空気になってしまった

入江 涼子

第1話

   あたしは空気になっていた。


  正確に言うと透明人間だが。なーんであたしがならなきゃいけないのよ。文句を言ってもそれすら空気に溶ける。仕方ないのでアスファルトの道路を歩き出す。服を着れないので「へーくしょい!」とくしゃみが出た。チックショウ。あの馬鹿男に文句を言いたいわね。秋が深まってくる中、ブルブルと震えながらもう一回くしゃみをしたのだった。


「……やあ。寧々ちゃん。今日も元気そうだねえ」


「……元気も何も。あんたの作った変な薬のせいで今日も透明人間じゃあないのよ!!」


「まあまあ。そう怒らない。僕は天才科学者だからね!」


  えっへんと威張るのは幼稚園の頃からの幼なじみである伊東 康介だ。あたしと康介は同い年で現在、22歳だった。自称・天才科学者の康介は実験だと言ってはあたしやご両親に変な薬を飲ませていた。今回も蛍光ピンクの怪しげな液体を作り出し、「お肌が綺麗になる効果があるよ」と騙して飲ませられた。それを飲んで一晩経ったら今の状態--透明人間になってしまったのだった。


「……康介。さっさと元に戻しなさいよ。いい迷惑だわ!」


「ごめんって。でも大丈夫だよ。3日経ったら元の体に戻れるから」


「ざけんじゃないわよ。昨日からこの状態なのに。寒くってたまんないわ」


  つい言うと康介は眉を八の字に下げた。ちょっと困り顔だ。


「気づかなくって本当にごめん。じゃあ、うちにいなよ」


「なんで?」


「うちだったら寧々ちゃん用の服もあるし。透明人間になってしまった時用の食べ物や飲み物も用意してある」


  あたしは仕方ないので頷いた。康介の家に行ったのだった。


  その後、康介が自室兼実験室から衣服と飲み物を持ってきてくれた。衣服は特殊な素材で作られており認識阻害の薬品が使われているらしい。見かけは普通のシャツとズボンだが。下着類もあったので有難く着させてもらう。衣服を身に纏ってやっと寒さからは抜け出せた。飲み物は温かいココアだ。喉が渇いていたので助かった。


「……寧々ちゃん。いや。篠村寧々ちゃん。君はバカだね」


「こ、康介。いきなりどうしたの?」


「君は本当にちょろい。僕が嘘をついているのを見抜けないんだから」


  康介がにっと口端を上げて笑う。けど目は笑っていない。ぞくりと背筋が粟立った。


「君はいつだって文句は言っても最終的には僕の要望を受け入れてしまう。だから透明人間にしてあげたんだ」


「……何を言っているのかよくわからないわ」


「それはそうだろうね。要は君を誰にも渡したくない。男に会わせるなんて以ての外だ。寧々ちゃんは僕だけのものだから」


  康介の言葉にあたしはフリーズしてしまった。あたしが康介のものって。戸惑っているうちに康介はあたしの二の腕を掴んだ。強い力に痛みを感じて眉をしかめた。


「……ずっと君に触れたかった。好きだよ。寧々ちゃん」


「この手を離して。あたしは康介の事は幼なじみとしか見ていない」


「そうか。けどこの家には僕と君だけしかいない。諦めるんだね」


  康介は笑みを深めた。眼鏡をかけてはいても奴は美形だ。それでもあたしは逃げる方法はないかと考える。不意に閃いた。手に意識を集中させた。手よ、本当に透明になれ!


「……なっ。寧々ちゃん?!」


「……あたしはヤンデレはお断りよ。あんたの恋人になるくらいなら透明人間のままで結構だわ!」


  掴まれた二の腕が康介の手をするりと抜け出す。あたしはその隙をついて廊下を駆け抜けた。足音も他の人には届かないけど。構わずに玄関のドアの鍵を開けた。そのまま、裸足で外に逃げ出した。はあはあっと息が切れる。2軒隣の自宅にたどり着くと急いで玄関のドアを開けた。幸いにも鍵は開いていた。バタンッと閉めて鍵をかける。そのまま、室内に上がり込み、自室に急いだ。


「……はあはあ。ヤバかった」


  独り言をつぶやきつつも自室のドアを閉めて鍵もかけた。ズルズルとドアに寄っ掛かりながらへたり込んだ。透明人間から元の体に戻るまで後2日。うまく康介から逃げられるのか。あたしは途方に暮れたのだった。


  翌朝、キッチンに行くと机の上にメモが置いてあったのに気づいた。母さんの字でこう書いてあった。


 <寧々へ


  お母さんとお父さんは旅行に行きます。その間、お隣の植村さんに寧々の事はお願いしておいたの。


  もし何かあったら植村さんに頼りなさいね。明後日には帰ってくる予定です。


  それと食事は冷凍庫にカレーとご飯があるわ。他にはシチューとグラタンも作り置きしているから。


  それらを食べてね。じゃあ、戸締まりには十分に気をつけて過ごしてください。


  母より>


  あたしはあまりの内容に愕然とした。なんでよりにもよってこんな時にいないのよ。しばらくショックのせいでその場を動けなかった……。


  仕方ないので冷凍庫を開けようと試してみた。すると意外な事に開いたのだ。どうやら、康介の作った服のおかげのようであたしは複雑だった。冷凍庫からグラタンを出してオーブントースターで温める。これもうまくできた。ふと戸棚に手鏡があったので自分の姿を映してみる。なんと普通に見えるではないか。あたしはやったあと両手を上げて喜んだ。その後、グラタンが出来上がったのでフォークで食べた。満腹になったが。お皿洗いをしてから自室に戻る。机の上に置きっ放しになっていたスマホを手に取った。着信履歴などをチェックする。康介からメールが届いていた。読むのも嫌だったが。我慢して読んでみた。


 <寧々ちゃん。昨日はごめん。


  あの薬の中和剤をココアに入れておいたんだ。君があんなに怒るとは思わなかった。


  これからは君を試すような真似はやめるよ。関わり合いにもならないようにするよ。


  それでは>


  読み終えるとあまりの事に驚いてしまう。それでも元に戻れたのでよしとしたのだった。


  その後、あたしは帰ってきた両親に透明人間になってしまった事を話した。父さんは激怒し母さんは呆れかえっていた。伊東さん--康介のご両親も聞いたらしくうちに謝りに来てくれた。いくら、あたしと康介が成人していても黙ってはいられなかったらしい。康介はお父さんにこっぴどく叱られたらしい。あたしはやっとドタバタから解放された。康介とは微妙な間柄になったが。仕方ないと思う。今日も元気にバイトに向かったのだった。


  -完-

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