のかわ

水円 岳

 高二になってすぐ、高一の時に同じクラスだった長谷はせと付き合うことにした。長谷はどちらかといえば地味で目立たないタイプだけど、趣味や好みが近くてさっぱりしててすごく話しやすい。こうなんつーか、異性をことさら意識しなくて済むっていうのも俺にはツボだった。

 どっちかからコクったとかじゃなく、自然発生的にオフでも遊ぼうかーみたいな。付き合うっていうのは語弊があるかもな。トモダチ以上コイビト未満みたいな宙ぶらりんかもしれないけど、俺にはすごく気楽だったんだよ。構えなくて済むから。

 前のクラスメートで今度も同じクラスになったのは、長谷の他にはあまり関わりないやつばっかだったから、俺らが付き合うようになっても冷やかされることはなかった。まあ、長谷とはゲームの話とかをげらげら笑いながらぶちかましてるからなあ。付き合いの浅いやつには、ちょい仲のいいトモダチくらいにしか見られないだろう。それでよし。


 そんなこんなで、付き合い始めのお約束はデートだ。とはいえ、俺も長谷も特別気合い入れてってことじゃなく、買い物ついでに教室でできない話ぃぶちかまそうぜっていうノリだった。

 当然デートコースも定番外だ。本屋行って、古市行って、サイゼで飯食って終わり。色気もなにもありゃしねえ。でも、なんか楽しいじゃん。春だしさ。


◇ ◇ ◇


「小田っち、ごめーん、ちょっと遅れたー」

「だいじょぶだー」


 息急き切って走ってきた長谷は、私服だとまるっきりイメージが違っててどきっとする。濃紺の制服姿がデフォになってるから、パステルピンクのワンピだと別人だ。髪も下ろしてるし。てか、なんでメガネ?


「なあ、長谷。そのメガネは?」

「ううー、どじったのー。出がけにコンタクト割っちゃってさー」

「げー」

「ソフトは目に合わないんだー。しょうがないからメガネー。似合わないでしょ?」

「いや、ごっつ新鮮ていうか……」

「わたしも新鮮ー」

「だははっ!」


 笑って流したけど、これだけイメージ落差がでかいのはずるくないか? 心臓に悪いわ。


 とっ始めにアクシデントがあったものの、あちこち歩いている間に緊張がほぐれてきた。新刊のラノベ買って、古市で中古のゲームソフト仕入れて、お互い大収穫だーと舞い上がりながらサイゼに突入。食事中のノリも教室とそんなに変わらない。ただ、長谷から予想外のツッコミが入ったんだ。


