不色の辺境

鳥辺野九

辺境にて


「あたしも異世界に行くことにしたから」


 目線を大きく反らして彼女は言った。僕はどこを見たらいいのか迷い、あえなく空を仰いだ。彼女は何かを隠したい時に視線を外す。曇り空がいやに重たく見えた。




「このまま退廃していく世界を一緒に見ようって言ったじゃないか」


「うん。言ったね」


 一週間ぶりに会ってくれた彼女の視線上に僕はいない。


「世界最後の二人になるまでここで生きようって」


「そういうところだよ」


 思えば、この台詞も相当に薄っぺらい言葉だった。本心を見透かされないようにせいぜい色鮮やかな装飾で着飾ってはみたが、そもそも心の奥底ではそう考えてはいなかった。うそぶけるはずもない。


「どういうこと?」


「そんなメランコリックな気分じゃないのよね。人間ってフロンティアな生き物なの。あたしも。君がそうじゃないだけ」


 彼女の言葉にも重みはなかった。どこかの誰かが使った単語をそのまま組み換えたようで、彼女自身も意味を咀嚼できているかどうか。それでも僕がそうじゃないという部分は肯定できる。と言うより、否定できない。


「別に見送りなんてしなくたってよかったのに」


 何一つ言い返せないでいる僕を、ようやく彼女は見てくれた。

 彼女の手荷物はボストンバッグ一つだった。僕と温泉旅行に行った時よりも軽装だ。何もかもを置き去りに異世界へ旅立つ気なのだろう。

 置き去りに。違う。捨て行くのだ。

 彼女はもうすでに二週間も職場に顔を出していなかった。異世界で生きるのに何が必要か考えていたら、何も要らないとの結論に至り、もう帰ることのない部屋にすべて置いていくらしい。僕もそれに含まれるようだ。

 お気に入りの洋服とコスメを少々、好きな小説を二冊、それと異世界では必須だと言われるスマートフォンを持って、間もなく彼女は現実から居なくなる。


「もういいよね」


 何がもういいのか。それがわからない僕は、待ってくれ、とも、行かないでくれ、とも言わなかった。言えなかった。

 そういうところなんだろう。僕と彼女が別々の世界を見ていたのは。

 僕は変化を嫌った。異世界とやらがどんなに素晴らしい楽園で、新世界に渡れば年齢も容貌も、それこそ非人間型だろうが魔物系だろうが自由に編集できると言われているが、僕にはそれが魅力に思えなかった。

 彼女は違った角度で新世界を見て、旧世界を見ていた。何も変わらないこの世界に未練も恵愛も持たなかった。何かを変えてくれる新世界に期待して、熱に浮かされたように誘われるまま渦の中へ飛び込もうとしている。

 そんな彼女を止めようとしない僕が、もういい、のだろう。


「じゃあね」


 異世界へはポータルから渡る。突如世界中に現れたブラックホールのような深黒の穴。その穴に飛び込めば人は消えてしまう。

 思えば、誰が言い出したのだろう。この穴は異世界に通じている、だなんて。

 この穴に身を投じて、帰ってきた者はいない。ただ一人もいない。


「元気で」


 せいぜい強がってみた。そんな僕の最後の足掻きも彼女には無意味なものだった。意に介せず、彼女はあっさりとそっぽを向いてしまう。

 人の動きは止められない。政府も穴の封鎖を試みたが、すべて徒労に終わった。変化を求めた人々は穴に飛び込んだ。そして帰ってこなかった。だから、せめて人の流動を管理しようと政府は穴を建築物で覆い、無闇矢鱈に飛び込まないようにと穴の管理者を置いた。

 異世界への転居届を提出すれば誰でもすぐに旅立てるよう仕組みを作った。書類を提出すれば戸籍は抹消され、その人間はいなくなったことにされる。他所の国では誰も彼も勝手に穴に飛び込んで消えた。それよりはマシだ。


