若葉は静かに蕎麦を食む

未来屋 環

綺麗に蕎麦を食べるおねえさんは、好きですか?

 ――すうっと涼やかに蕎麦そば手繰たぐる、その仕種しぐさ見惚みとれていた。



 『若葉は静かに蕎麦をむ』



 柴崎しばさき若葉は5月の或る日、僕たちの前にその姿を現した。


 産休に入る事務員の小島さんの代わりに派遣されてきたという。

 きらきら輝くベージュ色の髪は耳の下で切り揃えられていて、飾りのないワイシャツとパンツの効果もあり、初対面の僕は彼女のことを小綺麗こぎれいな少年のようだと思った。

 そんな彼女は周囲の女性陣と積極的につるむでもなく、昼休みになると一人社員食堂の隅で蕎麦を食べている。


 ――そう、彼女が選ぶメニューは、いつも決まって蕎麦なのだ。


 一番安いからか、提供時間が早いからか、それとも無類の蕎麦好きなのか――理由は定かでないが、一人物静かに蕎麦を食べる彼女の姿は僕の好奇心をくすぐった。

 そして、社食から職場に戻る際、ふと彼女の姿を目で追うことがいつの間にか僕の日課となっていた。


「――北町きたまちさん、何か手伝いましょうか」


 そんな彼女から初めて向けられたその言葉は、顧客の無茶振りに巻き込まれた僕の耳を通ってその心を静かに揺らす。

 愛嬌あいきょう欠片かけらもないまっすぐで低めの声に気後きおくれしたものの、僕は彼女の申し出をありがたく受け取った。


 夜9時を回ったところで作業が終わり、一息いたのもつか、気付けば彼女は帰り支度じたくをして机を離れようとしている。


「あ、柴崎さん……」

「お先に失礼します、おつかれさまでした」


 ぺこりと頭を下げさっさと部屋を出て行く後ろ姿を、僕は見送ることしかできなかった。



 翌日の昼休み、僕は社食で柴崎若葉に近付く。彼女は今日も変わらず蕎麦を食べていた。


「柴崎さん、食事中にごめん。ちょっといい?」


 彼女が一瞬動きを止める。

 その明るい髪色と連動したような色素の薄い瞳が僕を捉えた。


「昨日はサポートしてくれてありがとう。残業に付き合わせてしまってごめん」

「いえ、仕事ですから」


 まっすぐな低い声につっけんどんな台詞せりふが載る。


「柴崎さん、いつも蕎麦を食べているよね。蕎麦、好き?」


 彼女の瞳が少しだけ揺れた――気がした。

 少しの沈黙の後その口はゆっくりと開かれる。


「――えぇ、まぁ」


 その最低限の返事にしがみ付くように、僕は勇気を振り絞った。


「じゃあ、お礼においしい蕎麦をごちそうしたいんだけど」


 ***


 そんな経緯を経て、今僕たちは初夏の空の下、蕎麦を待っている。


 この季節に深大寺じんだいじ通りに来たのは初めてだ。

 僕の実家は調布市にあって、元日は家族で深大寺に参拝するというのが子どもの頃からの習わしだった。一人暮らしが10年近くなった今でも、お正月に帰省をしたタイミングで両親と共にここを訪れている。

 1月のしんと冷えた空気の中、ふわふわとめでたい雰囲気をまとった人々が参道を埋め尽くす様子と、今僕の視界に広がっている風景がなかなか頭の中で結び付かない。

 瑞々しい新緑しんりょくに彩られた木々、その枝葉えだはの隙間から射し込むやわらかい陽光、それらに照らされながら話に花を咲かせる待ち人たち――その穏やかな情景は、僕の心の緊張を少しほぐしてくれた。


 僕はちらりと目の前に座る柴崎若葉に視線を向ける。

 彼女は会社に居る時と変わらず、あまり感情の見えない顔でそこに座っていた。


 しかし、その身を包むのは、それこそ若葉のように色鮮やかなワンピースだ。

 いつもは化粧っ気のない口唇も、今日はほのかにオレンジ色に染まっている。


 集合場所の三鷹駅で声をかけられた時、普段の姿とあまりにも違いすぎて、思わず「えっ、柴崎さん?」と問い返してしまった。

 そんな僕に、彼女は「『えっ』て何ですか、北町さん」と淡々と返す。

 その口調は至っていつも通りのもので、僕は少し拍子抜けしつつも、彼女が会社では見せない姿で現れたことに高揚した。

 一方、それはそれで緊張するもので、バスの中では大した言葉も交わせずに、ただ二人で車窓の風景を眺めるに留まった。


 それでも、二人で新緑の中こうやって蕎麦を待っていると、何だか少しだけその距離が縮んだ気がして、僕の心は密やかに躍る。

 蕎麦を食べた後、深大寺に立ち寄ろうと考えていたが、彼女がよければ神代じんだい植物公園にも行ってみようか――そんな考えを巡らせた瞬間、ふと彼女の視線が僕の目を捉え、一瞬どきりとした。


