水場ささくれ親不孝

大塚

第1話

 あいた、と思わず声が出た。どうしましたか、と鹿野かの素直すなおがすっ飛んでくる。


 宍戸ししどクサリと鹿野かの素直すなおは、都内にある某劇場──1000を超える客席がある大劇場の一角にいた。観客としてではない。スタッフとしてだ。

 普段は舞台監督として生計を立てている宍戸は舞台班の応援として、演出助手・制作補佐として仕事をしている鹿野は制作班の一員として、大劇場で行われる公演の制作担当者から要請を受けて劇場に馳せ参じていた。簡単に言ってしまえば、バイトである。

 宍戸も鹿野も、普段は不田房ふたふさ栄治えいじという名の演出家とともに仕事をしている。だが、不田房が主催する公演は年に一回。多くて二回。公演のない期間は暇になる。仕事がなくなる。生活費を稼げなくなる。それでは困るということで、各々期間限定で劇場スタッフを勤めたり、場合によっては不田房とは何も関係のない演出家とともに稽古場に入ることもあった。同じ現場でバイトをする機会も、さほど珍しくはない。


「あらら、ささくれ」


 宍戸は、舞台裏にある水場で小道具のバケツを洗っていた。劇中でペンキ──を模した水溶性の液体──をぶち撒けるシーンがあるのだ。今は、昼公演を終えての休憩中。夜公演までのあいだにペンキを入れるためのバケツを綺麗にしておく必要がある。

 何かと、人力に頼る舞台であった。仕組みとしては、歌舞伎に少し似ている、と宍戸は思う。回転式の舞台を動かすのは真っ黒な衣装に顔を隠した黒子──舞台班のスタッフたちだし、劇中にもふつうに黒子が現れて、キャストの衣装替えに手を貸したり、小道具を渡したり回収したりする。この度宍戸が招聘されたのも、舞台班のスタッフが大風邪をひいて出勤できなくなったから、という理由だった。


「ちょっと待ってくださいね、絆創膏」

「いいよこんなの、舐めときゃ治る」

「舐めたら悪化しますよ」


 休憩時間、鹿野が所属する制作班のメンバーたちはそれぞれ好きなように過ごしているらしい。昨日の休憩時間の鹿野は劇場ロビーのふかふかのソファに横たわってぐっすりと眠っていた。今日は眠たくないのだろうか。


「いや〜、夜公演お父さん来るらしいんで……そわそわしちゃって……」


 水仕事を終え、タオルで手を拭った宍戸の中指にできたささくれに絆創膏を貼り付けながら鹿野は眉を下げて笑う。鹿野素直の父親、鹿野迷宮めいきゅう。どこぞの大学で教授をしていると聞いたことがある。宍戸自身も、迷宮とは面識がある。


「制作班お手伝いのギャラと別に、招待券出していいよ〜って言われたんですよね」

「そうか。俺もだ」

「宍戸さんは誰も呼ばないんですか?」


 今回の舞台、面白いのに? 小首を傾げる鹿野を見下ろし「別になあ」と宍戸は小さく笑う。そういう友達は、いないこともないが。


「ところで鹿野、ささくれって」

「あ、やっぱり痛むでしょう。替えの絆創膏も渡しておきますね」

「ささくれができるのは親不孝の証拠だ──とか言うよな」

「……」


 丸眼鏡の奥の目をまん丸にして、鹿野が沈黙した。短い沈黙だった。


「なー……に言ってんですか宍戸さん!? そんなのなんか、民間伝承ってやつでしょ!? 親不孝って! 21世紀ですよ今!」

「はは、そりゃそうだ。ちょっと頭に思い浮かんだだけなんだよ、悪い悪い」

「それに……宍戸さんが誰を不幸にするって言うんです」


 くちびるを尖らせる鹿野に、不意にを言ってみたくなる。俺には親はいなくて、生まれた時にはいたのかもしれないけれど彼、彼女らは決して親と呼べるような存在ではなくて、だから俺は一度は弁護士を志して、なぜかってそれは食いっぱぐれたくなかったからで、弁護士になった俺にあいつらは親みたいな顔で近付いて来たけど無視して、それから俺は、そう、人には言えないような人間を、親のように、兄のように、慕って。


 そして捨てた。


「確かに。今の俺が不幸にできる相手なんて、ほとんどいないかもしれないな」

「そうですよっ! 強いて言うなら私と不田房さんですが、ささくれなんかに負けません!!」


 仔犬のように纏わりついてくる演出助手に「わかった、わかった」と笑いながら舞台監督は自身の後ろ暗い過去を拭い去るような気持ちで絆創膏を撫でる。


 親不孝の烙印は、どう足掻いても消えないが。


おしまい。

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