眼鏡を落とした日
猫海士ゲル
ガタン、ゴトン……ガタン、ゴトン……
かなり疲れていたのか、帰りの電車で眠り込んでしまった。最寄り駅を連呼する声に僕は慌てて飛び起きる。
最終便を見送る地方都市の駅は、いつもより物静かで寒々としていた。
よろけながらベンチの背もたれに手をつき、そこで気づく。
眼鏡が無い。
「あ、やばい。落としたな」
電車内で鞄を忘れるとか、傘を無くすなんてのはあるにしても、眼鏡を落とすなんてあるのか──目の疲れを感じて眼鏡を外し、手にもったまま気づけば寝ていた。それが原因か。
「まぁ、とりあえず帰宅までは問題ないけど……」
視力は0.4だ。
1メートル先はぼんやりしているが逆に言えばそれだけだ。
改札口へ向かう。視界不良の不安から普段より気が張る。
階段を駆けあがる僕を待っていたようにコンコースの灯りが消える。それに追い立てられながら、ひとり通路を急いだ。
珍しく掃除を頑張ったのか。経年劣化で薄汚れている壁や、チューイングガムがへばり付いている床が今日は気にならない。
いつもなら埃まで舞っているはずなのに。
不思議な感覚にとらわれながら駅を出る。朧月の淡い輝きが、寂れていくばかりの駅前商店街を美しく浮かび上がらせていた。
わずかにまだ営業している飲み屋のネオンも、普段のギラついた印象とは違って柔らかな温かみを感じた。
アパートまでの帰路でもおかしな事に気づいた。
歩道が綺麗なのだ。ひび割れたアスファルト道路のはずだった。標識もペンキが剥げかけていたはずだ。それがまるで『新品』のように初々しく僕を出迎えてくれる。
「やはり、奇妙だ」
ここへきて、世界の違和感にようやく恐怖を感じた。
僕は助けを求めるように駅前の交番へ走った。
だが、駐車するパトカーを見て戦慄する。
「まるで新車じゃないか」
後ずさりし、回れ右。小走りに自宅へ急ぐ。
バスになんて乗れやしない。タクシーはもっと怖い。
怖い。
怖い。
怖い。
都市伝説にある降りてはいけない駅に来てしまったのだろうか。
それともここは、パラレルワールドの平行世界なのだろうか。
もしもアパートが新築されていたら……そこに自分とそっくりの人間が既に帰宅していたら、僕はどうしたらいいんだ。
はたして、そこに鉄筋4階建てのアパートは月光に照らされ静かに建っていた。
多少の草臥れ具合はあるものの違和感は拭えない。築30年のアパートだったはずだ。なのに、せいぜいが10年程度の傷みにしか見えないのだ。
「こんばんわぁ、いま帰りですか。お仕事大変ですねぇ」
涼やかな女性の声に振り向く。
同じアパートの住人が笑顔を向けていた……そう、ここでもやはり違和感。
朧月夜とはいえ、妖艶なほどの美しさを湛えた美女だ。
こんな女はこのアパートにはいない。
「誰ですか」
思わず口からついて出た。
「……え、いやだぁ。隣の部屋の者ですよ」
屈託無く笑うその女性を押しのけるなんて出来ず、気の弱い僕は愛想笑いを返す。
「ああ、ごめんなさい。月明かりが綺麗で見間違えました」
柄にもない言葉が出た。
「あれぇ、ナンパですか。ふふ、ありがとうございます」
女性は爽やかな笑顔のまま逃げるようにアパートへ入っていく。
後ろ姿に「ああ、この世界って悪くないかも」と思い始めていた。
──と、いったことは全て僕の勘違いでした!
新しい眼鏡をかけたら、そのことに気づいた。ほんと、レンズ一枚の有る無しでこんなにも世の中が違って見えるなんて新発見ですよ。
けれどこの日以来、僕はときどき眼鏡を外した世界を楽しんでいる。
僕だけの平行世界を探索している。
眼鏡を落とした日 猫海士ゲル @debianman
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