【BL】全裸のまま縛られた両手両足を解いてもらうため恋人に全力で謝罪せよ

祐里

魚介のペンネアラビアータ


 高いビルが立ち並ぶ都会の一角で、俺は仕事を終え、帰路についた。駅の改札前、立ち食いそば屋の出汁が効いたつゆの匂いが空腹を加速させる。


 本当は一番センシティブな案件が残っているというのに、『今日も無事に終えられてよかった』などと、綺麗事を自分に言って聞かせる。精神安定には必要なことだからだ。だが、そう考えた途端つり革を持つ手からわずかに力が抜け、思ったより気落ちしている自分に気付いてまた落ち込むという悪循環が始まる。


 そこへ、同棲している恋人から連絡が入った。つり革から手を離してスマートフォンの通知をタップすると、『養生テープ買ってきて』という文字が並んでいる。


『養生テープ? 緑色のでいいのか?』


『うん。よろしく』


『何に使うんだ?』


『健康増進のため』


『何だそれ。まあ、買っていくよ』


 落ち気味メンタル悪循環は、恋人の謎めいた要求のおかげで断ち切られたらしい。塞いでいた気分が少し元に戻ったようだ。


 電車を降りて、コンビニエンスストアで養生テープを買う。他に、チョコチップ入りもちもちクレープと、恋人が好んで食べるプリンアラモードも。


 手に白いビニール袋を提げて帰宅し、「ただいま」と一言告げる。キッチンにいるのであろう恋人のすぐるの「おかえり、りょうくん」という優しい声に安心感を覚えながらダイニングテーブルにコンビニエンスストアの袋を置くと、彼は微笑みながら「ありがとう」と振り返った。


 それから俺は寝室へと足を運び、スーツの上着を脱いでクローゼットのハンガーに掛けた。ネクタイをゆるめて大きく息をつくと、一日の疲れが少しだけ吐き出せた気がする。


「おなかすいてる?」


「うん、すいてる」


「そう、でも悪いんだけど、先に風呂入ってくれるかな」


「ああ、わかった」


 外したネクタイや脱いだズボンもクローゼットに入れ、コンタクトレンズを外してから風呂に入る。シャワーの湯を頭に掛けていると、傑の「オリーブオイルと仲良くならなきゃ」という言葉をふと思い出し、少し笑ってしまった。


「俺は上手く作れないからなぁ」


 独り言は当然、シャワーの音でかき消された。



 ◇◇



 どうして俺は今、全裸に太黒縁眼鏡だけという情けない格好なのだろう。どうして養生テープをべたべたと巻きつけられ、縛られているのだろう。最初は楽しそうな笑みを浮かべる傑に両手首を後ろ手に縛られ、「ん?」と思っているうちに、両足首も縛られてしまった。もしどこかに移動したいのであれば、両足を揃えた状態でぴょんぴょん跳ぶしかない。しかしそんなことをしたら眼鏡がずり落ちそうだ。疲れた体ですることでもないだろう。


「あのー、傑くん……? こういうプレイしたいの?」


 口から出てくる声まで弱々しく、情けない。ベッドの上に座らされている俺の目の前に立つ傑が、冷笑を浮かべているからだ。


「んー、それも、なきにしもあらずなんだけど……」


「そうだったのか……こんなことする前に言ってくれれば、俺だって考えたのに……」


「それは置いといて、目的を果たすことにしよう」


 譲歩しようとする俺にそう言い捨てて、傑は寝室を出ていってしまった。俺は寂しく一人きりだ。少々寒いのだが、傑はエアコンをつけてくれるだろうか。俺には、リモコンを手に持つことができたとしても、操作が難しい。


「お待たせ」


 十五分程待ったところで、傑が寝室に戻ってきた。俺は相変わらず縛られたままだ。


「ああ、ごめん、寒いよね」


 そう言って、傑はエアコンの暖房を入れてくれた。やはり彼は俺に優しい。それなのにどうして俺はこんな目に遭っているのだろう。


「こういうプレイしたいなら、コンタクト外さないでおいたのに。めが、ね……」


「いや、だから、それもなきにしもあらずなんだけど、目的は違うんだよ。じゃ、やるね」


 俺の言葉を奪って言うと、彼は廊下から大きめのトレイに乗せた料理を運んできた。俺の好きな、魚介のペンネアラビアータだ。ベッドサイドのミニテーブルに置くと、それまで弱かったにんにくの香りが強くなり、食欲をそそる。


