「障碍者」と「健常者」の間で

青切

「障碍者」と「健常者」の間で

 「障碍者」とは何だろうか。

 おそらく、人によってとらえ方はちがうだろう。

 ぼくとしては、「健常者」用につくられた社会の中で生きるのには、不都合がある人、それが「障碍者」だと思っている。


 ぼくはいちおう「健常者」だ。社会で生きるうえで、基本的に不都合はない。

 ただし、それは眼鏡をかけている場合である。

 視力が悪いぼくは、眼鏡をかけないと危なくて日常生活が送れない。まったく仕事にならない。パソコンに向かって文章を書いて、カクヨムに投稿することもできない。

 おまけに、左目が先天的な鳥目で、暗いところは右目だよりである。よほどの用件がなければ、夜に車を運転することは避けている。


 眼鏡をかけていれば、ぼくはいちおう「健常者」だ。社会生活を送るうえで不便はない。しかし、たとえば、道で眼鏡を失くしてしまえば、その場で「障碍者」となる。

 寝ているときに、大地震が起きて、眼鏡を置いて逃げ出したとする。そうすると、避難所でぼくにできることはすくない。

 ツイッターで、完全に視力を失う代わりに、10億円もらえるとした場合、どうするか、という問いかけがあった。10億円を選ぶ者はいなかったように思う。目とは、それほど大事な器官である。

 たとえば、ぼくが鎌倉時代あたりにタイムスリップしたとしよう。その時に眼鏡を失っていれば、ぼくはすぐに野垂れ死んでしまうだろう。まったく、眼鏡さまさまである。

 ホームレスになったときに、眼鏡を失くしても、ぼくは生きていけなくなるにちがいない。


 ぼくの規定では、眼鏡があれば、ぼくは「健常者」、眼鏡を失くせば「障碍者」である。

 「健常者」と「障碍者」の間でぼくは揺れていると言える。


 『「健常者」用につくられた社会の中で生きるのには、不都合がある人』と、ぼくは「障碍者」を規定した。だから、たとえば、技術が進み、ふつうの人間の手足より、高性能の義手義足ができれば、手足を欠損した人は、「障碍者」ではなくなる。目の弱いぼくが、眼鏡をかけているのと同じ理屈である。


 まとまりのない話をしてきたが、ぼくの現実的な願いはふたつだ。

 一つ目は、社会のハードルが下がり、いま、「障碍者」とされている人が「健常者」となること。

 二つ目は、科学技術がもっと発達して、「障碍者」が「健常者」になること。


 ゆくゆくは、「障碍者」「健常者」ともに、死語になってもらいたい。

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