼けつくような一瞥を残して踵を返し、待ってもいない女の許へ愛を乞いに向かう。

 男の背中は哀れだった。

 王がわたしの忠告を理解する日はついぞ来ないのだろうと確信してしまった。傲岸で強欲な、望むすべてを手にすることが叶うからこそ、跪いてでも得がたきかけがえのないものに気づけぬ愚かな男。

 亡き兄も大莫迦者だったが、少なくとも愛したひとを不幸にはしなかった。ずいぶん年下の義姉は、最期の一瞬まで全力で不器用な夫を愛し抜いてくれた。

 愛されることが不幸だなんて、とんだ悲劇だ。愛という檻に囚われた彼女も、檻の中で愛でることしか知らない王も、いずれ生まれる彼女の子も、だれも救われない。

 わたしは目を逸らすことしかできなかった。

 どれほど彼女と親しくなろうと、わたしは手慰みの道具にしか過ぎないのだから。目先の感情で領分を見誤れるほど、わたしはやさしい人間ではなかった。

 彼女と引き離されたのは、それからほどなくしてのこと。

 最後の夜、すっかり重たげになった腹部を撫でながら彼女は呟いた。

「ねえセヴィエラ。この子が無事に生まれたら本当の家庭教師になってくれないかしら」

 栗色に煙る睫毛の下のまなざしは、いつになく物憂げに揺れていた。

 わたしは眉をひそめた。

「あいにくですが、わたしは子を持ったことがありません」

「ああ、言葉が足りなかったわね。そうではなくて……この子の『先生』になってもらいたいの」

「御子の――ですか?」

 困惑に瞬くと、彼女は小さく笑った。消えゆく残照のような、儚い微笑だった。

「ええ。きっとこの子は苦労するわ。こんな国に、こんな時代に……こんな母親の許に生まれて。けれど、もしもあなたが味方になってくれたら、どんな困難も乗り越えられると思うの」

「……買いかぶりすぎですよ」

「そんなことはないわ。だってあなたは自分自身に負けなかった。わたしには教えられない、あなたの生き方を、在り方を、この子に伝えてほしいの」

 白く滑らかな手が伸びて、老いたわたしの手を取った。そっとてのひらに触れた膨らみに、トンと内側から響いた足音に、息を呑む。

 夢に見るほど焦がれ、ついぞこの身に宿す重みを知ることのできなかった命の証。

「守ってちょうだいなんて言わないわ。ただ、この子が生きていけるように、けして自分の人生を、運命を、投げださないように――あきらめないように、わたしのような莫迦な人間にならないように導いてあげて」

「アニエスタ」

 がんぜない童女のように、彼女はくしゃりと表情を歪めた。

 わたしの肩口に顔を埋め、丸めた背を震わせる。

「もっと早くあなたと出会いたかった。……でも、この子は間に合った。だから、いいの。それでじゅうぶん、じゅうぶんなのよ」

 わたしは不意におそろしくなって、彼女の肩を抱き寄せた。細い手をきつく握りしめる。

「約束しましょう。トゥスタのセヴィエラの名にかけて」

 ほろりと、彼女の頬を澄んだしずくがこぼれ落ちていった。

 わたしが見た、最初で最後の涙だった。

「ありがとう」

 美しい、美しい笑顔だった。燃え落ちる太陽が最後に放つ一矢のような、透きとおるようにまばゆい笑顔だった。

「大好きよ、セヴィエラ」




 わたしが愛したかった牝狼は、彼女を愛していたはずの男の手で屠られた。

 不義を犯した王妃の子として産まれた彼女の娘は、王の嫡子としての可能性を惜しまれ、塔の高みの虜囚として生かされることになった。いったいどんな思惑が働いたのか、王が直々に乳母として指名したのはわたしだった。

 はじめて彼女の娘を抱いた日、はじめて彼女のために涙することができた。

 ――もっと早くあなたと出会いたかった。

「ええ……ええ。わたしもそう思います」

 もっと早く出会っていれば、あなたをあんな末路まで追い詰めずに済んだかもしれなかったのに。

 檻の中でひとり抗い続け、そして絶望していったあなたを解き放つことができたかもしれないのに。

 ――でも、この子は間に合った。だから、いいの。それでじゅうぶん、じゅうぶんなのよ。

 アニエスタ。あなたが笑ってくれたから。

「約束を果たしましょう、わたしの狼。必ずやこの子を、わたしたちの娘を見事に育て上げてみせましょう。そしていつか、この忌まわしき檻の中から……」

 すやすやと眠る嬰児のちいさな額に、彼女の代わりに祝福の口づけを贈る。

 獰猛な牝狼の血と、狡猾な牝狐の知恵を受け継ぐ、愛しい娘。この子が羽ばたく空には、輝くような深紅の色こそふさわしい。

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