エピローグ


「おはようございます」

 朝、いつものように顔を洗ってリビングへ行くと、蝶々さんが朝食を用意して待ってくれていた。

「わぁ、美味しそう」

 食卓に並べられた和食にお腹を鳴らしながら、僕は蝶々さんの向かいに座る。

「さて、食べようか」

「はい」

 手を合わせて、「いただきます」と言ってから、箸を掴んだ。

「……あの、蝶々さん」

 茶碗を持ったまま、僕はおずおずと蝶々さんを見た。

「ん? なに?」

 蝶々さんはだし巻き玉子を頬張りながら、僕を見た。

「あの……この前は、生意気なことを言ってすみませんでした」

 以前、桜のことでひどいことを言ってしまったことを謝罪すると、蝶々さんは笑って頷いた。

「気にしなくていいよ。しおちゃんの本音が聞けて嬉しかったし。それに、しおちゃんが案外一途ってことも分かったしね。恋愛には淡白なタイプかと思ってたけど、しおちゃんは好きになると周りが見えなくなるタイプなのかもねぇ」

 涼しい顔でそんなことを言われ、顔中に熱が集まってくるのを感じる。

「そ、そんなことは」

 ない、とは言えず口を引き結ぶ。

「ほら、今日は栃木に帰るんでしょ。電車遅れないように早く食べないと」

 蝶々さんはそう言って、やはり涼しい顔で箸を進めた。

 あぁ、もう。蝶々さんには敵わない。

 もういいや。これ以上蝶々さんに文句を言うのはやめて、凪に話を聞いてもらおう。

 そんなことを思いながら、僕はだし巻き玉子に箸を突き刺した。

 朝食を終え、荷支度を済ませて家を出る。

 坂を下っていると、少し先の道路の真ん中に、黒い物体が見えた。

「あぁ、お前か」

 いたのは、あの黒猫だった。道路のど真ん中で、呑気に耳の後ろを脚でかいている。

「みゃあ」

 相変わらずマイペースな猫だ、と思いながらも放っておけず、

「おーい、そこ、道路だから危ないぞ」

 と声をかけてみる。すると黒猫はぴたりと動きを止めて、僕を見た。

 そして、

「にゃあ」

 と鳴き、のんびりと毛繕いを始めた。どうやら猫語で「うるせえ」と言われたようだ。またか。

 そういえば、こいつはそういう奴だった。

 ほっとこう、と思い直し、再び歩き出す。しばらく歩いていると、てんてんてん、と目の前をなにかが横切った。見ると、案の定あの黒猫だ。

「……お前」

 歩き方がうさぎのようにぴょんぴょん跳ねるようで、思わず笑みが漏れる。

「なんだよ、お前。また着いてきたのか?」

 もう一度話しかけてみると、黒猫はちらりと僕を見て、再びてんてんと歩き出す。黒猫はやはり、意志を持ってどこかへ向かっているように見えた。

 黒猫を追いかけてみる。黒猫は坂を下り、途中、通りを曲がって狭い横道を進んでいく。

 道の先に小さな神社が見えた。

 大きな朱色の鳥居には、『紫ノ宮神社』とある。

 苔むした石に落ちる木漏れ日、松の枝でさえずる小鳥と香しい芳香の花々。

 鳥居を抜けた先には、現実離れした美しい世界が広がっている。

 右手には能舞台。能舞台の脇には、あの大きな桜の木がある。上から覆うように枝が広がり、青々とした桜の葉が舞台を彩っている。

 鮮やかな桜の葉に魅入っていると、「にゃあ」という声が聞こえた。

「……あ、お前」

 見ると、黒猫は我が物顔で舞台に上がっている。あろうことか、ころころと背中を舞台の床に擦り付けていた。

 ふと、視界の端になにか動くものを見た気がして、舞台の縁に目をやる。

 そこにいたのは……。

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青い桜はまだ春を知らない。 朱宮あめ @Ran-U

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