であい
香久山 ゆみ
であい
「お嬢さん、お宅まで送っていきますよ」
後ろ姿に声を掛ける。
「お嬢さんって呼ぶのはやめて。うちは小さな鉄工所なのに、大袈裟だわ」
長い黒髪が振り返る。白いブラウスに、紺色のプリーツスカート。学校帰りにこの工場まで寄ったのだろう。
彼女はいつもそう言うのだが、彼は返しに窮してしまう。三十前の男が十八の少女に対して「○○ちゃん」というのも馴れ馴れしい気がするし、かといって「さん」付けで呼ぶのも妙に女性として意識しているような感じがする。そんなことを考えて、結局いつものように「お嬢さん」と呼ぶことになる。勤め先の社長の一人娘なのだから。けれど、彼女はそれが気に入らないようだ。相変わらず「お嬢さん」と呼ばれることに呆れ顔をしている。
裏手から自転車を引っ張ってきて、二人並んで歩き出す。
「仕事終りでお疲れでしょうに、送ってもらってごめんなさい。でも、心配してくれて嬉しい」
「ええ。社長が心配なさって、遅いから送っていけと」
「なあんだ」
彼女が口を尖らせる。そんな気持ちを知ってか知らずか、「まあ、頼まれなくても送りますけど」と彼が付け加える。目が合うと穏やかに微笑んでいる。自分だけが顔を赤くしているような気がして、彼女はそっぽを向く。彼の優しい目が好きだ。ずっと見ていたいと思うけれど、なかなかそうもいかない。
「あ。あの星、何かしら」
視線を逸らした先に、一際輝く星が見える。美しいものは好きだけれど、星座には疎い。彼は休憩時間によく本を読んでいるし、詳しいのではないか。星座の話題などロマンチックだと思ったが、返ってきたのは生憎の言葉だった。
「残念だけど、僕は視力が弱いから星空はよく見えないんだ」
「そうなの? けど、皆で花見に行った際、迷子になった私を一番に見つけてくれたのに?」
「はは。そんなこともあったね。けれど実際、近視がひどくて遠くのものは全然見えないんだ」
「なのに眼鏡を掛けないの?」
「なんとなく眼鏡を作りにいくのが億劫でね」
「高いですものね」
「そうだけど、値段のためじゃないよ。僕の友人にもひどい近視の奴がいて、眼鏡を買いに行ったんだけど、店主に勧められるままに注文して、完成してみたら全然似合っていなくってさ」
「あら、注文前に試しにフレームを掛けさせてくれるでしょう?」
「うん。けど、如何せん目が悪いから、鏡の前に立っても眼鏡を掛けた自分の顔がぼやけてしか見えないのさ。それで店主を信じたらあの
「なら、私がついてってあげる!」
またとないチャンスに、思わず食い気味に大きな声を出してしまった。
「いいのかい。助かるよ。なら、今度の日曜日はどうだろう。帰りにパフェーでもご馳走してあげよう」
また子供扱いして。デートだってこと、この人分かっているのかしら。
「私ね、高校卒業したら、食品会社の事務員に就職が決まったのよ。働きに出るのだから、もう大人よ」
本当は、女は十六から結婚できるのよ、と言ってやりたかったが、あまりに生々しいような気がして、遠回しなアピールになってしまった。
「おめでとう。でも社長からは自動車会社に就職だと聞いたけど」
「父は、知り合いの会社に就職させたがったんだけど、私は自分で勤め先を見つけたの。だって、お父さんたら、女の子は数年勤めたら結婚するんだからどこでも一緒だなんて言うのよ。あまり自己主張が強いと嫁にいけないぞなんて、喧嘩しちゃった」
「これからは女性もどんどん外に出て活躍する時代だから、それくらい気が強い方が頼もしいよ」
お世辞でもなさそうに笑っている。
結婚の話が出たついでに、思い切って質問してみる。
「ねえ、鷲尾さんは結婚しないの?」
もてるでしょうに。という言葉は飲み込んだ。
「ふっ、親子だね。社長からも所帯を持てとよく言われるよ。僕は早くに両親を亡くしたから、今まで生きるのに必死で結婚なんて考えもしなかった。そんな相手もいなかったしね」
なら、定職に就いた今なら? 相手は私なんてどうかしら? そう聞けないままに、自宅の家の前に着いてしまった。
「ありがとうございました。おやすみなさい」
「うん、おやすみ。遅くなると危ないから、あまり学校帰りに寄り道してはいけないよ。社長からも工場には顔を出すなって言われているんだろう」
幼い頃より工場へ遊びに来て粉塵を吸い込んだせいか、彼女は気管支が弱い。両親は一人娘を心配して、あまり工場内に入れたがらない。なのに、彼女はやって来る。
「私、遊びに行っているわけじゃないんですもの。番長の世話をしに行ってるの」
彼女が顔を真っ赤にして言うから、彼は思わず笑い声を上げてしまった。
「はは、どうして雌犬に番長なんて名前付けたの」
工場では番犬として犬を飼っている。野良だった仔犬を拾ってきて育てた。名付けたのは彼女だと聞いている。
「あら、これからは女も強くなくちゃいけないんだもの」
つんと澄まして上手いこと誤魔化したつもりなのに、彼は「ふうん」と言いながらにやにやしている。
「もう! だって、雄犬だと思っていたんだもの。大きくなって雌犬だって分かってから、違う名前を付けて呼んでも、もう全然反応しないんだもの。仕方ないでしょ」
