カフェ・クラムジイ8~君となら、どこまでも~

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君となら、どこまでも

「長い間留守にして、すみませんでした」


 緋色は店の中に入ると、ちょっと極まりの悪そうな顔をしながら、冬樹の前で一礼した。栗色の長い髪と、半袖のカットソーから見せる白い肌、くっきりとした大きな目……緋色の姿を見ているうちに、冬樹の頭の中には一生懸命コーヒーの淹れ方を教えていた日々の記憶が蘇ってきた。


「こっちに帰ってきていたのか?」

「はい、一週間くらい前……ですけどね」

「この店のことは、知ってたのか?」

「いいえ、知りませんでした」

「じゃあ、どうしてここが分かったんだ?」

「さあ。神様が私をここに連れてきてくれたのかも」

「はあ?」


 驚いた表情を見せる冬樹を見て、緋色は大声で笑いだした。


「わ、笑うなよ! ちゃんと説明してくれよ」


 緋色はずっと笑い続けていたが、冷めた表情で緋色を見つめる冬樹を見て、慌てて両手で口を塞ぎ、息を整えて語りだした。


「最初にマスターの家に行ったんですけど、会えなくて。あ、きっと立川駅でまた仕事のビラ配りしてるんだろうなって思って、駅のまわりをあてどなくふらふら歩いてたんですけど、ここでも会えなくて……ああ、もうダメかなと思って駅に戻ろうとしたら、たまたま『カフェ・クラムジイ』って書かれた看板が目についたんですよ。まさか……あのカフェ・クラムジイ? と思って、一か八かの思いでドアを叩いたんです。そしたらマスターが立っていて……私、夢を見てるのかな、と思っちゃった」


 冬樹は「何が神様だよ」とつぶやき、頬杖をしながら緋色を睨んでいた。


「ひょっとして、怒って……ますよね?」

「怒ってるというか、少し呆れていたかな?」

「やっぱりそうですよね……マスターの気持ちも考えずに勝手に舞い上がってしまい、すみませんでした」


 緋色は店に入ってきた時のおどけた様子と打って変わり、髪の毛をだらりと下げて冬樹に背中を向けた。


「お母さんは、もう大丈夫なのか!?」


 冬樹は大声で緋色の背中に問いかけた。

 緋色は髪の毛が顔にかかったまま、冬樹の方を振り向いた。


「はい。お陰様で……何とか回復して、家事もこなせるようになりました」

「そりゃよかった。弟さん、まだ高校生だって言ってたよな? そっちも大丈夫なのか?」

「はい。母はもちろん、弟のことも心配でしたから。母がいないとお世話をしてあげられる人が私以外にはいないので」

「そうか……」


 胸に手を当てながら健気に自分の気持ちを語る緋色を見て、冬樹は緋色に対し「がっかりした」と言い放った自分自身を苦々しく思って髪を強くかきむしった。


「せっかくここに来てくれたんだから、淹れたてのやつを一杯飲んでいくか?」

「い、いいんですか?」

「ああ。ちょっと待ってろよ」


 冬樹は椅子から立ち上がり、厨房に戻ろうとした。


「痛ッ……!」


 突然、肩や首に激しいしびれが走った。

 冬樹は首のあたりを押さえながら冷や汗をかき、両手を壁について寄り掛かった。


「マスター、どうしたんですか?」

「まあ、なんというか……朝から一人でがんばりすぎちゃったからね」


 緋色は冬樹に駆け寄ると、何度も背中から肩にかけて丁寧にさすっていた。冬樹も歯を食いしばって痛みをこらえようとしたが、耐え切れず、息を切らしながらその場にしゃがみこんだ。


「ちくしょう……まだ開店したばかりなのに。このままじゃ明日はまともに仕事できないよ……」


 落ち込む冬樹を見た緋色は突如立ち上がり、道具がずらりと並べられた厨房へと入っていった。


「マスターはそこで休んでください。私がやりますから」

「何だと? 君、一人でできるのか?」


 中途半端な知識しかなく、何度もダメ出しを食らった緋色に、果たしてきちんとコーヒーを淹れることなどできるのだろうか……?

 冬樹は半信半疑で、緋色の作業の手際を見つめていた。

 緋色はずらりと器具類を見渡すと、お湯を沸かし、目の前に並べられた器具の中からフィルター、ポットとコーヒーサーバー、そしてすでに焙煎してある豆の入ったケースを取り出した。ケースからスプーンで慎重に豆を掬い取り、フィルターの上に入れると、コーヒーポットを使用し、きれいな円を描きながら真上から湯を注ぎ込んだ。

 豆はジュワジュワと音を立て、やがて音を立てながらサーバーの中に一滴ずつ黒い液体がしたたり落ち始めた。

 横やりを入れる必要がない位完璧に作業を進める緋色を、冬樹はただ茫然と見つめていた。しばらくすると、コーヒーの香ばしい香りが冬樹の鼻にも届いた。


「おまたせしました……急いで淹れたから、あまり丁寧じゃないかもしれないですけど」


 顔にだらりとかかっていた髪の毛をかき分けながら、緋色は苦笑いを浮かべていた。冬樹は目の前に差し出されたコーヒーを、一口ずつ味わいながら飲み込んだ。


「……何だこれ!?」


 冬樹は喉の音を鳴らしてコーヒーを飲みこむや否や、カップを持つ手が震えだした。

 豆本来の味を崩さず、濃厚でありながらまろやかで飲みやすく、気がつけばカップの半分以上を飲み干していた。冬樹から離れていた間、誰にも指導を受けず自分一人でどうやってこんなに上達したのだろう?


