いつか、還る日まで

 山々を吹き抜ける風に、少しだけ次の季節の気配が感じられるようになった頃。

 山の大蛇の屋敷は、何時もと違う慌ただしい様子が見られた。


 平素と違う身支度の玖澄の前で、あれこれ問いかけながら幾つもの荷を確かめる白妙の姿がある。


「忘れ物はありませんね? 困った時にどうすればいいか、ちゃんと控えてありますね?」

「……私は子供ですか」


 まるで子供の支度を整える母親のような白妙に、玖澄は少しばかり不貞腐れた面もちで答えた。

 言い返されても白妙はけして揺らがず、むしろ懇々と諭すような声音で続けた。


「外の世界には彼が居るとはいえ、基本的に山に籠っていて世間知らずなのですから。そこのところは浮かれずに」

「……はい」


 重ねて釘指すような物言いに、言い返せるだけの材料が少ないためか、玖澄は苦い表情で頷いた。

 それを見ていた初穂は、思わずと言った風に吹き出してしまう。

 玖澄と白妙が視線を向けた先に居た初穂もまた、玖澄と同じ様に何時もとは違う身支度をしていた。

 初穂と玖澄は、動きやすい旅支度をしていたのだ。

 今日この日、二人は瀬皓の外へと出立するのである。



 銀山を巡る騒ぎが収まった頃、山を特異な結界にて人の世から隔てた後。

 大蛇の屋敷には穏やかでゆるりとした時が流れていた。

 一時は調子を崩しがちだった初穂の体調もすっかり落ち着いて、白妙や小霊達の見守る中、玖澄と仲睦まじく暮らしていた。

 ある日、玖澄は初穂に何かしてみたいことはないか、と尋ねたのだ。

 玖澄は初穂の望んだことを叶えることに喜びを見出しているようで、事あるごとにこの問いかけをしていたが。


 ある時初穂は、少しだけ躊躇いながらも口にしたのだ――瀬皓の外の世界を見てみたい、と。


 最初玖澄はとても驚いた様子だった。

 初穂としても、叶うかどうかは不安な願いだった。

 それだけは出来ないと言われる事も覚悟していたのだが。

 少し考えた後に、分かりました、と頷いてくれたのだった。

 初穂はすぐには信じられずに、思わず茫然としてしまう。

 そんな初穂を見て玖澄は、初穂さんが願うのなら、と優しく笑ってくれた。

 玖澄からそれを聞かされた白妙は大分驚いていたが、すぐさま気を取り直して二人の旅支度を始めた。

 玖澄もまた山の結界の支えをしたり、山に住まうあやかし達に挨拶がてら様子を見に行ったりと忙しく過ごすようになる。

 そんな中、初穂は白妙に色々と教えてもらいながら、生まれて初めての旅支度をしていった。

 何が必要なのかもわからないし、何が起こり得るのかもわからない。

 概ねのものは外で調達するということで、必要最低限だけで良いということだったが。初めて見る世界と、初めて出会うものに期待を膨らませながら、はしゃぐ小霊達と共に一つずつ支度を整えていった。