「さよなら」


 そう言い残したのは僕の知らない男だった。彼女は悪そうな風貌のおっさんと穴の建物に入っていった。一度も振り返らず、真っ直ぐ前を向いて。おっさんの方は彼女の腰に手を回し、何度か僕を見下すように振り返った。




 いったい何人が異世界へ旅立ったのだろう。街から人がいなくなり、色褪せる速度が凄まじく思えて仕方がない。

 穴の出現から一年でコンビニが消えた。若い人間からどんどん消えていき、コンビニを利用する人も働く人もいなくなり、24時間営業を止めて閉店していった。

 行政サービスも質が悪くなった。市営バスの本数が減った。当然だ。乗る人間も運転する人間も異世界へ飛んだからだ。ゴミの回収も二週間に一度ゴミ収集車が回るかどうか。街は一気に薄汚れていった。

 人間がいるだけで街は色鮮やかだった。今になってよくわかる。アスファルトからは強めの雑草が生えて、車の数も減ったから自然淘汰されずに育ち放題だ。誰も道路の草刈りなんてしない。車通りが少ない箇所から地味な緑色がアスファルトを侵食して色味を失っていく。

 夜、街灯は消された。メンテナンスする人間がみんな異世界へ行ってしまったので整備不足で失火の危険性が出てきたらしい。陽が沈むと街は一気に暗くなる。人がいなくなった家屋は当然真っ暗で、黒という色さえ意味を失う。

 かろうじて発電は続いている。石油の輸入も止まってしまったらしく火力発電所はほぼ動いていない。原子力発電が残された人類の最後の砦になりつつある。

 異世界へ行かなかった人々は太陽が昇るころに起き出し、最低限都市を運営させるだけの労働をこなし、太陽が隠れたら眠る。それを繰り返すだけの生き物となった。

 生活が立ち行かなくなれば、あの穴に飛び込んで異世界へ行けばいい。そんな楽観的な最後の希望があるから、みんなぎりぎりの都市生活を続けていた。異世界へ行けば、好きな外見に変身できて、スキルも得られて能力者になれる。レベルアップすればどんどん強くなって、最強勇者として楽に生きられる。

 そんなの本気で信じているんだろうか。あの穴からこちらに帰ってきた人間は一人もいないのに。




 この国の人口は何人ぐらい減ったんだろうか。僕は今、人がいなくなった小学校の花壇を無断で拝借して野菜を育てている。実習教育用田圃に水を張って、小学校の図書室で稲作について調べて米も植えてみた。うまく育つかわからないが、何もしないよりずっと気分がいい。

 どこから話を聞きつけたのか、新鮮野菜を求めて僕のもとに人がやってくる。人々のネットワークはまだ接続中のようだが、今日は三人しか会わなかった。

 街はすっかり色を失っていた。アスファルトは砂埃と雑草に塗れて緑とも茶色とも言えない中間色に埋もれた。

 かつて店舗だった建物も薄汚れて、派手な原色だった看板だってすっかり陽に焼けて色褪せて何色とも呼べない色になっていた。

 簡易畑の野菜の緑色だけが、この街で唯一残された色だ。

 そんなある日、緑色以外の色が灯った。

 小学校の校庭に面した教室の隅にテントを張って寝泊まりしているわけだが、その夜、窓から見える真っ暗の景色に真っ白い光が点いた。電気だ。ソーラー蓄電か、それとも誰かがわざわざ使える電線を引っ張ってきたのか。校庭の向こう側、かつてメインのバス通りだったあたりに人間がいる。

 外は真っ暗だと言うのに、僕は居ても立ってもいられずに教室を飛び出した。明るい白を求めて、校庭を一直線に突っ切って走る。

 光の出所は、とっくの昔に閉店した飲食店だ。家族経営の小さな町中華で店の裏手と二階が自宅になっている。灯りは店の窓から漏れている。僕は導かれるまま入口ドアを開けた。