「ねえねえ小田っち」

「うん?」

「高森くんとかまっちゃんとかにさ、小田じゃなくて『のかわー』って呼ばれてたよね。どしてー?」

「ぶ」


 思わず頬張っていたピザを吹き出しそうになってしまった。女の子ってコワい。よく観察してるよなあ。


「はあ……。俺の黒歴史なんだよな」

「え? 黒歴史?」

「そ」


 持ってたフォークを皿にぽんと放って、手を空ける。それから長谷のメガネをひょいっと外した。


「きゃうっ」

「うわ、けっこう度が強そう」

「返してー」

「ははは。ごめんごめん」


 ぷっと膨れた長谷が、めんどくさそうにメガネをかけ直した。


「長谷はいつからコンタクト?」

「んー、中三からー」

「それまではメガネだったんだろ?」

「そー。でも、わたしはそそっかしいからすぐメガネ壊しちゃうの。コンタクトなら入れる時と外す時だけでしょ? その方が楽かなーと思ってー」

「なるほどなー」

「小田っちはー? 目ぇ良さそうだけど」

「視力は両方とも1.5ある」

「ゲームし倒してるのにー?」

「いや、これでも悪くなったんだよ」

「げ……」


 なにそれって感じでびっくりしてるな。ははは。


「まだ小さい頃は両目とも3.0以上あったんだ。ケニヤのスワヒリ族なみの視力で」

「ぎゃははははっ」


 豪快に笑い倒している長谷を見て、なんか和む。


「でさ。視力がいいとメガネなんて縁がないと思うだろ?」

「うん。違うの?」

「遠視は矯正がいるんだ。俺は三歳から小学校四年までメガネっ子だったんだよ」

「うわ、知らなかった」

「だろ? すこーしだけど斜視も入ってたし」

「ふうん」


 テーブルの上に紙ナプキンを置いて、備え付けの鉛筆で『のかわ』と書く。長谷が俺の汚い字をじっと見下ろした。


「モリやまっちゃんとは同じ小学校だったんだ。ずっとつるんでたから俺のことをよく知ってる」

「幼馴染ってことね」

「そ。モリは幼稚園も一緒だったし」

「うはあ」


 紙ナプキンに書いた『のかわ』の下に『めがね』と書き足す。その途端、長谷の顔色がさっと変わった。


「まさか……」

「そう。その、まさか。小さい頃、俺には識字障害があってね。『の』と『め』、『ね』と『わ』『ぬ』の区別がうまくつけられなかった。濁点も苦手」

「じゃあ、めがねって書こうとして」

「そう。ひらがな表のところに五十音それぞれの字で始まる単語が書いてあるだろ? 『め』のところはめがねだったんだ」

「……」


 どこまで時間が経てば、俺はあの頃のことを忘れられるだろう。いや、忘れられないからこその黒歴史なんだけどな。


「識別できないこと。うまく読めない書けないこと。それが一番辛かったのは、トモダチとのやり取りじゃないんだ」

「え? 違うの?」

「モリもまっちゃんもいいやつだよ。字を読んだり書いたりするのが苦手なのはしょうがないじゃん。それをちゃんとわかってくれた。宿題も手伝ってくれたし」

「じゃあ……」

「担任のセンセイがどうにもならなかったのさ。俺をバカ扱いして、みんなの前でこきおろした。幼稚園児でも覚えられる字が読み書きできないアホウだってね」

「ひどい」

「俺は半端なく荒れたんだよ。メガネが取れるまでは……ね」


 『のかわ』をじっと見下ろしたまま、長谷が小さく首を傾げた。


「でもさあ。小田っち、読み書き全然苦にしてないよね」

「慣れたからな。今でも得意ではないけど、なんとかなる」

「そっか……」

「識字障害っていうけど、それもどうかなと思う」

「え?」


 顔を突き出して、長谷の顔との距離を一気に詰める。長谷がびっくりしてのけぞった。


「俺の顔。どっかおかしくないか?」

「ええー? どこもおかしくないけどー」

「そっか」


 そう思ってくれるんなら、俺はすごく安心できる。


「そもそも俺は日本人じゃない。タイ語の読み書きはできたけど、日本語なんかまるっきりわからなかったんだよ」


◇ ◇ ◇


 歴史は白くても黒くても歴史。終わったことだ。さかのぼって消せなくても、今に引きずる必要は必ずしもない。俺がげろした黒歴史で長谷がびびっちゃったら、きっと付き合い初日で仲が割れただろう。だけど、長谷はどこまでも長谷だった。すごーい! めっちゃグローバルだー。なんかすごーい! と、逆に興奮していた。ははは。

 なあ、長谷。俺はすごく嬉しかったんだよ。理解してくれ、共感してくれ、同情してくれとは言わない。絶対に言わない。でも、誰かに話を聞いて欲しかったんだ。こんなことがあったんだってね。長谷はちゃんと話を聞いてくれた。だから、俺も長谷の話をしっかり聞いてやりたいと思う。


 会計済ませてサイゼを出たら、長谷に聞かれた。


「ねえねえ、小田っち」

「うん?」

「将来さあ、視力落ちたらメガネかけるの?」

「いやだなあ。いろいろめんどくさいじゃん」

「そうなんだよねえ。わたしもメガネはかけたくないー」

「似合うけど?」


 くるっと振り返って俺の顔を見た長谷が、ぷうっと頬を膨らませた。


「なんかさあ。メガネ同士でキスすんのって、けっこうめんどそうじゃん」


 ああ。どこまでも長谷だった……。



【おしまい】


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