 白妙は山の屋敷に残る事となった。

 いくら言っても、屋敷の留守を預かる者が必要であると主張して曲げなかったのだ。

 玖澄の張ってくれた結界があるなら自分の存在でも小霊達を守るに足るから、気負わず行ってらっしゃいと少年は笑った。

 彼の代わりに、外の世界ではもう一人の従者が玖澄についてくれるらしい。

 どんな相手かを楽しみに思いつつ、初穂は白妙に留守をお願いしますと頭を下げた。


 そしてやってきた、清々しく晴れたある日。

 ひと時とはいえ、別れることを惜しむ小霊達と白妙に見送られながら。

 初穂と玖澄は、不可思議な門を抜けて屋敷を後にした。

 あの日祠から屋敷へ行った時のように、眩い光の中に足を踏み入れて。

 次いで更に歩みを進めたならば、見える風景が一変していた。

 初穂は思わず周囲を見回してしまう。

 遥か向こう側には屋敷のある、かつては時折見上げるだけだった瀬皓の山が見える。

 その麓には、人々が寄り合いながら暮らす瀬皓の村がある。

 初穂は顔を紅潮させながら、目を見開いた。


 ここは、恐らく瀬皓に通じる道の外だ。

 今、初穂は確かに瀬皓の外に居る。

 かつての世界を、その外側から眺めているのだ……。


 空は蒼く澄み渡り、何処までも広がり行く。

 鳥が自由に羽ばたき、いつしか見えなくなっていく。

 この空の下に瀬皓はあり、続く空の下には帝都が。更には海の外にも世界は続いている。

 胸にこみ上げてくる熱いものに、少しだけ初穂の目頭が潤んだ。

 玖澄は、何も言わずに初穂が見守ってくれている。


 ややあって、初穂は行きましょう、というように瀬皓と山へ背を向けて歩き出した。

 話によると、もう少し進んだ先に玖澄のもう一人の従者が待っているらしい。

 まだ道は険しく、馬車などが進んでこられる場所までは暫し歩きということ。

 玖澄は少し気がかりそうだったが、初穂は大丈夫だといって自分の荷を抱えて歩いていく。

 自分の足で、自分の荷を抱えて、瀬皓の外へと一歩ずつ確かに歩む。

 それが初穂にとっては、思わず笑みが零れてしまうほどに嬉しい。

 それだけではない。

 隣に愛しい夫がいるのだ。溢れる程の幸せに、顔が緩んでしまうのが止められない。

 初穂と玖澄は、何気ない話をしながら細い道をゆっくりと進んだ。

 話の種は尽きなくて、険しい道ではあっても二人の顔に笑顔は耐えない。

 やがて話は、初穂と玖澄が初めて祠で会った時に遡った。

 玖澄は、あの時かなり緊張していたらしい。

 白妙から、大蛇としての威厳を保てと口を酸っぱくして言い含められていたのもあるが。

 玖澄は、気になって仕方ない事があったらしい。


「どんな人が来るのだろう、と気になってはいました」


 花嫁を捧げる、という文に了承の意を返した。

 だが、どんな女性が来るのだろうと実は内心ではやや怯え気味であったらしい。

 大蛇が実際はこんな弱きで臆病だと知ったら、失望されるのではないかと。

 しかし、初穂を一目見て、それまでとは違った緊張が生まれたと語る。


「でも、思っていた以上に、綺麗な方で。その…………実は、一目ぼれでした」


 心奪われた女性を失望させない為にはどう振舞えばよいかと、あの時の玖澄は必死だったらしい。

 聞いた初穂は顔を真っ赤にして俯いてしまう。

 自由に恋愛できる風習で育っていないのもあり、嫁にいけるほど健康でなかったのもあり。

 まず、色恋に関する好意を直接向けられるようなことがなかった。

 しかし、他ならぬ愛しい夫が、自分をそうまで好いてくれていると知るのは嫌ではない。むしろ、嬉しくてどうしていいか分からない。

 お互い照れてしまって、暫しの間二つの足音だけが響くようになる。

 続いた温かな沈黙を破ったのは、初穂の問いだった。


「この先で合流したら、まずは何処へ?」

「まずは帝都に。そして、初穂さんが気になったところがあったら、順番に巡ってみましょう」


 多くの新しい事物や技術、思想が集まり、文明開化が高らかに謳われて久しい政の中枢。

 そこには優れた医術を持つ医者が沢山いるという。

 初穂は以前に比べて随分健康になったとはいえ、不安が全て解決されたわけではない。

 帝都ならばきっと初穂を治せる医者もいるだろう、と玖澄は言う。

 それは願いであり、祈りでもあった。

 玖澄は、空の向こうを見据えながら、更に言う。


「初穂さんが望むなら、海の外まで」


 初穂が望むのなら、何処までも遠くへ。何処へなりとも、自由に。

 優しく微笑みながらいう玖澄ん、初穂は何度も何度も、少しだけ瞳に涙を滲ませて笑って見せた。

 初穂の顔に花咲いた笑みを見て、玖澄は嬉しそうに、幸せそうに笑う。


「そして、いつか帰りましょう。あの山に。抱えきれないぐらいの思い出と一緒に」

「ええ、必ず。お土産を沢山抱えて!」


 二人は、頬を寄せ合い、輝くような笑みを交わした――。


 いつかあの山に二人で戻ろう。

 それまでに数え切れない程沢山の思い出を二人で作って行こう。

 初穂が願うことは、玖澄と共に在る事。

 玖澄が願うことは、初穂と共に在る事。

 お互いが抱いたのは、幸せになりたいという願いと、幸せでいて欲しいという願い。

 二人が抱いた「共に幸せになりたい」という願いを叶える為に、沢山のものを見て、探す道行き。

 道行きの果て、多くの願いを叶えた先に。

 共に帰ろう、と二人は微笑む。

 共に植えた苗木が育ち若木となり、葉を茂らせ、花を付ける頃。

 いつか、二人は山に戻るだろう。

 抱えきれない程の、多くのしあわせと共に。

 そして、微笑みあいながら暮らすのだ。

 尽きせぬ想いと共に、二人、いつか還る日まで――。

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いつか、還る日まで ―贄嫁と大蛇のねがいごと― 響 蒼華 @echo_blueflower

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