色鮮やかな靴磨き

千羽稲穂

靴を磨いて六十年。

 履きつぶした靴が経年劣化しつつも置いてある。その靴の前に気づいた老いた男は、久々に手をとることにした。かつて、この靴を履いたこともあった。そして、この靴は捨てられなかった。彼は、幼い頃、捨てずにともに老いることにしたのだ。大切にいつ何時も忘れないように、靴を磨いた。今日もまた靴を磨くことにした。革靴の耐久年数はそう長くはない。できるだけ長く履けるように、置けるように、老いるように、ともに年をとれるように、彼は靴を履かずに靴を磨いたものだ。手にした油を布に少々染みわたらせて黒い革靴につけた。

 瞬間、この革靴を最初に磨いたときに重なった。皺がよった手は、少年のはりを取り戻している。が、この頃は禄に食にありつけていなかったため肌色は悪く、骨に皮がはりついたような腕をしていた。人の熱気は駅前の路上にも伝わる。ひたすら熱く、汗が吹き出た。額を拭う。行き交う人々の中には腕がないものや、足を引きずる者といった大戦の傷を負っている者がちらほらと見受けられた。この頃の人々の往来は目を見張る者があった。彼と同じように靴を磨く少年は無数におり、電車にあぶれだした人々は時間をつぶすように靴を磨いた。並ぶ先には手足がない者たちがお椀だけ手前に置いて座っていた。影がいくつも見て見ぬ振りをして素通りする。足音が埃が舞い上げる。視界が悪く、けほけほと咳をする。そうすると、埃をよりわけ足が彼の前に置かれた。ごほごほと咳交じりに、やってくれ、と頼んだ。見上げると、目の光りが薄い老父が見下げていた。彼の視線に気づくと帽子をぐっと深く被る。靴はかなり汚れており皮の下地が見えない。まずは泥を落とす必要があった。老父は椅子に浅く座る。少年の靴磨きのため、ブラシを手に取った。

 まずはブラッシングだ。ひたすら革靴についた泥を落とす。雨の後の泥道でも歩いたのだろう。重い泥がこびりついていた。ブラシに黒い塊となった泥が差し込まれる。ブラシで蹴落とされた泥はあたりに散らばる。次第に現れる本物の顔を見る瞬間が彼は好きだった。下地が見えたとき、彼は空襲で生き延びた家族を思い出す。やっと会えた、そんな感覚を覚えた。生き延びたんだ、良かった、と抱きしめた愛情を、物は違えど架空の達成感であれど靴磨きにも感じる。次第に下地は見えてき、今度は薄い布を指先にまきつける。油を少々染みこませて、つま先に置いて、右へ左へと器用に動かし、靴に光沢を思い出させる。

 ほほう、とそこで老父は趣深いとばかりに目を開く。これはどうも、と彼は素っ気なく言ってしまう。お客さん、そんな見つめられては恥ずかしいです、と素直に彼は言ってしまったと、記憶をなぞる。靴のつま先から側面を数回何度もなぞる。せっせと撫でていくにつれて輝きは増していく。薄い布は黒く汚れていく。汚れた布は肌へと行き渡り、指や腕といったものは汚れを吸収していってしまう。新聞など読まないのかい、他のお客はよく読んでたよ、と促すも、頭を振られた。私は字が読めないんだ。ほほう、と今度は彼がついた。僕もだよ。それに、読んでくれる人ももういないものでね。それも同じだと彼は側面の光沢を靴に思い出させた後に、心の中で同意した。今度はつま先だ。指先に力を込めてつま先の甲を磨いた。艶を取り戻す革靴に心が震える。でも、きみのことを、最後くらいは誰かに言いたかった、と老父はぼやいた。それは独り言にも、投げかけにも聞こえて、彼は聞き流してしまった。そうしたら、こんな素敵な革靴にしてもらえるきみの腕を後世に残せるだろうに、と老父は続ける。声は誰かを切りつけるほどの実直さが宿っている。が、どこか清々しく、悲嘆にくれてはいなかった。彼は鏡面のように輝きだした靴のつま先に顔を映し出した。駅構内から漏れ出る埃が鏡面に降り積もる。彼はふっと一息に埃を吹き飛ばす。さあ、仕上げにもう一度ブラッシングだ。

 老父は、思い出したように、するりと言葉を零す。私に何かもっとあれば、内にあるものを誰かに伝えられただろうに。

 彼は手元にある靴をひと思いにブラッシングして、見上げた。老父は下を向いていてくれ、と指をさす。先程よりも帽子を深く被っていた。

 紐をほどいてくれないか。

 老父の言葉に重さが増していた。

 お客さん、料金払ってくれなきゃ困るよ、とさすがに彼は告げた。老父は何も答えずに足を抜き出した。何をしているのか分からず、彼は見上げるも、同時に抜いた場所にお金を入れる老父に、言葉を失ってしまった。しかも、靴磨きにしては見合っていない料金が入っていた。老父は何も言わず、そのまま駅構内に歩き出した。そんなことありえない、ただより高いものなどない。彼は靴を持って追いかけた。しかし、人が遮って、足止めされる。駅構内にゆらりと入っていく老父の背が遠くなる。もしかしたら何かに巻き込まれているのかもしれない。背筋が凍るような思いでいっぱいだった。次第に見え隠れする老父が見えなくなり、駅構内に入ったがどこにも見つからなかった。

 そして、電車が何かを跳ね上げた音が響き渡る。

 電車に人を押し込もうとしていた、押し屋が叫ぶ。

「おじいさんが前に飛び出した」

 手元にある靴は、彼のものとなった。

 送られた料金を取り出して、彼は老父の靴を履いた。ピカピカの新品の革靴。足の長さが数センチも異なっており、ぶかぶかだった。幼い子どもが父の靴を履くように不格好に。彼は歩き出した。

 そして、彼の物になったそれを、手放さず彼は磨き続けた。駅構内には既に老いた彼しか靴を磨かない。が、彼は磨き続けた。足下にはあの老父の靴がしっかりと収まっていた。彼は、あれから考え続けた。靴が色あせるにつれて、なぜこれを残したのか。短い言葉しか知らなかったのに。なぜか親しみを覚えていた。老父と彼の境遇が似ていたからだろうか。きっと老父は、字も書けず、どこにも行けなかった。認知されなかったに違いない。そう、確信するものが日に日に増していった。彼は老父同様の年齢になるにつれて、理解してしまった。何も持っていないことの恐怖を。戦時期の混乱に暮れて、増していく孤独を。

 老父の靴には自分が映っている。

 これ、だ。

 唯一、彼は残すことにしたのだ。

 老けていく腕に、彼は納得を零した。既に色は変わってしまったが、変わらないものがここにはあった。腕に抱えていた。それは変わらずに輝き続けている。数十年駅前に座っていると、物珍しく思ったお客さんもやってくる。今日は、かつてのアンティークを履きながらお客さんの靴を変わらず磨く。もう六十年は経つだろうか。自分だけが取り残されたとしても、彼は続けていく確信を持っていた。お客さんはアンティークの靴に気づき、尋ねてきた。老いた彼は恥ずかしそうに深く帽子を被る。これはな、と続ける。忘れもしないあの日のことをようやく語り出す。

 彼の靴は色鮮やかにピカピカと輝きを放ち出す。

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