「わっ」


 出迎えてくれたのは、笑った猫みたいに細い目をまん丸くして驚いている女の人だった。たっぷり三秒間、突然の訪問者である僕を見つめて、やがてはっと我に返る。


「いらっしゃいませ! お一人様?」


 何とも場違いな明るい調子に、今度はこっちが驚く番だ。デニム生地のエプロン姿の女性は慌てた様子で二つ並んだテーブル席を布巾で拭い始めた。爪先立ちになってテーブルの隅から隅まできれいに布巾を走らせる。テーブルがきれいになると、僕よりも少し歳下か、ボサボサに乱れた長髪に隠れた目を細めた笑顔でペコリと頭を下げた。


「ごめんなさい! お客様来るなんて思ってなかったからびっくりしちゃった!」


「お客って、ここは?」


「はい! わたし、明日からここで野菜スープ定食屋をやります! タカシナスープ店のタカシナカオレです!」


 スープ店って、人間のいなくなったこの街で飲食店を? 僕はタカシナさんの元気を通り過ぎて無鉄砲さを感じられる声に圧倒された。


「あなたはお客様第一号です! さあ、座っちゃって座っちゃって!」


 タカシナさんはじりじりと後ずさっていた僕の背後に回り込み、背中に小さな両手を押し当てるようにぐいぐい来た。店内の真ん中にセットされたとっておきのテーブル席に座らされ、両手のひらをみせるようにひらひらさせてくる。


「どうか落ち着いて! わたしもドキドキしちゃってます! 一週間ぶりに出会った人はお客様第一号で、たぶん、お向かいの小学校で野菜作ってる人ですよね? ずっと会いたかったんです! ああっ、やっと会えたわ!」


 落ち着くのはまずタカシナさんの方だ。ドギマギっぷりが空気越しに伝播しそうな慌てぶりだ。


「そうだけど、それが?」


 タカシナさんは厨房まで小走りに戻って、舞台俳優のような大袈裟な身振り手振りで一人で慌てふためいていた。


「ああっ、もう! せっかくのお客様だってのに、仕込みも何も出来てないよ!」


「大丈夫ですよ。お腹減ってないし、今日は食事しにきたわけじゃない。久しぶりに電気の灯りを見たから、誰かいるのかって見にきただけだし」


「じゃあコーヒーだけでも飲んでいきません? お野菜を分けて欲しいんです! もちろんちゃんとお礼もお支払いします! お金はもう使えそうにないから、出来上がった野菜スープで物々交換というカタチで!」


 タカシナさんは一気に捲し立て、タカシナさん史上最も素晴らしいであろう野菜スープ定食屋さんプロジェクトを語り出した。

 それは無計画にも程がある杜撰なプレゼンではあったが、夢がたっぷりと詰まっていた。まだ、こんなに夢を語れる人間がこの世にいたのか。僕は呆然と聞き役に徹した。


「こんな何にもない世界だけど、あなたの野菜とわたしの料理スキルがあれば異世界レストランにも負けない定食屋さんになれますって!」


 意味のわからないことを言って、タカシナさんは馨しい香りが立つコーヒーを淹れてくれた。ちゃんとミルで豆を挽いた本格派コーヒーだ。


「わたしと共同経営者になりません? いやいや、ぜひともなってもらわなくちゃ困ります! わたしは野菜育てられないから! 料理の腕ならあるけど」


 たしかにタカシナさんは料理が上手そうだ。コーヒーの香りからしてレベルが違う。それにまだコーヒー豆なんてあったのか。僕にとってこのコーヒーはまさしく異世界レベルだ。


「まあまずはコーヒーで乾杯しません? 野菜スープ定食屋さんの成功を願って!」


 自然と僕も定食屋さんの一員になっているようだ。悪い気はしなかった。異世界への穴に飛び込むよりもよっぽどやりがいのある仕事になりそうだし、育てている野菜も到底一人では食べきれる量じゃない。タカシナさんに野菜スープにしてもらった方が野菜たちにもいい未来だろう。

 いつのまにか僕はタカシナさんのペースにはまっていた。

 タカシナさんは饒舌に定食屋さんの明るいビジョンを語っていた。僕はコーヒーカップ片手にそれを聞いていた。

 コーヒーってこんな鮮やかな色してたんだ。

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