「腕をあげたようだね、緋色さん」

「ありがとうございます。実は、母を看病する傍ら、自分でコーヒーを淹れる練習を続けていたんです。母が寝静まった夜中に、マスターから教わったことを思い出しながら、分量をどうしようとか、お湯の注ぎ方とかはどうすればいいんだろうとか、一つ一つの作業を細やかに練習してきました」

「自分一人で?」

「はい。あ、時々家族に試飲させて、判定してもらってはいたんです。私の淹れたコーヒーが、父のものに近づいているかどうか」

「これだけ完成されていれば、文句なしじゃないのかな?」

「いえ。母に言わせると、上達はしたけれど、まだまだ父親のめがねに叶うものではないって言ってました」


 緋色はそういうと、舌を出して顔を赤らめた。


「めがねに叶わない、か。手厳しいね、お母さん」

「だって母は、父の淹れたコーヒーにほれ込んで結婚したようなものだから。私のコーヒーは、母をほれ込ませるものじゃなかったってことなんでしょうね」


 これだけ完成度が高くても、父の淹れたコーヒーにたどり着かないなんて。

 一体何が足りないのだろうか……冬樹でさえもいまいち想像がつかなかった。


「母が病気から回復した後、私、父のような美味しいコーヒーを淹れるためにもっと勉強したいって言ったら、母は手放しで喜んでくれました。『私のことは気にせず、とことん勉強してきなさい。そしていつかお父さんみたいな美味しいコーヒー飲ませてね』って。だから私……その言葉に甘えて、母が元気でいるうちにもう一度頑張ろうと思って、またここに戻ってきたんです」

「大丈夫だよ、独学でこれだけ出来れば十分だ。わざわざここに戻ってこなくても、今までやってきたことを続けていけばいいと思うよ。お母さんの病気、また再発するかもしれないし、そばにいてあげた方が……」


 すると緋色は眉をひそめて、首を強く左右に振った。


「この町に来れば、きっとまたマスターに会えると思ったから」

「……僕に?」

「だって、私の父の淹れたコーヒーと同じ味だと思えるのは、マスターの淹れたコーヒーだけですから」


 緋色はそう言うと、冬樹から二、三歩下がり、神妙な顔つきで頭を下げた。


「厚かましいお願いですけど……改めて、私にコーヒーの淹れ方を教えてください! 自分の手で父のめがねに叶うコーヒーを淹れたいんです。お願いします!」


 しばらくの間緋色は頭を下げ続け、ほんのわずかでも顔を上げることはなかった。

 すると冬樹は、しびれの残る肩や首をさすりながら緋色のもとへ近づき、その場で床に両手をついてしゃがみこんだ。


「僕の方からも、君にお願いをしていいかな?」

「え?」

「この店の……カフェ・クラムジイの店員として、一緒に働いてくれないか?」


 冬樹の声を聞き、緋色はようやく顔を上げた。目と口を大きく開き、「本当に?」と小さな声で呟いた。


「本当だよ。君の淹れてくれたコーヒー、お父さんのめがねには叶わないかもしれないけれど、僕のめがねにはちゃんと叶っていたからね」

「マスター……」


 緋色は目を潤ませながら、両手を広げて冬樹の体に抱き着いた。


「い、いででででで……」


 突然抱き着かれた冬樹は、衝撃で全身に痛みがほとばしったが、緋色の体の温もりと、耳元で何度も繰り返される「ありがとうございます」という言葉を聞いているうちに、不思議と痛みが気にならなくなった。


 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 まだ残暑厳しい中でも、徐々にさわやかな秋風が町の中を吹き抜け始めた九月。

「カフェ・クラムジイ」の店内では、冬樹と緋色は並んでカウンターに立っていた。

 主に冬樹がコーヒーを淹れ、緋色は注文確認や食器洗い、レジでの精算を担当していた。

 今日も朝からたくさんの客が訪れ、数少ない座席を埋め尽くしていた。

 冬樹は注文を受けながら、次々と豆を挽き、カップにコーヒーを注ぎ込んでいた。


「マスター、今日はあれを演奏しないの?」

「ああ、あれですか。わかりました。おーい、緋色さん。僕に代わってコーヒー淹れてもらえるかな?」

「はい、今行きまーす」


 冬樹はバンドネオンを演奏し始めると、緋色は冬樹の後を引き継いでコーヒーを淹れ始めた。

 バンドネオンの哀愁のある音色が店内に響き渡る中、緋色は注文を受けたコーヒーを一杯ずつ丁寧に淹れていた。

 演奏が終わると、カウンターに座っていた客たちは次々と精算を済ませ、店には冬樹と緋色だけが残された。冬樹がバンドネオンを手にカウンターに戻ってくると、緋色はカップになみなみと注がれたコーヒーを目の前に差し出した。


「マスター、ブラボー! いい演奏でしたよ。はい。これでも飲んで少し休憩してくださいな」

「あ、ありがとう」


 冬樹は緋色が淹れたコーヒーをゆっくりと飲み始めた。


「あれ? こないだ飲んだやつと、味が違うような……」


 一口飲み干した後、冬樹は驚いた表情でカップを覗きこんだ。飲んだ後の幸福感で気持ちが次第に高揚し、この一杯を淹れてくれた緋色に気持ちが徐々に引き寄せられて行くように感じた。


「ひょっとして、この味って……」

「はい。父の淹れてくれたコーヒーの味です」

「そうか、この味なんだ……」

「私、マスターと再会して、やっとわかったんです。父のコーヒーにあって、私のコーヒーには無かったものが」

「え? どういう……ことなの?」


 すると緋色は顔を赤らめ、胸の前で手を組みながら冬樹の方を向いた。


「気持ちです。あなたのことを好きだっていう気持ち」


(了)

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