第2話 鬼の産声
*八話以降の内容を含めます*
「ワシの母は音楽の人だった」
雨宿りのための廃ビルにて。暇つぶしか酔狂か。
ワシはつらつらと、らしくもなく咬犬君へ語り掛けていた。
彼は横になっていて。もしかしたら寝ているのかもしれないが別にいい。しょせん夢うつつな老人のたわ言である。
「母は明治時代、東京で芸妓をしていたそうだが、見てくれよりも楽器の腕がかわれていたらしい。たいそう人気もあって。それはもう稼ぎました。ただ、いかんせん不細工な外見のせいで、縁談の類には恵まれなかったそうです」
いまから百数十年前のお噺しだ。
「性格はワシと違って穏やかで、なにより平和をこよなく愛していた。両親を維新で亡くし、親族に身売りされた経験が、母の平和主義的思想の根幹なのでしょう」
『宵越しの銭は持つな』、なんて思想がまだ根強かった時代だ、芸妓で稼いだ大金を母は持て余していた。
「当時の都は文明開化によって活気づいていました。それは政治家も同じで、日清戦争、日露戦争へと軍部を駆り立てるに至ります。日本だけじゃない。世界中の各地で資源を求める争いが勃発しており、この流れはいずれ大きな津波になると、母は予感しました」
のちに流れは世界大戦へと向かっていくのだから、母の大局観はばかにならない。
「銀座二丁目、煌煌と照るアーク電灯のもと、母は決断しました。戦争のない、『平和な場所』にいこうと。日本にこだわる必要はなかった。旅路の資金は潤沢で、言葉が伝わらなくとも、一流の音楽さえあればやっていける自信があったから」
とはいっても当時の世情、真に平和だといえる国は少なかった。
ヨーロッパ大陸はもってのほか、アメリカ、アジアも雲行きが怪しくなっていたし。アフリカや南米は未知の極みだ。オセアニアも候補には上がったが、消去法的に残された国は日本より八千キロ以上離れた北欧の島国。
北米プレートとユーラシアプレートの境界に位置し、俗に『地球の産まれる場所』と呼ばれるそこは、歴史上ただの一度も戦場になったことがない。絶好の立地条件である。
くしくもプレートの終点は日本であり、ならば母が『アイスランド』へ導かれたのは、必然だったのかもしれない。
「母はアイスランドへと向かいました。アイスランドは地理的に大陸と離れており、資源にも乏しく、戦争に巻き込まれる可能性は低かった。当時はデンマーク領でしたが、独立後も軍を持つことはなく、現代においては『世界一平和な国』と呼ばれてさえいます。まったく母の先見の明には恐れ入ります」
アイスランドは資源に乏しい国ながら、国民性はおおらかで気さく。高緯度にしては温暖な気候もあいまって、みな豊かな心を持っていた。
ヴァイキングが渡島し、その後他国に移住することなく世界最古の共和国を興した歴史的背景もあってか、国民の愛国心は強い。『貧しくとも、この地に住み続ける』と決めたもの達が先祖にいるのだ。郷土愛もうなずけようもの。
かといって閉鎖的なわけがなく、様々な入植者たちも迎え入れてきた。
母もそのうちの一人だ。
「母の音楽は住民たちに愛されました。見てくれも異国では問題にならず、その後港町の漁師、オラフと婚姻。十人の子宝に恵まれ、ワシは三男として生を受けました。皮肉な話です。世界で一番平和な国で、戦争賛歌の鬼は産まれた」
アイスランドの遺伝子は、薄い肌色だけが表出され。ワシが混血であると知るものは少ない。いや、人間ですらないのかもしれないが。
だってワシは。
理不尽な自然がはびこる、広大な荒れ地で産まれたワシは。
産まれながらにして、鬼だった。
理由があったわけじゃない。機会があったわけでもない。産声を上げたその瞬間から、ワシは平和という祝福に絶望し、きっと涙を流したんだ。
十三歳のころ、第二次世界大戦が始まった。情勢は乱れ、結果イギリス軍がアイスランドに駐留を始めるに至った。機に乗じ、ヨーロッパ本土へワシは渡った。なにせ彼の地は前線だ。
鬼は底なしの平和に嫌気がさしていたのだ。
成り行きでフィンランドの森を歩いていると、聞こえた。空気がはじけるような、花のつぼみが開くような。
ビリビリとした、予感の音だった。
音につられ、森を抜けた先。
僕は出会ってしまった。
運命に。宿命に。天命に。
戦争があった。
弾幕があった。
1939年。
神と悪魔と鬼達の。血みどろの遊び場。
その戦いは、『冬戦争』と呼ばれた。
一目ぼれだった。
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