新しいメガネ

松原凛

新しいメガネ

 メガネがないと思って探していたら、家の駐車場に落ちていた。

 メガネはお父さんのごつい車に下敷きにされ、見るも無惨な形にひしゃげていた。

 ああ……かわいそうに。五年間私と共にあったメガネを燃えないゴミの袋に入れて、お母さんが捨てたフライパンと一緒にゴミの日に出した。

 二週間後、メガネができたとメガネ屋から連絡があり、さっそく自転車を飛ばして取りに行った。

 新しいメガネ!

 前のメガネと見た目は一緒だが、その赤いメガネをかけると傷も曇りもなく、世界が新しくなったようだった。

「ただいま!」

「おかえりアカネ」

 新しいフライパンを買ってお母さんも上機嫌だった。

 私は階段を駆け上がり、自室のベッドにダイブした。

 おっといけない。せっかくの新しいメガネが変形してしまう。

 私は机に向かい宿題のプリントに取り掛かった。

 嫌いな数学までするすると解けてしまうような気がしたけれど残念ながらそれはなかった。

 ……ん?

 私はおかしなことに気づいた。教科書の公式が動いている。

 よく見るとそれは虫だった。一匹の小さな黒い虫が教科書の上を這っている。

 とっさに手で叩いた。虫はぺしゃんこに潰れ、私の手に張りついた。数学の教科書には血がついていた。

 私は手についた虫をティッシュでくるみ、ゴミ箱に捨てた。

 しばらく黙々と問題を解いていると、今度は指を虫が上ってきた。

 もう、なんなのさっきから。

 私は苛立ちながら、また血がつくのも嫌だからティッシュを取ろうと立ち上がろうとして椅子から転げ落ちた。

「ひ……っ」

 なにこれ。なにこれ。部屋の床を無数の黒い虫が這っている。隙間もないほどうじゃうじゃとひしめいている。どこからこんなに大量の虫が湧いてきたのか。

 靴下を履いていてよかった。一匹ならまだしもこんなに大量の虫を踏み潰すなんて気持ち悪すぎる。踏みたくない。でもとにかく部屋を出なければ。お母さんに言って、殺虫剤をもらって……。

 私は立ち上がり、おそるおそる一歩踏み出した。虫たちは身の危険など知らず床を這い回り、私に踏まれて呆気なく死んでいった。白い靴下は虫の死骸と虫の血で赤黒く染まっていた。

 私は悲鳴をあげながら階段を駆け下りた。階段も虫だらけだった。

「お母さん! 助けて!」

「あら。どうしたの」

 お母さんは虫に囲まれてのんきにハヤシライスを作っていた。大好きなハヤシライスにも虫が入っている。

「虫……虫が……」

「虫? なんのこと?」

 お母さんはキョトンとする。

「もしかして見えてないの?」

 私はあ然とした。こんなに大量の虫が見えてないなんて。

「虫なんてどこにもいないけど。新しいメガネが合ってないのかしらねえ」

 お母さんに言われてはっとした。

 メガネを外してみた。すると虫はどこにも見えなくなった。

 嘘みたいだ。またメガネをかけた。虫が大量発生した。メガネをはずす。虫はいなくなった。かける。いる。はずす。いない。かけるはずすかけるはずすかけるはずすかけるはずすかける……いる。

「やっぱりいるううううううう!」

「アカネ、大丈夫……?」

 お母さんが心配そうに見ている。

 とにかく、このメガネをかけなければ虫は消えることがわかった。おかしいのはこのメガネなのだ。でも、メガネをかけなければ、視界がぼやけてほとんど何も見えない。

「メガネを調整してもらいたいんだけど、メガネ屋に連れてってくれない?」

「ええ、いまからお客さんが来るから明日にしてちょうだい」

 明日まで待てるわけがない。私は仕方なくメガネをかけて外に出ることにした。

 家の外も虫だらけだった。地面だけじゃない。よく見ると、空中にもふよふよと虫が飛び回っていた。音もなく、虫たちはそこらじゅうを蠢いていた。キモい。キモすぎる。でもメガネをかけなければメガネ屋までたどり着けない。

 これは現実じゃない。このおかしなメガネが見せている幻想だ。

 そう念じながら必死で自転車を漕ぎ、メガネ屋にたどり着いた。

「これは虫メガネですね」

 黒縁メガネをかけたメガネ屋の店員が言った。

「はい?」

「虫メガネです。お客様がよく見えるメガネが欲しいとおっしゃったので」

「たしかに言いましたけど、普通のメガネでいいです」

 お金を払って変なメガネを渡されるなんてごめんだ。

「それは失礼いたしました。すぐに普通のメガネと取り替えさせていただきます」

 店員はすぐに見た目も度数も同じメガネを持ってきた。

 私は新しい赤いメガネをかけた。

 そうそう、これだ。この曇りのないクリアな視界。虫なんて一生見たくもない。

 帰り道、自転車を漕ぎながらメガネ屋の店員の言葉を思い出した。

『よく見えるメガネが欲しいとおっしゃったので』

 店員はそう言った。

 そこにないものが見えるんじゃなく、よく見えると。

 それならあの大量の虫は幻想ではなく……私はぞっとした。

 靴の裏を見た。茶色のゴムに虫のようなものはついていなかった。ついていないように見えた。でも、よくよく見ると、いた。無数の虫が。ぺしゃんこになってへばりついていた。

 空気中にも。道のいたるところにも。家の中にも。ベッドにもお風呂にもハヤシライスにも。虫はいた。お父さんの顔にも。お母さんの顔にも。私の顔にも。私の中にも。

















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新しいメガネ 松原凛 @tomopopn

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