黄昏のリュネット

維 黎

命短し恋せよ男子

 車を日常的に使うようになると外を歩くという機会は必然的に少なくなっていく。

 健康診断で『悪玉コレステロールが基準値より上ですね』なんて言われると、多少なりとも気にはする。

 住宅街にあるボロマンションに五年近く住んでいたが、徒歩圏内の様子など知ることもなかった。せいぜいがマンションと数分先の月極駐車場までの景色しか知らない。

 初めてと言っても過言ではない近所の散策。


BOULANGERIEブーランジェリー


 唐突にそれはあった。

 瓦屋のごくごく普通のどこにでもあるような二階建て家屋の一階に。緑色の雨よけのひさしテント。ライトブラウンの木枠で囲まれたガラス張りの前面。

 BOULANGERIEパン屋の看板が無ければ喫茶店かと思うほどにレトロチックな佇まいの小さな、小さな店。

 

 カラン、カラン。


 軽やかなドアベルの音と共にドアが開き中から出てきた女性。


「あら、お客様――でしょうか? 申し訳御座いません。お店、今日閉店なんです」


 店の前に突っ立っていたからか客と間違われてしまい、その上謝られてしまってとっさに言葉が出なかった――と、いうのは建前で見惚れていたというのが本音。

 

「あ、お客様。ちょっとお待ちいただけますか?」


 佇まいや言葉遣いなどから年上の印象を受けたが、鈴を転がしたような少し舌足らずな口調と声音は少女のそれにも思えて。

 女性の小顔には少し不釣り合いに思えるくらいな大きさの丸メガネは幼さを、左下口元のホクロはゾクリとする色気を。

 リボンのようなもので一纏めにした長い髪を揺らしながら店内へ戻る女性。

 しばらくすると。


「あの、もしよろしければこれ――もらっていただけませんか? 残り物なんですけど捨てちゃうのはもったいないし、私と母の二人で食べきることもできませんし。あ、もちろんお代はいりません」


 リアルで見るのは初めてだった。

 紙袋から突き出た三本のバケット。マンガでしか見たことがない。


「あ――。い、いいんですか?」

「えぇ、どうぞ! もらっていただけると嬉しいです」

「――はぁ」


 思い返せば、気の抜けた息を吐くことしか出来なかった自分を叱り飛ばしたくなる。


「どうぞ」


 そういって前に出した紙袋を受け取る瞬間、少しだけ互いの指先が降れる。

 お互いに声をあげる――なんてこともなく、特に何でもないことだとスルーする。

 女性の胸の内はわかるはずもないが、少なくともこっちは

 少しくらい、いやそれなりにドキドキと期待はした。正直。

 女性は軽くお辞儀をすると、再び髪をユラユラさせて店先の看板を店内に片付けると、長い鉄製の棒を手に外に出る。

 シャッターを下ろすのは手動らしい。


 どういう事情で店を閉めることになったのかは知らない。

 その翌日から一週間ほど風邪を引いてしまい、ヘロヘロになりながらも仕事を休むことなく耐えきった後、店を見に行ってみたがシャッターが下ろされ、人の気配が感じられない様子だった。

 あの日のあの時以降、会うことはなかった女性ひと




 最近、スマホの文字が見えにくく、パソコンのWeb表示も110%くらいの倍率にしなくてはいけなくなった。

 ので、メガネを買いに。

 フレームを選んでいたら丸メガネがいくつも並んでいて。

 ふと思い出した。

 もう、二十年以上前のことを――。



 ――了――

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黄昏のリュネット 維 黎 @yuirei

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