「ちょっ、何でここで食べるんだよ」


「いいから」


「俺、腹減ってるんだよ……遊んでないで、俺にも食わせてくれないか」


「嫌だ」


「何で……ずいぶん意地悪だな……」


 相変わらず、俺の口は情けない言葉しか発せないでいる。そんな言葉を出すことに口を使いたくない。その美味そうなアラビアータを食わせてほしい。


「亮くん」


「ん?」


 傑が、一口目を咀嚼し、飲み込んでから俺の名前を呼んだ。俺にも一口食わせてくれるのだろうか。


「最近、会社の近くに何かおいしい店できた?」


「え、ああ、まあ、あそこらへんは商店街になってるから、いろいろと……」


「例えば好きな具を挟んだものを気軽に買えて気軽に食べられる、コッペパンの店とか」


「えっ!?」


「亮くん、よく食べて帰ってきてるでしょう」


「えっ! いや、その、いや、あのっ……!」


「僕が食事を用意して待っているというのに」


「そ、その、ちちち違うんだ、あれは、そのっ……!」


 俺の発言は、ますます情けなくなっていく。まるで浮気した男のようだ。一途な性格で浮気なんて微塵もするつもりはない俺が、「ちちち違うんだ」なんて、まさかこの人生で言うことになるとは思っていなかった。


「うん、我ながら美味しくできてる。今日はムール貝も入れたから。やっぱり貝はいい出汁が出るね」


「……うっ……」


「亮くんがコッペパンに挟むのは、ピーナツバターとホイップクリーム……、ああ、あと、苺ジャムとマーガリンだよね」


「そ、そんなことまで……何でわかるんだ……」


「亮くんのことなら、何でもお見通しだからだよ」


 アラビアータソースのせいか、傑の弧を描く唇が、赤く艶めかしい光を持つ。


「ペンネの茹で加減もちょうどいいなぁ。やっぱ僕、料理の才能あるんだ」


 一口、また一口と魚介のペンネアラビアータを食べていく傑を、俺はただ見ていることしかできない。コンタクトレンズは外したが、眼鏡を掛けているためよく見える。カットトマトが溶けずに残っているところまで、黄色っぽいムール貝の腹にトマトソースが絡んでいるところまで、よく見える。なんて拷問だ。


「傑くん……、ごめんなさい……」


「ん? 何がごめんなさい?」


「そ、その、傑が食事用意してくれてるってわかってるのに、黙ってコッペパン食べて……ごめんなさい……」


「うん、そうだね。あとね……」


「……あと……?」


 俺は、ごくりと唾を飲み込む。決してアラビアータのせいで出てきた唾液ではない。この緊張感を演出するために出した唾液だ。決して、決してアラビアータのせいではない。断じて違う。


「健康のために、だよ」


 そう言ってかちゃりとフォークを置くと、傑は俺の腹を触った。くすぐったい。やっぱりこういうプレ……


「亮くん、お腹出てるよ」


「!?」


「コッペパンが育てちゃったんだね」


「まままままさか!!」


「出てるって。ほらここ、ぷにぷにしてるよ」


 傑が俺のへその下や脇腹の肉をもてあそんでいる。本当に、ぷにぷにしている。傑の手から、音が聞こえてきそうだ。ぷにぷにぷにぷに……。ちょっと気持ちいい。


「ちょっと気持ちいいとか思ってないでさぁ、気を付けてよ」


「なっ、何でわかるんだ!?」


「亮くんのことならお見通しだからだよ。あ、でもね、コッペパンの店はこれで知ったんだ」


 傑が見せてくれたスマートフォンの画像には、コッペパン店に並んでいる俺の後ろ姿が写っていた。


「うぉお……俺だ……寸分の狂いもなく俺だ……」


「慣用句の使い方おかしい。たまたま僕がこの近くに行った時にGPSが拾って、この地域の情報として店の写真が出てきたって感じかな」


 SNSというものは怖い。誰かがアップロードした写真が、本人に何の了承もなく、その場にいる人々のアカウントにばらまかれてしまうのだから。


「うう……、ごめんなさい……。傑と同じスポーツジム通うから、アラビアータ食べさせてください……」


「本当に? うれしいなあ」


 これまで、傑に誘われても俺は仕事が忙しいからと言って断ってきた。こんなにうれしそうな顔を見られるのなら、もっと早く通い始めていればよかった。


「平日は無理かもしれないけど、休みの日は一緒に行こう」


「うん。じゃあ解いてあげる……っと、その前に、ご褒美あげるよ」


 そう言うと、傑は俺にキスをした。アラビアータの味のキスで、俺の空腹はよけいに増してしまったが、口を塞がれているため文句は言えなかった。唾液が下唇を伝い、顎まで到達する。これはアラビアータのせいではない。色っぽいことをするための唾液だ。決して、決しておいしい味のせいではない。断じて。


「ダイエットがんばろうね、亮くん」


「ハイ」


 俺がやっとアラビアータにありつけたのは、それから二時間後だった。

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【BL】全裸のまま縛られた両手両足を解いてもらうため恋人に全力で謝罪せよ 祐里 @yukie_miumiu

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