恥ずかしい記憶

安江俊明

恥ずかしい記憶     

 あれはボクが小学校五年生の夏休みのことだ。自宅の前の未舗装路で友達とキャッチボールをしていたら、トランペットと太鼓の響きが流れて来た。一体何だろうと思って見たら、七人ほどの若い男女が整列し、歌を歌いながら行進して来る。

 ♪ 信ずるもーのはたーれーもみーんな救われーる、と歌っている。

 初めて見る青年行進隊の姿にボクは興味をそそられ、キャッチボールの手を止めて見入っていると、友達はその楽隊に興味を示さず、もう帰ると言って家に帰ってしまった。

 ボクは未舗装の通りを、砂埃を立てて歩いてゆく楽隊の後を興味津々について行った。一体何処に行くんだろう? 当時我が家の前を鳴り物入りで通り過ぎる車と言えば、おがくずにリンゴを詰めた木箱を積んだトラックが童謡の《リンゴの唄》をスピーカーから音声一杯流しながらリンゴを売る青森ナンバーのトラックか、大きな灰色のカバの外装で道幅ギリギリに通り抜ける製菓会社の宣伝カーくらいだった。この楽隊のように声を上げて歩く行列と言えば、冬の寒い夜に雪がしんしんと降る中を太鼓を鳴らしながら托鉢する寺の修行僧の行列ぐらいだったので、この一風変わった歩く楽団に俄然興味を示したのだった。

 ♪ 信ずるもーのはたーれーもみーんな救われーる。

 繰り返される歌詞の「信ずるもーの」って一体何を信じるのだろうか。信じたら、救われるって? 意味も分からないまま、ボクはとにかくラッパと太鼓の鳴り物入りで進むその楽隊の後をついて行った。

 初めのうちは、まだ小学校の友達の家もあり、道はちゃんと分かっていた。同級生S君の家の前を通り過ぎる。S君の歳の離れたお姉さんは北の国にお嫁に行ってしまった。その北の国に夢を抱いて移住する人々がいたのをニュース映像で見たことがある。北の国は戦争で南北に分けられ、ボクの住む国とも仲が良くなかった。でも、S君のお姉さんは北の国出身の男性と歌声喫茶で知り合い、恋仲になり、男性の国へと嫁いで行ったらしい。

「お姉ちゃん、どないしてるのかなあ。全然便りもないし、ちゃんと暮らしているのかなあ」

 S君が時々漏らす溜息混じりの声が印象に残った。

 S君の家をとっくに通り過ぎて辺りは暗くなって来たが、楽隊は一切歩みを止めずにどんどん進んでゆく。一体何処まで行くのだろう。それにしても、楽隊の音楽と歌を聞いて家から飛び出して来る人っ子一人いない。そうこうしているうちにボクは楽隊にこのままついて行けば、それこそS君のお姉さんが嫁いでいった北の国にでも連れ去られて行くんじゃないかと段々心配になって来た。

 もしそうなったらボクはもう家族と一緒に暮らせなくなってしまうかも知れない。そう思い始めた途端、楽隊が心の中で全く違う姿に変身していた。

 ♪ 信ずるもーのはたーれーもみーんな救われーる。

 自然とボクの歩みは鈍くなり、楽隊の歌やトランペット、太鼓の音色がだんだんと遠ざかって行く。その時ボクは一度も通ったことのない道を歩いているのにようやく気付いた。

 通りには今のように明るい街灯もなく、ただ辺りを包み込む闇夜があるだけだった。

 元に戻ろうとするが、道がさっぱり分からない。歩けば歩くほどますます闇に包まれて行くばかりだ。一体此処は何処なんだ! 心臓がドキドキして来る。

「……誰か、助けて……」

 口から思わず出る言葉も直ぐに闇夜に吸い取られてしまう。

「S君、お願い。助けに来てくれ!」

 真夏日の気温が夜になっても下がらず、顔から背中から汗が噴き出していた。涙が出ているのが目の曇りでわかった。どのくらい闇の中を彷徨っていたのか見当もつかず、途方に暮れていた時、遠くに自転車の前照灯がうっすらと見えた。誰かが自転車を漕いでこちらに向かって来る。暗闇の中、灯りはまさに救いの神の目のように見えた。

 キーッというブレーキ音がして自転車が止まり、制服を着たお巡りさんがボクの顔を懐中電灯で照らした。

「おい、君、こんな時間に一体何をしているんだ」

 ボクはお巡りさんに駆け寄り、抱きついて泣きじゃくった。お巡りさんは「どうした? どうした?」と言いながら頭を優しく撫でてくれた。ボクはふらつく足に力を入れ、涙を溜めた目を擦りながら、嗚咽が収まってからやっと事情を話した。

「それで君の住所は?」

 お巡りさんはそれを聞いてから一緒に家まで連れて帰ってくれた。

「ありがとう、お巡りさん。それでさっきの楽隊がね、歌ってたんだけど、信ずる者が救われるって何を信じるっていうこと?」

 お巡りさんは笑みを浮かべて言った。

「イエス・キリストのことだよ。イエス様を信じたらみんな救われますよっていうキリスト教を普及するための楽隊だ。その楽隊に君はえらい目に遭ったんだな。これからは何かについて行く時は充分に気を付けるんだよ、いいかい?」

 そう言って警官はまた自転車に乗って暗闇の中に消えて行った。

 その後何年か経って、北の国は喧伝するような理想の国ではないことが少しずつ分かって来た。お姉さんは無事暮らしているのか。ふと心の中で心配になった。

 小学五年生の時、キリスト教宣伝楽隊の後を不用意について行ったせいで迷子になったというだけの取るに足らない話だが、やんちゃ坊主だったボクがお巡りさんの胸で泣きじゃくったことなんて絶対に他人に知られたくないボクだけの秘密中の秘密だった。

 でもこの歳になれば、そんな拘りもある意味記憶の彼方に消え去ったような気もする。

 S君は中学に入る前に遠い町に引っ越して行った。今は同い年七十四歳だ。どうしているのかな。そして北の国に嫁いで行ったお姉さんは果たして……。

 遠い昔のことが思い出される今日この頃である。


                                     了

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