いたたまれなくて早々に白状する。彼の目に弱い。
「ははは」
「ふ、ふふふ」
なんだかおかしくって、二人でけたけた笑った。笑いすぎて、ケホケホと
あまりに騒がしいと家の中から母に注意されて、ようやく二人はさよならした。
日曜日、二人連れ立って街まで出て、眼鏡店を訪ねた。
ここの店はいい商品を揃えているって、クラスメイトの間でも評判なの。と誘ったくせに、彼女の選んだ眼鏡はひどいものだった。
彼には悪いけれど、なるだけ似合わない眼鏡を見繕ったのだ。他の女性達が彼の瞳の美しさに気付かないように。
店の隅の応接卓で注文伝票を記入するよう指示して、店主は慌しく店内へ戻って行った。日曜に開けている店は少ないため、どうしても客が多くなるのだという。早速記入しようとしたものの、渡されたボールペンはインクが出なかった。仕方なく、彼は胸ポケットに挿していたペンを取り出した。
「日中連絡のつく番号は、会社の電話番号にしておいた方がいいかな」
それで、最近引いたばかりの電話番号を覚えていないという彼に代わって、ペンを受け取り彼女が会社の連絡先を記入した。
完成は二週間後だということで、また二人で取りに来る約束をした。
パフェーはあっという間に食べ終えてしまって、次はもっと時間の掛かるものを要望しようと思った。
家に帰ってからようやく、彼にボールペンを返すのを忘れてそのまま取り込んでしまっていたことに気付いた。
工場へ顔を出した時にでもさっさと返せばいいものを、なんとなく返しそびれて、肌身離さず持っていた。
二週間後、完成した眼鏡を引取りに行った。
出来上がった眼鏡は、縁の太い四角い眼鏡で、上手い具合に彼のきれいな目を隠してくれる。まあ似合わない。けれど、彼自身は眼鏡を掛けてみて「うわあ、世界がきれいに見える。お嬢さんも」と喜んでいた。
「これで星もきれいに見えるね」
そう言ったものの、店を出たらまだ昼間だ。当然星など見えない。こないだみたいにちょっと食事をしたくらいではまだ早い。だから、彼女は提案した。
「ねえ、新しくできたプラネタリウムに行ってみたい」
「いいね」
科学館のプラネタリウムドームの薄暗いシートに二人並んで座る。
天球上に満天の星空が映し出される。
「うわあ」
彼の方が思わず声を上げて、すぐに気恥ずかしそうに笑う。ふふふと彼女も笑う。
ゆっくりと星空が巡る。春の星座から始まり、季節を重ねていく。
解説員が夏の星空の説明をする。
「天の川を挟んだベガとアルタイル、七夕伝説で有名な織姫星と彦星です。星座ではそれぞれ琴座と鷲座の一等星です」
その解説に、思わず顔を見合わせる。
いつの間にか、肘掛に置いた腕が触れている。当然手を繋いだりなんてしないけれど、互いに投影時間中ずっと腕を動かすこともなかった。触れた肌が熱を帯びている気がしたけれど、その熱が自分のものなのか相手のものなのか分からなかった。
まるで何事もなかったように、科学館を出る。外はまだ明るい。
「せっかく星空のおさらいをしようと思ったのに、残念ね」
地元の駅まで戻った頃、ようやく西の空が赤く染まり始める。
今日のデートも終了だ。
別れる前に、彼女は話があると切り出した。
「ごめんなさい」
そう言って、先のボールペンを差し出した。
「なんだ、深刻な顔をしているから何事かと思った。いいよ、別に持っていても。……見覚えないかな、実はもともとそれは君のペンだったんだよ。工場で借りっぱなしになってしまって」
彼は面映そうに頭を掻いた。
「なんだ。夏頃に失くしたと思ったから、もう半年間も鷲尾さんが持っていたのね」
二人して笑う。どのみちそもそも会社の備品なのだ。
結局ボールペンはそのまま彼女の鞄にしまわれた。こんなペンなんてどこで失くしたっておかしくないのに、ずっと彼が持っていたのだと思えばいっそう愛着が湧く。
「この時間なら、もう星が見えるかもしれないね」
彼が自転車を取ってきて、荷台に彼女を乗せる。河川敷を二人乗りで走る。
「鷲尾さん、運転免許取ったら自動車に乗せてね」
「了解」
高台まで来ると、空が見渡せる。二人で星を探す。
「解説員の方は開けた場所からなら見えると言っていたけれど、本当かしら」
「お、あった!」
「え、どこ?」
「琴美さん、こっち。ほら、あそこ」
鷲尾の指差す方を見ると、確かに南の空低くに赤いカノープスが輝いている。別名、長寿星。
本当だ、と言いながらも彼女の心はそれどころではない。名前で呼んでくれた! けど、口にするとするりとなかったことになってしまうような気がして、彼の隣に並んで黙ってじっと星を見ていた。
コホンと咳が出た彼女に、彼が上着を羽織らせる。彼女は、まだ彼の温もりが残る上着の前をぎゅっと掻き合わせる。昼間触れた腕はもっと熱かった。
あと一歩だけ近付けばまた腕が触れそうな距離だったけれど、ドキドキして動けなかった。今、一緒に同じ星を見上げているだけで十分に幸せだと思った。
そうだ、少しずつでいい。若い二人にはこれからまだまだ長い時間があるのだから。
であい 香久山 ゆみ @kaguyamayumi
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