「このお店、外のお席もあって素敵ですね。北町さんの行きつけですか」

「行きつけと言えるレベルかわからないけれど、子どもの時から通ってはいるかな。毎年家族で初詣に来た帰り、このお店で蕎麦を食べるのがお決まりのコースなんだ」


 僕の言葉を受けて、彼女は「実家がこの近くなんですね」と呟く。

 僕に対して特段の興味はないのだろうけれど、彼女との会話が一つ成立したことが何だか嬉しかった。


「お待ちどおさま、天ざるととろろです」


 僕の前に天ざるが、柴崎若葉の前にとろろが置かれる。

 その瞬間、一瞬意識が彼女から蕎麦の方に逸れた。

 何を隠そう、僕はこの店――大師だいし茶屋の天ざるが大好物なのだ。

 海苔がたっぷりと載せられたざる蕎麦の隣には、見るからに食欲をそそる黄金色こがねいろの天ぷらが佇んでいる。衣の下から覗くえび、なす、ししとうの存在も僕の空腹センサーに火を点けた。


 ――と、そこで我に返り目の前の様子をうかがうと、彼女はとろろを見下ろしたまま動かない。

 僕の家族は頼まないメニューなので、物珍しさから僕も揃って無言でとろろを観察した。

 とろろの中央にはうずらの卵が太陽のようにつやつやと輝いていて、こちらもうまそうだ。

 そうやって蕎麦を眺めていると「北町さん」と彼女の低い声が響いた。


「あっ、ごめん。それじゃあいただこうか」


 僕の言葉に、彼女がこくりと頷く。

 やはり蕎麦が好きなのだろうか、会社に居る時と比べて、どことなくやわらかい雰囲気が彼女を包んでいた。


「――いただきます」


 箸で摘まんだ蕎麦をつゆにくぐらせ、一気に手繰たぐる。つゆの甘みと合わせて蕎麦の香りが口いっぱいに広がった。慣れ親しんだ味に、僕はほっと一息吐く。

 好きなものが我慢できない僕は、えびの天ぷらも同様につゆを経由して口に運んだ。さくさくとした衣の感触を追いかけるように、えびの上品な味がふわりと膨らむ。

 いつもと違う季節にいつもと違うひとと味わう蕎麦は、こんなにも新鮮に感じるものなのか――僕は密やかに感動した。


 そして、ふと柴崎若葉に視線を移して、僕は息を呑む。


 彼女はぴんと背筋を伸ばし、静かに蕎麦を手繰っていた。

 白いとろろをまとった蕎麦が、するすると彼女の口に吸い込まれていく。

 オレンジ色の口唇が彼女の咀嚼に合わせて動き、その度にきらきらと光を反射した。

 背後に広がる新緑と彼女の若葉色のワンピースは涼やかで、その上品な所作しょさも相まって、僕は思わず見惚れてしまう。


 その視線に気付いたのか、彼女はぴたりと箸を止めて、僕を見つめ返した。


「――おいしいです」


 そうとだけ言う。

 彼女の瞳は、ゆらゆらとよろこびの色を伴って揺れていた。


「――それはよかった」


 僕はそう返して、素知そしらぬ顔で蕎麦に向き直る。

 その実、初めて見るその表情に、僕の心臓は早鐘を打った。

 向かい合って同じ蕎麦を手繰りながら、僕はぐるぐるとこの後のプランに思いを馳せる。先に深大寺に行って、次に神代植物公園に行って――


「ごちそうさまでした」


 彼女の声で、僕の思考が止まる。

 顔を上げると、彼女の前のせいろが空になっていた。


「お蕎麦もおいしくて、いいお店ですね。また来たいです」


 そう言って、柴崎若葉は、ゆっくりと口角を引き上げる。

 ――瞬間、僕は反射的に言葉を返していた。


「――では、来年の初詣は一緒に行きましょう」


 僕の台詞せりふに、彼女はすっと表情を戻し「随分と先の話ですね」と低い声で呟く。

 そして、改めてその顔にやわらかい笑みを浮かべた。


「では、その時はあたたかいお蕎麦を一緒に」


 ――その後、新年を待たずして、蕎麦を食べるために何度も二人で深大寺を訪れるようになることを、この時の僕はまだ知らない。



(了)

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