遠視

こやま智

遠視

 一人の男がメガネ屋を訪れた。


 中には男の店主と、アルバイトの娘がいた。

 メガネを作ってください、と男は言った。

 アルバイトの娘が視力の測定を促すと、彼は首を振ってこう言った。


「妻の顔にピントが合わないのです。あんなに好きだったのに、どうしてもぼやけてしまう」


 翌日、男は店主に言われた通り、妻を連れてメガネ屋を再訪した。

 店主は男の妻を椅子に座らせた。

 そこから5メートルほど離れた場所に男を座らせると、測定用の仮のレンズを差し込んだ金属のメガネを男の顔にかけた。


 男がレンズ越しに妻の顔を確認すると、はっきりと妻の顔が見えた。

 店主は男に何枚かの仮レンズを試させた。

「どうですか。この度数が一番自然に見えると思うのですが」

 男はにっこりと振り返って、店主に答えた。

「はい。メガネをかけると、妻がまるで昔のように美しく見えます」

 男の妻は恥ずかしそうにはにかみ、アルバイトの娘が少し冷やかした。

 夫婦は、とても満足そうに帰っていった。


 それから十年後、男はまたメガネ屋を訪れた。

「すこし度数が進んでしまったようで、作り直しに来ました」

 今度は、初めから妻も同行させていた。男の妻は、以前より疲れているように見えた。

 店主は店員の女性に椅子を用意させ、前回と同様に視力測定をした。

 店員の仕事ぶりはとても手際がよく、たちまちのうちにぴったりの度数を探し当てた。


「いかがですか。くらくらしませんか」

 店主が尋ねると、男はまた大きく首を振った。

「とんでもない。妻がとてもはっきり見える。相変わらず美しい」

 男の妻は、店主たちに軽く愛想笑いを見せた。あまり機嫌がよくないことはすぐに見て取れたが、男は上機嫌だった。

 帰り際、店主は男に声をかけた。

「度数が強くなっているので、たまに外して目を休ませてください。目の前のものを、しっかり見るように」

 男はきょとんとした様子だったが、適当に相槌を打って帰っていった。


 それからさらに十年後、男はまたメガネ屋を訪れた。

「いよいよ度数が進んでしまった。作り直してほしい」

 男はやはり妻を伴っていたが、男の妻はそっぽを向いていた。

 あれから二十年だ。夫婦ともに、還暦を迎えている。

 それほどの年月が経てば、店もそれなり以上の老舗となっている。その割に、店主はまだ不思議なほど若く見えた。

 店主が店の奥に向かって、おい、お客さんだ、と声をかけると、店主の妻が顔を出した。

 おやおや、まあまあ、と暢気な声を上げながら、視力測定のための椅子を準備した。


「…だめだ。これ以上強くはできんのか」

 男はいら立ちを隠さずに言った。

「残念ながら」

 店主は首を振りながら言った。

「何とかならんのか。私はもう一度、

 男は激昂し、そばにあった机をドン、と叩いた。

 店主が男の後ろに目を向けると、目を伏せて泣いている男の妻の顔が見えた。店主の妻が、男の妻に心配そうに付き添っていた。


 店主は黙って立ち上がり、男の顔からメガネを外した。

「見る方法はありますよ」

 男を妻のほうに向けて立たせ、両肩を後ろから掴んだ。

 困惑する男の後ろから、店主は耳打ちした。


「見えないなら、近づけばいいんです」


 一歩。

 二歩。

 三歩。


 男は店主に背中を押されながら、少しずつ妻に近づいていった。

 そしてあと三十センチ、というところまで顔を使づけたところで、男は目を見開き、ようやく言葉を発した。


「お前――いまのお前は、こんな顔をしていたのか」


 男の妻は両手で口を覆い、大粒の涙を流した。

「そうですよ…おばあちゃんで、ごめんなさい」

 泣き崩れる妻を抱きしめ、そんなことはない、そんなことはない、と男は繰り返した。

「きれいだ。昔から、今も、ずっと」



 夫婦が丁寧にお礼を言って店を去った後、店主は大きく伸びをした。

 それを見た店主の妻が「ようやく終わりましたね」と言った。

「あなたが『大発明だ』なんて言って、なんて作るから」

 店主は仮レンズを片付けながら、長いため息をついた。

「まったくだ。過去のある時間にしかフォーカスしないんだから、年月が過ぎると自動的にピントが合わなくなる。少し考えればわかっただろうに、俺も若かった」

 窓の外を見ながら妻が言う。

「常に過去しか見なくなったら、ご家族は困るものね…あらあら?」

 妻が気づくと、店主が測定用のメガネでこちらを見ていた。

「それは何年くらいの度数で見てらっしゃるのかしら?」

 店主はくすりと笑って、こう言った。


「伊達メガネさ」

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遠視 こやま智 @KoyamaSatoshi

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