眼鏡は人の道具、だから
丸毛鈴
かつて眼鏡だったもの。その割れたレンズごしに夕焼けが見えた。
血の、においがする。だから、思い出したんだ。
はじめてお前に会ったとき。わたしはいくつだったかな。たしか、六つか七つ。お前はすこしおにいさんに見えたね。お前もわたしもあの白い貫頭衣を着ていた。
わたしを見るより先に、お前は言った。
「血のにおいがする」
わたしはバツが悪くなって、服に手をこすりつけた。そんなことで、何もぬぐい取れやしないのに。でも、お前はまったく表情を変えずにつづけた。
「あっち、来い。大きなタイヤがあっておもしろい」
お前は大きなタイヤに全身で組みつき、それをゆらした。ああ、たしかにこいつは熊なんだな、とわたしは思った。もっとちいさいころ、施設で連れて行ってもらった動物園で、白黒の熊がそうして遊んでいた。わたしはちょっとうらやましいな、と思った。いまは人の姿をしたこいつがどうやって熊になるのか知らないけれど、こいつはあの痛みに耐えなくてもいいのだろう。出撃前、筋量と骨量と神経伝達物質を増量する、あのミシミシとした気持ちの悪い痛み。
「人を殺したのか」
お前は平たんな口調で尋ねた。ゆらゆら。貫頭衣の裾が揺れて、脛がのぞく。それは、年齢にそぐわない真っ黒な毛に覆われていた。
「お前だって、そうだろ」
「俺は、熊になっている間のことは覚えていないし、熊だから」
「いっしょじゃないか」
「俺は熊で、お前は人だろ。熊は、人を殺す。でも、熊は熊を殺さない」
ひどいことを言われている気がした。わたしは、ぎゅうっと唇を噛んだ。
「しかたないだろ。ほかにいられる場所なんて、ない」
いつのまにかお前はタイヤの上にあごを乗せて、わたしを見ていたね。黒目がちなあの目で。
「そうしないと、生きられない、ということか」
わたしはうなずいた。お前はすこし考えた。
「人は、生きるために人を殺す。大変だな」
そう。いま、血のにおいがする。ほかでもない、わたしの血のにおい。家だったものの残骸に身を横たえて、空を仰ぎ、熱く荒い呼吸を繰り返す。あのころのわたしが多くの人に与えたものが、今度はわたしに与えられただけだ。ああ、でも、それをわたしに与えたのは――。
立ち上がろうともがいたわたしの右手が、じゃりっと何かをつかむ。それは、眼鏡だった。フレームが歪み、レンズが割れた、眼鏡の残骸。
これをはじめてかけたとき、お前は言ったね。ずいぶんと上手くなった人のことばで。
「これは、人の道具だろ。いらない」
あのころは、まだお前はごつごつした五本の指を使い、二本足で立っていた。「いつか必要になったときのために、慣れておけ。服と同じだ」と言ったら、お前は「視力が悪くなったら、死ぬしかないと思う」と言った。
「どうして」
「俺は熊だから」
「でも、人の姿をしている間は、人だ」
「俺は、熊なんだよ。この姿をしていても。目が悪くなったら、食いものが探せない。そう俺の体が言う。死ぬしかない」
「その姿のときは、どのみち鼻もきかない。人と似たようなものだろう」
「それでも。熊としての俺が死ねば、俺は死ぬ」
「わたしといっしょに、生きるんじゃないのか」
お前は真剣な目をしたね。いや、お前はいつだって真剣だった。
「お前は人で、俺は熊だ。これは人の道具だ。それと、俺はいつか、熊になる」
「そんなことは、覚悟してる」
わたしがあきらめてお前から眼鏡を外そうとすると、お前は手で制した。
「これは、かけておくよ」
「いらないんだろ」
のびあがって眼鏡のつるに手を伸ばしたわたしの頭を、お前はくしゃっとなでた。
「せーたいへーき、だっけ。せっかく引退できたんだ。残りの時間ぐらい、ゆっくりする」
「そんなもの、いらないって言ったくせに」
「服だって着ているんだ。眼鏡ぐらい、かけるさ」
お前は笑って言った。
「俺は熊で、お前は人だ。それは変わらない。いつか、その日、お前が止めてくれたら、それでいい」
逆光で、お前の顔はよく見えなかったけれど。お前はあのとき、どんな顔をしていたのかな。
覚悟していた。覚悟して、覚悟して、覚悟して、覚悟して、だんだんお前の体がかたい毛でおおわれて、人の言葉をしゃべらなくなった。毎日覚悟をして、今日が来た。それだけのことだ。たったひとつの誤算はお前を仕留めそこねたこと。わたしは眼鏡だったものを握りしめた。お前がかけた、人のための道具。ガラスが刺さったのだろう。どこに残っていたのか、わたしの掌から新たな血がしたたった。
わたしは血を垂れ流しながらはいずる。かすむ視界のなか、家だったものの残骸に、ベッドを見つける。わたしはそこに手を伸ばし、細長い布の包みを引っ張り出す。包み布を口にくわえて引き払うと、ひと振りの刀と猟銃が現れる。
多くの敵をほふった超合金のわたしの得物。それと、「熊殺し」の名をもつ、旧式の銃を模した屠殺兵器。
わたしは刀を支えに立ち上がり、「熊殺し」を背中にかける。そして、右手に握ったままだった眼鏡をかけた。割れたレンズ越しに、沈みゆく夕日と、それに照らされ、昏い森に続く血痕が見えた。“強化”も受けない、ただの人のこの肉体で、仕留められるのか、お前を。わからない。わからないが……。
わたしは叫ぶ。獣の雄たけびを上げる。肺が、肉という肉に焼けつくような痛みが走るのもかまわず、夕焼けに向けて。
――やる。やってみせる。
わたしは刀を杖がわりに、一歩、また一歩と昏い森へ歩みを進めはじめた。
眼鏡は人の道具、だから 丸毛鈴 @suzu_maruke
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